第三話 漕ぎ出す
各々の芽吹きはちいさくも、確かなもの。
遅筆のため、不定期投稿。
気長にお付き合いいただければ。
春は、来なかった。雪が消えただけだった。
灰色の空は低く垂れ込め、湿った風が砦の石壁を撫でていく。
軒先から絶え間なく雫が落ち、地面は泥へ変わっていた。
雪解けという言葉には、本来もっと穏やかな響きがあるはずだった。
だがこの土地では違う。
雪が溶けると、川が暴れる。地面が腐る。道が沈む。家畜が病み、人が疲れる。
冬を越えた者たちは安堵する前に、春の災厄へ備えなければならなかった。
朝、私は中庭へ出た。泥が深い。
兵士が一人、荷車の車輪を蹴って悪態を吐いていた。
「沈みやがる……」
車輪は半ばまで埋まっている。昨日まで凍っていた土が、水を含んで崩れていた。
私はそれを見下ろした。道が死んでいる。
このままでは荷車が動けない。つまり塩も、小麦も、鉄も届かない。
辺境では、道は血管だった。止まれば領地が死ぬ。
「坊ちゃん」
声をかけてきたのは兵士のダンだった。鼻の潰れた男で、相変わらず無精髭が酷い。
「また難しい顔してますな」
「道が沈んでるね」
「春ですからな」
当然のように返される。私は黙った。
当然。
それが問題だった。皆、慣れている。
毎年同じように道が沈み、畑が腐り、川が溢れる。
だから誰も変えようとしない。変わらないと思っているからだ。
食堂では、ガレスがパンを千切っていた。硬い黒パンだった。
去年よりさらに薄い。
エレノアは帳面を開いている。横顔が疲れていた。
「南村の種籾が足りません」
「どれほどだ」
「二割ほど」
ガレスは黙ってスープを啜る。
塩が薄い。私もその味に慣れ始めていた。慣れるべきではないと思いながら。
「伯爵家からの荷は」
ガレスが問う。エレノアは少し間を置いた。
「干し肉と燕麦。それから古い馬具が少し」
少ない。だが、来ただけでも助かる。そして分かっていた。
伯爵は限界まで援助している。露骨にならない範囲で。
それでも中央貴族たちは目を光らせているはずだ。
“辺境の騎士上がり”が潰れずにいることを快く思わない者は多い。
ガレスは文句を言わなかった。言っても意味がないからだ。
朝食のあと、倉庫へ向かった。
扉を開けると、湿気の匂いがした。嫌な匂いだった。
袋積みされた穀物の一部が黒ずんでいる。カビだ。
ロベールが顔をしかめた。
「これは駄目なの」
「全部ではありません」
老人は袋を開き、中を確認する。
「上は使えます」
「下はどうなるの」
「家畜用でしょうな」
言葉を失った。
湿気。この土地の敵は寒さだけではない。
水。余分な水が全てを腐らせる。
木、土、食料、そして人。
前世でも梅雨はあった。だがここでは、湿気は命を削る。
「床を高くできないの」
ロベールが眉を動かした。
「床?」
「木を敷いて、地面から離してみる」
老人は少し考える。
「……木が要りますな」
「余ってる端材でもいいと思う」
「試してみますか」
私は頷く。小さいことでいい。全部は変えられない。
だが一つずつ減らせる。
損耗、腐敗、死を。
昼頃、村へ出た。春の村は静かだった。いや、疲れていた。
人々は皆、泥に足を取られながら働いている。
流された柵を立て直し、崩れた屋根へ藁を乗せ、腐った木材を運び出す。
冬が終わったのに、顔は明るくならない。春は回復の季節ではない。
冬で壊れたものを修復する季節だった。
川沿いでは、農民たちが畑を見つめていた。
水が引いていない。地面が黒くぬかるんでいる。
年老いた農民が吐き捨てる。
「また腐る」
誰も否定しない。
私は畑へ降りた。靴が沈む。酷い。
水が残りすぎており、排水が間に合っていない。
「溝を掘ったらよくならないかな」
口にすると、近くの男が笑った。乾いた笑いだった。
「坊ちゃんの癖が、また始まった」
「やってみる価値はあるんじゃない」
「毎年やってますよ、毎年ね」
「もっと深くしてみれば」
「掘っても埋まってしまいますな」
別の男が言う。
「春の水は止まらねえ」
諦めきった声だった。彼らを見た。痩せている。冬を越えた顔だった。
その疲労の前では、理屈は軽い。
「……少しでも抜ければ違うと思うんだ」
「違いやしませんよ」
男は泥を蹴った。
「川は毎年こうでさぁ」
それで話は終わった。
私は反論しなかった。
彼らは怠けているわけではない。負け続けただけだ。
長く、何年も、何十年も。
その帰り、崩れた土塁の前で立ち止まった。
去年積み直した場所だった。杭列は残っている。以前より削られていない。
だが完全ではなかった。
流れの強い場所はまた崩れている。
私は泥へしゃがみ込んだ。
土を掴む。柔らかい。水を含みすぎている。
前世の知識が頭を巡る。完全な治水など無理だ。
だが方法はある。
少しずつなら。流れを分ける、水を逃がす、地面を乾かす。
問題は、人だ。
人手がない、余裕もない。皆、生きるだけで限界だった。
夕方、砦へ戻ると、兵士たちが騒いでいた。
中庭へ出る。
荷馬車が一台止まっていた。馬が泡を吹いている。
御者は泥だらけだった。
「南道が崩れた!」
ガレスが出てくる。
「どこだ」
「石橋の手前です! 地盤ごと!」
兵士たちが顔を見合わせた。アルノーも嫌な予感がした。
南道は伯爵領へ繋がる主要道だった。そこが死ねば援助も遅れる。
塩が止まり、鉄が止まる。
「死人は」
「二人」
ガレスの顔が硬くなる。
「修復は」
御者は首を振った。
「水が止まりません」
春だった。この土地では、水は敵になる。
その夜、ガレスは地図を見ていた。蝋燭の火が揺れている。
私は黙って横へ立つ。
「橋を捨てるのですか」
ガレスが顔を上げた。
「捨てれば南村が孤立する」
「でも直せないものでは」
「分かっている」
声に苛立ちが混じる。珍しかった。
疲れているのだ。
兵も足りず、農作業が始まる。
その中で橋まで直す余裕はない。
「丸木橋ならどうでしょう」
私は続ける。
「仮設で、春水で流れます」
「石橋より安くできます」
ガレスは黙る。
それでも続けた。
「馬車を諦めて、人と馬だけでも通すのは」
沈黙。暖炉が爆ぜた。
やがてガレスが言う。
「……お前はいつも“減らす”のだな」
「はい……」
「よい。諦める場所を決める」
父を見た。
前世で学んだことだった。全部を守ることはできない。
だから選ぶ。守れる範囲、損耗を減らすために。
ガレスは長く息を吐いた。
「嫌な考え方だ」
「皆が生きるためには必要です」
「……ああ」
父は否定しなかった。
翌日から、私は村の端で溝を掘り始めた。一人で。
子供用の小さな鍬だった。泥が重い。身体が小さい。すぐ腕が痛くなる。
だが掘った。
畑の低い場所から、小川へ向かって浅い溝を伸ばす。
農民たちは笑っていた。
「坊ちゃんのお遊びですなぁ」
「その歳なら泥遊びですかい」
誰も本気にしていない。私も説明しなかった。説明では人は動かない。
見せるしかない。
昼頃、レオンが来た。長靴が泥だらけだった。
「兄さま、なにしてるの」
「水を逃がしてるんだ」
「みず?」
「ほら。ここ、水が残ってるだろ」
レオンは真面目な顔で地面を見た。
「ぬるぬる」
「そうだね」
「兄さま、ぼく、これいや」
「俺も嫌だね」
レオンはしばらく考え、突然しゃがみ込んだ。小さい手で泥を掘り始める。
侍女が悲鳴を上げた。
「レオン様!」
私は少し笑った。弟は素直だった。
夕方、雨が降った。冷たい春雨だった。溝を見に行く。水が流れている。
少しだけ、ほんの少しだけ。だが動いていた。
畑に溜まっていた水が、小川へ逃げている。
私は黙ってそれを見ていた。
背後から声がする。
「……流れてますな」
ダンだった。
兵士は鼻を擦る。
「偶然じゃねえんですかい」
「かもしれない」
「どっちなんですかい」
私は肩を竦めた。
ダンはしばらく溝を見る。
「まあ……乾けば種は撒けるか」
「少しだけならね」
兵士は笑った。
「少しで十分な土地ですな、ここは」
その言葉に、返事ができなかった。
数日後。
村の一角で、別の溝が掘られていた。農民が二人、無言で鍬を振るっている。
私は立ち止まった。先日笑っていた男たちだった。
彼らは私を見ると、気まずそうに顔を逸らす。
「……坊ちゃんの真似をしただけですが」
年老いた農民が言った。
「水が抜けりゃ儲けもんだ」
私は頷いた。それでいい、少しでいい。
人は奇跡では動かない。だが、目の前で泥が乾けば動く。
春は続いた。雨も続いた。灰蛇川は何度も増水した。
そのたび兵士たちは土塁へ走る。杭を打ち直し、土嚢を積み、夜通し見張る。
完全には防げない。それでも以前ほど崩れなかった。
農民たちも気付き始めていた。
「去年よりましだ」
その言葉が、少しずつ広がる。希望ではない。だが諦めだけでもなくなっていた。
ある夜、私はガレスと共に見張りへ立った。
風が冷たい。川は闇の中で唸っている。
「父上」
「なんだ」
「どうしてここへ来たんですか」
ガレスは黙った。
珍しく長い沈黙だった。
やがて低く言う。
「命令だ」
「それだけじゃない」
ガレスは川を見る。
「……昔、王都で戦った」
「はい」
「勝った」
短い言葉だった。だがその裏に多くがあると分かった。
「勝ちすぎた」
はっとして、父を見た。ガレスは苦く笑う。
「騎士は戦えばいい。だが目立ちすぎるな。そういうことだ」
風が吹く。遠くで狼の声がした。
「後悔しているのですか」
「していない」
即答だった。
「俺は部下を連れて帰った。民も逃がした。だから後悔はない」
ガレスは土塁へ手を置く。ごつごつした手だった。
「……だが、戦場より難しいな」
「領地ですか」
「ああ」
彼は笑った、疲れた顔で。
「剣で川は止まらん」
私も小さく笑った。
「だから私たちは土を積むのでしょう」
ガレスは何も言わなかった。だがその沈黙は、以前より柔らかかった。
春の終わり頃。南村の畑で、小さな芽が出た。
痩せた麦だった。だが確かに根付いていた。
農民たちは無言でそれを見ていた。誰も大声では喜ばない。
この土地では、収穫するまで安心できないからだ。
風が吹けば、雨が続けば、害獣が踏めば終わる。
それでも、芽は出た。
私は畑の端に立ち、それを見つめていた。
泥の匂いがする。湿った土の匂いだった。生きている土の匂いでもあった。
「兄さま!」
レオンが走ってくる。転びそうになりながら。
「みどり!」
「ああ」
「すごい!」
私は弟の頭を撫でた。
その向こうで、農民たちが黙って働いている。兵士が土塁を見回っている。
侍女が洗濯物を運んでいる。
皆、生きていた。ただ生きるために動いている。
派手さはない。英雄もいない。
だが誰かが土を積み、誰かが水を逃がし、誰かが薪を割ることで、この土地は今日も残っている。
私は空を見上げた。灰色だった。春はまだ寒い。それでも冬は終わっていた。
終わったからこそ、新しい苦難が始まる。この土地はそういう場所だった。
だからこそ、護らなければならない。
剣ではなく、怒号でもなく、積み上げた土で、人の手で。
私は湿った風を吸い込み、静かに歩き出した。
剣でなく、手にするものは。




