第二話 泥濘に立つ
敵は人にあらず
遅筆のため、不定期投稿。
気長にお付き合いいただければ。
雨は三日続いた。四日目に雪へ変わった。
中庭の泥は凍り、荷車の轍が白く埋まった。
兵士たちは肩を丸め、濡れた薪に悪態を吐きながら見張りを続けていた。
私は窓辺に立ち、それを見ていた。
黒狼。北道を襲った獣の名だ。
狼と呼ばれていたが、普通の狼ではないらしい。
兵士たちの話では、人の背ほどもある個体が群れを作るという。
だが問題は獣そのものではなかった。
荷馬車が止まった。それが致命的だった。
塩が入らない。干し肉が減る。鉄釘が届かない。
辺境とはつまり、道が死ねば終わる土地だった。
その夜、ガレスは食堂で地図を広げていた。粗末な羊皮紙で、染みが多い。
私が近づくと、父は顔を上げた。
「寝ていろ」
「眠れません」
「熱は」
「下がりました」
ガレスは鼻を鳴らした。それ以上は言わない。
机の上には木札が並んでいた。村、備蓄、兵数。
自然と目が行く。少ない。兵は二十八。動ける農民は百を切る。馬は七頭。
私は地図を見た。川が一本、領地を横断している。
幅が広い。蛇のように曲がり、村を舐めるように流れていた。
「灰蛇川だ」
ガレスが言った。
「春になると暴れる」
私は頷いた。
川幅が一定ではない。流路が不安定だ。土も柔らかい。
前世の知識がなくとも、見れば分かる。氾濫する川の形だった。
「土塁は?」
口にしてから、自分で気付いた。五歳児の言葉ではない。
ガレスが怪訝そうに眉を動かす。
「……なんだと?」
「川沿いです。積んでいないんですか」
しばらく沈黙があった。暖炉の薪が爆ぜる。やがてガレスは短く答えた。
「積んでも流される」
それだけだった。諦めの混じった声だった。私は黙った。
この土地は長く負け続けている。そう思った。
冬は急速に深くなった。雪は腰まで積もり、空は灰色のままだった。
朝になると、まず井戸の氷を割る音が響く。次に家畜の鳴き声。
そのあとで、人間が動き出す。兵士たちは朝から疲れた顔をしていた。
寒さは人を削る。薪も減り続けていた。
食事も変わった。豆粥が増え、肉が減った。パンが小さくなった。
誰も文句を言わない。言える空気ではなかった。
ある朝、兵士の一人が倒れた。見張り中だった。
凍傷で指が青黒くなっていた。
ガレスは怒鳴った。
「なぜ交代しなかった!」
兵士は青い顔で震えていた。
「申し訳……ありません」
理由は分かっていた。交代人員が足りないのだ。
ガレスも理解していた。だからそれ以上怒鳴れなかった。
私はその様子を廊下から見ていた。
兵が、薪が、塩が足りない。全部が足りていない。
この家はずっと不足の中で生きている。
その夜、エレノアが私を呼んだ。
母の部屋は静かだった。暖炉の火も弱い。
彼女は机に向かい、書簡を書いていた。蝋燭の火が揺れている。
「座りなさい」
私は椅子へ座った。エレノアは羽根ペンを置いた。
「あなた、最近よく倉庫を見ているわね」
私は答えなかった。否定しても意味がない。
彼女は続けた。
「何を見ているの?」
「足りるかどうかです」
「何が?」
「全部です」
エレノアは少し黙った。
そして小さく息を吐く。
「……五歳の子供の言葉ではないわね」
私は母を見た。この人は鋭い。誤魔化しきれない。
「熱で少し変わったのかもしれません」
「便利な言葉ね」
笑ってはいなかった。その目は観察者のものだった。
私は視線を逸らした。エレノアは再び書簡へ目を落とす。
「伯爵家へ援助を頼むのですか」
彼女の手が止まった。
「誰から聞いたの?」
「聞いてません」
「……なら、どうして分かったの」
「食器が減っています」
沈黙。私は続けた。
「銀器を売った」
「……」
「塩も減っている。兵も少ない。北道も止まった。冬を越せません」
エレノアはしばらく何も言わなかった。
やがて、ゆっくりと椅子へ背を預け、眉根を寄せる。
「あなた、本当に何なのかしら」
答えられなかった。私にも分からない。
ただ一つ分かるのは、この家は崖の上に立っているということだった。
冬至を過ぎた頃、最初の死人が出た。
老人だった。村外れの木こり。凍死だった。
酒を飲み、吹雪の中で眠ったらしい。誰も泣かなかった。死は珍しくなかった。
ガレスは埋葬だけ命じた。
土は凍っていた。
兵士たちは斧で地面を砕きながら穴を掘った。私はそれを見ていた。
人が死ぬ。
前世でも理解していたつもりだった。だが、ここでは距離が近い。
死体が白い。冷たい臭いがする。その夜、私は眠れなかった。
暖炉の火が小さい。寒さで指先が痛んだ。
レオンが隣で寝息を立てている。小さな身体だった。
私はその頭を見つめていた。守れるのか。不意にそう思った。
この家を、この弟を。これから生まれるかもしれない家族を。
私は前世で、誰かを守ったことがあっただろうか。
記憶を探る。
仕事、稽古、酒。それだけだった。
気付けば、守られる側の人生を終えたことがない。それが少し嫌だった。
二月、灰蛇川が動き始めた。
まだ雪は深い。だが川の色が変わった。濁っている。
兵士たちの顔も変わった。皆、川を見ていた。
恐れている。
「雪解けが早い」
執事が呟く。ガレスは無言だった。
三日後、川が溢れた。夜だった。
鐘の音で目が覚めた。
怒鳴り声、足音、女の泣き声。
私は毛布を蹴飛ばして廊下へ出た。冷気が刺さる。
兵士たちが走っていた。
「西岸が切れた!」
「家畜を上げろ!」
「子供を先に運べ!」
ガレスが中庭に立っていた。
雨の中だった。雪ではない、冷たい雨だ。
最悪だった。
私は窓から川を見た。黒かった。
巨大な生き物のようにうねっている。
土塁は低い。濁流が越えていた。
農地が沈む、柵が流される、馬が暴れていた。
「縄を持て!」
ガレスが怒鳴る。兵士が二人、濁流へ入った。一人が流された。
叫び声が消える。誰も止まらない、止まれない。
私はその光景を見ていた。これが、この土地の敵だった。
戦争ではない。
川だ。
夜明けまで雨は続いた。村の一部が沈んだ。
家畜が二十頭流され、畑も消えた。
春前の備蓄まで削られた。
ガレスは朝まで立ち続けていた。泥だらけだった。
兵士たちも同じだった。皆、疲れ切っていた。
だが誰も喚かない。喚く力もない。
私は崩れた土塁の前へ立った。
泥が靴へ絡みつく。冷たい。
川は何事もなかったように流れていた。
それを見て、私は理解した。
この土地では、人は毎年、自然に負ける。
だから貧しい。だから擦り減る。だから皆、黙る。
勝てない相手に怒鳴っても意味がない。
「アルノー」
振り返る。ガレスの顔色は悪い。片脚を引きずっている。
「部屋へ戻れ」
「土を積み直さないと」
ガレスが目を細めた。
「……分かるのか」
「このままだと次も切れます」
しばらく沈黙。風が冷たかった。
やがてガレスは泥の川を見た。
「積んでも流される」
以前と同じ言葉だった。だが今度は違った。諦めではなく疲労だった。
私は崩れた土を見下ろした。
湿っており柔らかい。杭が浅い。排水も悪い。
やり方はある。多分。完璧ではなくても、少しは。
「……なら」
私は言った。
「流されにくくします」
ガレスは笑わなかった。怒りもしなかった。ただ疲れた目で私を見た。
その視線の意味を、私はまだ理解できなかった。
春は遅かった。
雪は長く残り、土は腐ったように湿っていた。
だが、灰色だった世界に少しずつ色が戻り始める。
兵士たちは崩れた柵を直していた。農民たちは流れた畑を均している。
皆、黙って働いていた。生きるためだった。
私は土塁の上に立っていた。冷たい風が吹く。
川は静かだった。だがまた暴れる、必ず。
私はその流れを見下ろした。
この土地は、人を簡単に殺す。冬も、川も、飢えも。
だから守らなければならない。剣ではなく、怒号でもなく、積み上げた土で。
私は泥を踏み締めた。そのとき初めて、ここが自分の生きる土地なのだと思った。
ぬかるみを変えるには




