第一話 目覚め
遅筆のため、不定期投稿。
気長にお付き合いいただければ。
雨と埃の匂いで目が覚めた。
石造りの天井、低い梁。煤けた壁、薄暗い部屋。ここは、どこだ。
私はしばらく瞬きを繰り返した。身体が重い。喉が乾いている。
起き上がろうとして、失敗する。腕が短い、視界が低い、力が無い。
そこでようやく気が付く。私は子どもになってしまった。
言葉が出てこない。窓の外では雨が降っている。
細い雨だった。屋根を打つ音が静かに続いている。
私は掌を見つめる。小さく、白く、傷一つない。
四十二年間使い潰した手ではなかった。その記憶だけが、妙に鮮明だった。
蛍光灯、湿ったアスファルト。コンビニ袋の重み、横断歩道。
けたたましいブレーキ音。思い出したところで、頭痛が走った。
私は額を押さえる。
そのとき、扉が開いた。
「アルノー様」
女が入ってきた。
三十代半ばほど、痩せた女だった。使用人らしい黒衣を着ている。
彼女は私を見て眉をひそめた。
「どうされました」
私は答えなかった。答えられなかった。言葉が咄嗟に出ない。
女は近づき、額に手を当てた。
「熱は下がったようですね」
熱、その単語で理解した。病気だったらしい。
女は水差しから椀へ水を注いだ。
「ゆっくりお飲みください」
私は受け取る。
指が震えた。冷たい水だった。やけに美味かった。
女はそれを見て、少しだけ表情を緩めた。
「旦那様も奥方様も安心なさいます」
旦那様、奥方様。その言葉が、妙に自然に頭へ入ってきた。
知らないはずなのに。同時に、別の記憶が流れ込んできた。
石壁の城、寒い廊下、馬、雪、黒い森。
頭の奥で、二つの人生が混じり合う。吐き気がした。
「……アルノー様?」
私は息を吐いた。
「……水を」
掠れた声だった。だが言葉は通じた。
使用人は安堵したように頷いた。
「お待ちください」
彼女が部屋を出る。私――アルノーは天井を見上げた。
死んだらしい。
そして別の人生が始まった。
理解は早かった。混乱しても状況は変わらない。
それは前の人生で嫌というほど学んでいた。
まず確認するべきは、どこで、誰で、何を持っていて、何が足りていないか。
それだけだ。
アルノーはゆっくりと身体を起こした。
小さい身体だった。五歳前後。筋力が足りない。熱病の後遺症か、関節も重い。
窓へ向かう。
裸足で石床に降りた瞬間、冷たさが刺さった。
冬が近い。
窓の外には中庭が見えた。小さな城塞だった。塔は一つ、外壁は低い。
兵士が二人、雨の中で槍を持って立っている。痩せた馬、泥、濡れた薪。
貧しい。それが最初の感想だった。
城ではない、砦だ。しかも辺境の。
そのとき、中庭に男が現れた。大柄だった。灰色の髭、片脚を引きずっている。
剣帯を下げていた。
男は兵士に何か言うと、自分で木箱を運び始めた。
兵士は慌てて止めようとしたが、男は怒鳴った。
よく通る声だった。兵士たちは縮こまり、箱を受け取る。
アルノーはその光景を見ていた。
自然と分かる。あれが父親だ。
同時に理解した。この家は余裕がない。主人自ら荷を運ぶ家に、蓄えはない。
そのとき、部屋の扉が勢いよく開いた。
「兄さま!」
小さな子供が飛び込んできた。三歳くらい、金髪。鼻水を垂らしている。
後ろから若い侍女が追いかけてきた。
「レオン様、走ってはいけません!」
子どもはアルノーへ抱きついた。
「なおった!」
アルノーは困った。子供の扱いは慣れていない。それでも頭を撫でた。
「……まだ少し痛む」
「いたいの?」
「ああ」
レオンは真顔になった。
「くすりのむ?」
「そうする」
それで満足したらしい。何度も頷いた。
侍女は恐縮したように頭を下げる。
「申し訳ありません、アルノー様」
「構わない」
自然に言葉が出た。その瞬間、自分で少し驚いた。
“アルノー”として喋っている。
人格が混じり始めていた。記憶だけではない。感情も侵食している。
レオンがまた抱きついてくる。小さく、暖かい。
アルノーは黙って弟の頭を見下ろした。
前世には子供はいなかった。結婚もしていない。
仕事と、稽古と、酒。それだけだった。
妙な気分だった。
その日の夕食は硬い黒パンと塩スープだった。肉は少なく、豆が多い。
食堂は寒かった。暖炉の火が弱い。薪を節約している。
長テーブルの上には銀食器が並んでいたが、どれも古かった。
父――ガレスは無言でスープを啜っている。
母――エレノアは静かにアルノーを見ていた。
鋭い目だった。
「熱はもう?」
「下がりました」
アルノーは答えた。
ガレスが鼻を鳴らす。
「医者を呼ぶ金が飛んだ」
冗談ではない、事実だった。アルノーは黙っていた。
その沈黙を、エレノアは観察していた。
「何か考え事?」
アルノーはスープを見た。
塩が薄い。食料事情が悪いのか。
いや、違う。塩を、食料を節約している。
冬への備えが足りないのか。
そこまで考えて、手が止まった。五歳児の思考ではない。
エレノアが細めた目をさらに細くする。ガレスは気づいていない。
「冬前だ。倉を閉める」
「もうですか」
エレノアが言った。
「早いでしょう」
「北道で狼が出た。荷馬車が止まる」
ガレスは淡々としていた。
「今年は荒れる」
アルノーは父を見た。
この男は馬鹿ではない。戦場の匂いを知っている。
だが政治家ではなく、戦士だ。だから領主として危うい。
食後、アルノーは一人で廊下を歩いた。
石壁が冷えていた。窓の外では雨が雪へ変わり始めている。
冬が来る。理由もなく、それが分かった。
倉庫を見たいと思った。確認する必要がある。
備蓄量、兵数、家畜、井戸―。この家は多分、危うい。
階下へ降りる途中、声が聞こえた。
ガレスだった。
「今年は税を減らす」
「しかし旦那様」
老いた男の声。執事だろう。
「倉が保ちません」
「飢えた農民から取れるものはない」
「兵の給金が払えなくなります」
沈黙。
やがてガレスが低く言った。
「それでも取れん」
アルノーは暗がりで立ち止まった。
その言葉は正しい。だが正しいだけでは領地は残らない。
兵が離れれば終わる。冬を越せない。
前世で何度も見た。理想論だけでは組織は潰れる。
ガレスは善人だった。だから、長くは持たない。
私は冷えた石壁に手を当てた。湿っている。
この砦は古く、補修も足りない。金がないのだ。
遠くで鐘が鳴った。見張り塔だ。
兵士の怒鳴り声が聞こえる。
ガレスの足音。空気が変わった。
私は窓へ走った。中庭で兵士たちが動いている。
門が開き、荷馬車が一台駆け込む。
御者が叫んでいた。血だらけだった。
「北道がやられた!」
誰かが怒鳴る。
「何人だ!」
「黒狼だ! 二十……いやもっといる!」
ガレスの顔から感情が消えた。
「門を閉めろ」
短い命令だった。兵士たちが動く。重い門が閉じ始める。
雨足は衰えない。私は窓辺でそれを見ていた。
黒い森の向こうから、冬が来ていた。
取り乱す時間も許されないのか。




