第15話 探る者、探られる者
慈善夜会から五日後。
ローラン家の庭園。
ヴィオレットは木陰の長椅子に腰掛け、本を読んでいた。
初夏の穏やかな風が、紫色の髪を揺らしていく。
「お嬢様。」
声に顔を上げる。
いつもの侍女が、静かに歩み寄ってきた。
「お客様がお見えです。」
「どなたでしょう。」
「珍しい香辛料を扱っているという商人です。ぜひ、お嬢様に直接ご紹介したいと。」
「私に?」
「はい。」
侍女はそこで、僅かに声を落とした。
「ですが……少々、気になることが。」
ヴィオレットの指が、本の頁を閉じる。
「どのような?」
「商人にしては、商品よりも屋敷の様子を気にしているように見受けられます。」
「……そう。」
ヴィオレットは立ち上がった。
「お会いしましょう。」
「よろしいのですか?」
「ええ。せっかく来てくださったのですもの。」
柔らかな笑み。
けれど、侍女の横を通り過ぎる直前。
「いつもの準備を。」
小さく囁いた。
「かしこまりました。」
◇
応接室。
「突然の訪問にもかかわらず、お時間をいただきありがとうございます。」
商人は深々と頭を下げた。
「珍しい香辛料が手に入りましたので、ぜひローラン家の皆様にもと思いまして。」
「まあ。それは楽しみです。」
ヴィオレットは柔らかく微笑むと、ゆっくりと椅子へ腰を下ろした。
その動きに合わせるように、侍女がさりげなく椅子を支える。
「ありがとうございます。」
「いいえ。」
商人がその様子を見ている。
ヴィオレットは気づかないふりをした。
やがて紅茶が運ばれてくる。
その隣には、小さな薬瓶が置かれていた。
「あら。」
ヴィオレットは薬瓶へ手を伸ばす。
「もう、その時間でしたのね。」
「はい、お嬢様。」
「忘れるところでした。」
薬瓶から一粒取り出す。
水とともに飲み込んだ。
商人が何気ない口調で尋ねる。
「お薬ですか?」
「ええ。毎日欠かせないもので。」
ヴィオレットは少し困ったように笑った。
「昔から身体が丈夫ではありませんので。」
「それは……失礼いたしました。」
「いいえ。お気になさらないでくださいませ。」
微笑んで。
紅茶へ口をつける。
どこから見ても身体の弱い伯爵令嬢だった。
◇
商人が持参した香辛料は少なくとも、偽物ではなかった。
「こちらは南方から入ったものでして。」
「まあ。とても良い香りですね。」
「肉料理に少量使うだけでも、風味が随分と変わります。」
「料理長が喜びそうです。」
ヴィオレットは興味深そうに話を聞いていた。
やがて商人が何気ない様子で話題を変える。
「そういえば、先日の慈善夜会も盛況だったそうですね。」
「ええ。」
「ローラン嬢もご出席されたとか。」
「久しぶりに体調が良かったものですから。」
「長時間の夜会は、お身体に障るのでは?」
「少し疲れてしまいました。」
ヴィオレットは困ったように微笑んだ。
「翌日は、ほとんど寝て過ごしてしまいましたわ。」
「それは大変でしたな。」
「慣れておりますから。」
その時。
「こほっ……。」
小さく咳き込む。
「お嬢様。」
すぐに侍女が背中へ手を添えた。
「大丈夫です。少し喉が。」
「お休みになりますか?」
「いいえ。お客様の前ですもの。」
「ですが。」
「本当に大丈夫です。」
商人はそのやり取りを黙って見ていた。
「どうか、ご無理はなさらず。」
「ありがとうございます。」
ヴィオレットは儚げに笑った。
そして商人が再び口を開く。
「その夜会では、アレン・ヴァルティエ卿ともお話をされたとか。」
ヴィオレットの表情は変わらなかった。
ただ。
(やはり。)
内心でそれだけ呟いた。
香辛料を売りたいだけの商人が何故、そこでアレン卿の名前を出すのか。
「ええ。アレン卿とは、少しお話をいたしました。」
「どのようなお方なのでしょう。」
「噂とは少し違う方です。」
「と申しますと?」
「遊び人と伺っておりましたので、もっと軽薄な方なのかと思っておりました。」
ヴィオレットは僅かに笑う。
「ですが実際のアレン卿は、とても誠実な方でした。」
「随分と好印象なのですな。」
「命を助けていただいたこともございますから。」
「命を?」
「市場で体調を崩した際に、支えていただいたのです。」
嘘ではない。
支えようとしてくれた。
結果的に、自分がアレンを押し倒しただけで。
「なるほど。」
商人は頷く。
「では、親しくなさっているので?」
「いいえ。」
ヴィオレットは穏やかに否定した。
「夜会でお会いすれば、ご挨拶をする程度です。」
「先日は随分と長くお話をされていたと聞きましたが。」
「まあ。」
ヴィオレットが目を瞬く。
「よくご存じなのですね。」
「……。」
ほんの僅か、商人の表情が固まった。
だがすぐに笑う。
「慈善夜会は多くの者が参加しておりましたから。噂で耳にしただけですよ。」
「そうでしたの。」
ヴィオレットは微笑む。
「ですが、本当にそれだけです。アレン卿とは、まだ数えるほどしかお会いしておりませんもの。」
「なるほど。」
商人も笑う。
それ以上、アレンについて尋ねることはなかった。
◇
商談が終わり、商人が立ち上がった。
「では、本日はこれで失礼いたします。」
「こちらこそ。珍しいものを見せていただき、ありがとうございました。」
ヴィオレットも立ち上がる。
その瞬間。
「……っ。」
身体がふらりと揺れた。
「お嬢様!」
侍女がすぐに身体を支える。
「申し訳ありません……少し、立ちくらみが。」
「大丈夫ですか?」
「ええ。いつものことですから。」
「……。」
商人はヴィオレットを見た。
細い身体。
青ざめた顔。
侍女に支えられなければ立っていることさえ難しい。
少なくとも、目の前の令嬢から、何かを探っているような気配は感じられない。
「どうぞ、ご自愛ください。」
「お気遣いありがとうございます。」
ヴィオレットは弱々しく微笑んだ。
◇
ローラン邸を離れた馬車の中。
男は窓の外を眺めていた。
「……ただの病弱な令嬢か。」
慈善夜会でアレンと長く話していた。
市場でも一緒にいたという。
何かあるのではないかと思ったが、実際に会ってみれば、聞いていた噂と大きな違いはなかった。
病弱。
夜会への出席も少ない。
アレンとは、顔を合わせれば会話をする程度。
それ以上の関係を示すものは、少なくとも今日のところは見つからなかった。
男は目を閉じる。
あとは見たものを、そのまま報告すればいい。
◇
ローラン邸。
門が閉まる。
馬車の音が遠ざかっていく。
「……。」
ヴィオレットは窓際に立ったまま。
その音が完全に聞こえなくなるまで待った。
「行きました。」
侍女が告げる。
「ええ。」
ヴィオレットは背筋を伸ばした。
先ほどまでの弱々しさが一瞬で消える。
「随分と分かりやすい方でしたね。」
「やはりアレン卿が目的でしょうか。」
「おそらく。」
ヴィオレットは椅子へ腰を下ろす。
「香辛料の説明より、私とアレン卿の関係を知ることにご興味がおありのようでしたもの。」
「どなたの差し金でしょう。」
「そこまでは、まだ。」
ヴィオレットは机の上の薬瓶へ手を伸ばした。
指先で転がす。
「ところで、お嬢様。」
「何でしょう?」
「お薬の効き目はいかがでした?」
「とてもよく効きましたわ。」
「左様でございますか。」
「ええ。」
ヴィオレットは微笑んだ。
「ただの栄養剤ですけれど。」
「存じております。」
「なら聞かないでくださいませ。」
侍女が小さく笑う。
ヴィオレットも口元を緩めた。
けれどすぐに表情を戻す。
「それより。」
机の引き出しを開けた。
中には一本の酒瓶。
瓶底には、アレンから調査を依頼された、あの刻印がある。
「こちらを優先しましょう。」
「刻印の調査ですね。」
「ええ。」
ヴィオレットは瓶を手に取る。
表向きの商会でも。
酒蔵でも使われていない印。
ならば探すべき場所は別にある。
「裏で荷を扱う者たちを当たります。」
「承知いたしました。」
「それから。」
「はい?」
ヴィオレットは僅かに目を細めた。
「先ほどの商人についても、身元を調べてください。」
「かしこまりました。」
偶然なのか。
それとも、アレンを狙っている者と繋がっているのか。
今はまだ分からない。
だからこそ調べる。
ヴィオレットは酒瓶をランプの光へ翳した。
「さて。」
紫色の瞳が。
瓶底の小さな刻印を捉える。
「どちらから辿り着けるでしょうね。」
アレン卿を狙う者か。
それともこの刻印を残した者か。
別々に見える二つの糸が、同じ場所へ繋がっている可能性は。
まだ誰にも分からなかった。




