第17話 灰色亭
翌朝。
王都の宿。
アレンは動きやすい服へ着替えると、腰に剣を下げた。
「準備はいい?」
「はい。」
リリアが頷く。
同行するのは、リリアと護衛二人。
目的地は王都北区。
情報屋から知らされた酒場――灰色亭だった。
◇
灰色亭は、表通りから一本入った細い路地の奥にあった。
年季の入った木造の建物。
看板の文字も少し掠れている。
「ここか。」
「そのようですね。」
アレンが扉を開ける。
カラン。
小さな鈴が鳴った。
昼前だというのに、店内には何人かの客がいた。
酒を飲んでいる者。
低い声で話している者。
一人で食事をしている者。
扉が開いた瞬間。
いくつかの視線がアレンたちへ向けられた。
けれどすぐに興味を失ったように、それぞれの席へ戻っていく。
「……。」
アレンは何気ない様子で店内を見回した。
特別変わったところはない。
どこにでもありそうな古い酒場だ。
けれど情報屋の報告では、あの商人が最後に確認された場所でもある。
「いらっしゃい。」
カウンターの向こうから声がした。
昨日もそこにいた店主が、グラスを磨いている。
アレンはカウンターまで歩み寄った。
「こんにちは。」
「ああ。」
「少し聞きたいことがあるんだけど、いいかな。」
「内容によるな。」
「人を探してる。」
店主の手は止まらない。
「四十代くらいの商人で、酒を扱ってる。少し前に、この辺りへ出入りしていたはずなんだけど。」
「商人なんざ毎日のように来る。」
「そうだよね。」
「それだけじゃ分からねぇな。」
「そっか。」
アレンはそれ以上食い下がらなかった。
しばらくカウンターの奥へ視線を向ける。
酒瓶。
樽。
木箱。
どれも珍しいものではない。
「ちなみに。」
アレンが何気なく尋ねた。
「珍しい酒を扱う商人も来る?」
その瞬間。
店主が磨いていたグラスが、ほんの僅かに止まった。
「……さあな。」
すぐに手が動き始める。
「ここは酒場だ。酒を持ち込む奴なんざ珍しくねぇよ。」
「そう。」
アレンは微笑んだ。
「ありがとう。」
銅貨を数枚、カウンターへ置く。
「何も頼んでねぇぞ。」
「話を聞いてもらったから。」
「……。」
「お邪魔しました。」
アレンは踵を返した。
リリアと護衛たちも、その後に続く。
扉が閉まる。
カラン。
鈴の音だけが店内へ残った。
◇
灰色亭から少し離れたところで、リリアが小さな声で尋ねた。
「お気づきになりましたか?」
「うん。」
アレンは前を向いたまま頷く。
「珍しい酒って言った時だけ、手が止まった。」
「では、あの商人を知っていると?」
「そこまでは分からない。」
アレンは首を横に振った。
「でも、何かは知ってると思う。」
「もう少し問い詰めますか?」
「やめておこう。」
「よろしいのですか?」
「うん。」
アレンは一度だけ、後ろにある灰色亭へ視線を向けた。
「情報屋も不用意に踏み込むなって言ってたしね。それに、店主が僕たちを警戒してるなら、無理に聞いても何も出てこないよ。」
「では、一度引くと。」
「その方がいい。」
何より、店内には他の客もいた。
誰がこちらの話を聞いているか分からない。
――壁にも耳がある。
そんな場所なのだろう。
◇
その頃。
灰色亭では、カウンターの端に座っていた白髪の老人が、空になった杯を置いた。
「……ヴァルティエの若領主か。」
店主が老人を見る。
「知ってたのか。」
「顔は知らん。だが、連れの護衛を見りゃ、そこらの若造じゃないことくらい分かる。」
「そうかい。」
老人はカウンターへ硬貨を置いた。
「それにしても。」
「ああ?」
「もっと偉そうな奴かと思ってた。」
店主が鼻で笑う。
「貴族なんざ嫌いなくせに。」
「嫌いだよ。」
老人は立ち上がる。
「だから意外だったんだ。」
問い詰めることも、身分を笠に着ることもなかった。
ただ尋ねて、答えが得られないと分かれば、あっさり引いた。
「……変な奴だ。」
「放っとけ。」
「そうしたいんだがな。」
老人は一瞬だけ黙る。
そして、何も言わず店を出た。
路地を抜けたところで、先を歩くアレンたちの姿が見えた。
老人が目を細める。
その時、近くを歩いていた二人の商人の話し声が耳に入った。
「さっきの、アレン・ヴァルティエ卿らしいぞ。」
「ヴァルティエって、あの若い領主か?」
「ああ。酒好きで有名な。」
「こんなところまで何しに来たんだ?」
「さあな。」
「……アレン・ヴァルティエ。」
老人が小さく呟く。
そして少し考えた後。
近くで遊んでいた少年を手招きした。
「坊主。」
「なあに?」
「ちょっと頼まれてくれねぇか。」
老人は懐から紙を取り出すと、短く何かを書きつけた。
「これを、さっき歩いていった金髪の若い旦那に渡してくれ。」
「お兄ちゃん?」
「ああ。」
「分かった!」
少年は紙を受け取ると、アレンたちを追って駆け出した。
「お兄ちゃーん!」
「ん?」
声に振り返る。
一人の少年が、こちらへ向かって走ってくる。
「待ってー!」
「僕?」
「うん!」
少年はアレンの前で止まると、息を切らしながら紙を差し出した。
「これ! 渡してって!」
「僕に?」
「うん。」
アレンは紙を受け取る。
「誰から?」
「あっちにいたおじいちゃん。」
「どの人?」
「えっと……。」
少年が来た道を振り返る。
しかしそこにはもう、老人の姿はない。
「あれ?」
きょろきょろと周囲を見回す。
「いなくなっちゃった。」
「どんな人だった?」
「白い髪のおじいちゃん。」
「白髪……。」
アレンは灰色亭の中を思い返す。
何人も客がいた。
その中に。
(いた。)
カウンターの端。
一人で酒を飲んでいた老人。
「ありがとう。助かったよ。」
「うん!」
アレンが笑うと、少年も嬉しそうに笑った。
「じゃあね、お兄ちゃん!」
「気をつけて帰るんだよ。」
「はーい!」
少年は元来た道へ走っていった。
その背中を見送ってから、アレンは手元の紙へ視線を落とす。
「開けますか?」
「うん。」
リリアたちにも見えるように紙を開いた。
『灰色亭では話せない。
壁にも耳がある。
日暮れ、西門へ。』
それだけ。
名前も理由も書かれていない。
「……西門。」
「罠でしょうか。」
「分からない。」
アレンは紙を裏返す。
何もない。
「でも、この紙を渡してきたのは灰色亭にいた人だと思う。」
リリアの表情が険しくなる。
「行かれるおつもりですか?」
「うん。」
「アレン様。」
「分かってる。警戒はするよ。」
アレンは紙を丁寧に畳んだ。
「護衛にも来てもらう。ただし、西門では少し離れたところで待機してもらおう。」
「それでは何かあった際に――」
「すぐ動ける距離にはいてもらうよ。でも、護衛を二人連れて目の前に立ったら、相手も話しにくいでしょ。」
「……。」
「向こうから接触してきたんだ。少なくとも、何か話したいことはあるはず。」
「罠でなければ、ですが。」
「うん。」
アレンもそこは否定しない。
「だから、何かあったらすぐ合図する。」
リリアはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「承知しました。ですが、私も離れた場所で待機いたします。」
「分かった。」
「絶対にお一人で追いかけたりしないでくださいね。」
「しないよ。」
「昨日の『たぶん』は?」
「……今日は言わない。」
「では信じます。」
「信用ないなあ。」
「日頃の行いです。」
「僕、そんなに無茶してる?」
「自覚がないのが一番困ります。」
「ひどい。」
アレンは苦笑しながら、もう一度紙を見る。
日暮れ。
西門。
そこに何が待っているのか。
◇
夕暮れ。
王都の西門。
空は茜色に染まり、一日の仕事を終えた荷馬車が、次々と門を抜けていく。
アレンは一人。
門から少し離れた場所に立っていた。
リリアと護衛二人は、すぐに駆けつけられる距離で待機している。
「……。」
懐の紙へ手を添える。
まだ白髪の老人の姿はない。
行き交う人々へ視線を巡らせる。
その時。
「ちゃんと来たか。」
「!」
背後から低い声がした。
アレンが振り返る。
そこには、灰色亭で見かけた白髪の老人が立っていた。
老人はアレンを見ると、皺の刻まれた目を、僅かに細めた。
「ヴァルティエの若旦那。」
アレンも静かに老人を見返す。
「僕を呼んだのは、あなた?」
「ああ。」
老人は周囲を一度だけ確認した。
そして声を落とす。
「探してるんだろ。」
「……何を?」
老人の目が真っ直ぐアレンへ向けられる。
「あの印のついた酒を運んだ男を。」
アレンの表情から笑みが消えた。




