表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/5

第四話 角ぐむ

遅筆のため、不定期投稿。

気長にお付き合いいただければ。

夏は、静かに来た。


春の終わり頃まで湿っていた土は、少しずつ乾き始めていた。

空は相変わらず灰色の日が多かったが、雨は短くなった。

代わりに風が変わる。湿り気の中へ、草の匂いが混じるようになった。


私は朝、土塁の上へ立っていた。

灰蛇川は今日も流れている。春先のような濁流ではない。だが油断できる川でもなかった。

水位を見る。岸の削れ方を見る。杭列を見る。去年より残っていた。それだけで十分だった。

「坊ちゃん」

振り返る。ダンがこちらへ歩いてくる。肩へ鍬を担いでいた。

「南の畑、少し乾いてましたぜ」

「本当に?」

「ええ。去年よりゃ、だいぶ」

私は川を見た。勝った、とは思わない。この土地で自然に勝ったと思う人間は、たぶん長生きできない。

ただ今年は、少し削られずに済んだ。それだけだ。

だが、その“少し”が人を生かす。

「坊ちゃんの溝、案外役に立ってますな」

ダンは鼻を擦る。

「偶然じゃないかな、半分くらいは」

「全部じゃないんですかい」

「全部だったら、僕は神様だね」

ダンは笑った。兵士たちも最近、少し笑うようになっていた。


春の終わり頃からだ。

畑へ水が残りにくくなった。土塁の崩れが減った。

荷車が完全には止まらなかった。

劇的ではない。だが辺境では、“去年より少しまし”が非常に大きい。

私はそれを知り始めていた。

夏前になると、男爵家の空気が少し変わった。

ある朝、食堂でエレノアが言った。

「アルノー」

「はい」

「今日から、あなたの教育を始めます」

パンを千切っていた手が止まる。

ガレスは黙ってスープを飲んでいた。

「教育?」

「あなたはいずれ、この家を継ぎます」

静かな声だった。

「文字、計算、法、税、家系、地理。それに礼儀作法」


私は少し黙った。前世では、勉強は嫌いではなかった。

営業になってからは、数字も契約書も嫌というほど見た。

だが。

「……今日からですか」

「遅いくらいです」

エレノアは即答した。

「本来なら三歳から始めています」

そういうものか、と納得する。貴族は子供の頃から貴族になるのだ。前世とは違う。

ガレスが鼻を鳴らした。

「俺は十歳まで剣しか振っていなかった」

「だから苦労したのでしょう」

「否定はせん」

夫婦の会話だった。

私は少しだけ安心した。この家は貧しいが、壊れてはいない。


教育は厳しかった。

まず文字だった。羊皮紙は高価なので、私は木板へ炭で文字を書かされた。

この国の文字は既に読める。熱病のあとから、記憶が妙に馴染んでいた。

だが問題は書く方だった。手が小さい。思ったように動かない。線が歪む。

私は顔をしかめた。

エレノアがそれを見る。

「焦っているわね」

「……うまく書けません」

「五歳ですもの」

慰めではなく、事実だった。

私は前世の感覚で動こうとしてしまう。だが身体が追いつかない。

これが時々、妙に腹立たしかった。


「文字は急いで書くものではありません」

エレノアは羽根ペンを置く。

「貴族の書状は、そのまま家の品位になります」

「字が、ですか」

「字が、です」

彼女は静かに続けた。

「乱れた字を書く人間は、心も乱れて見える」

私は少し考える。

営業時代、似たことを聞いた。名刺、靴、鞄。細部で信用は決まる。

時代が違っても、人間はあまり変わらないらしい。

「あなたは考えすぎる癖があります」

エレノアが言う。

「もっと呼吸を整えなさい」

私は顔を上げた。その言葉が妙に残った。


午後になると、今度はガレスに連れ出された。中庭だった。兵士たちが木剣を振っている。

「坊ちゃん!」

「見学ですかい!」

兵士たちが笑う。私はガレスを見る。

「今日からだ」

父は短く言った。

「男爵家の男子なら、剣を知らんわけにはいかん」

木剣を渡される。重かった。五歳の身体にはまだ長い。

ガレスはそれを見て、眉をひそめた。

「構えろ」

私は木剣を持つ。前世の感覚が蘇る。だが、違和感があった。

重心は高く、身体も小さく、腕力が足りない。

剣道の構えとも違う。

そもそも、この世界の剣は“断ち切る”ためのものだ。

押し合い、叩き合い、鎧ごと潰す。私の知る剣道とは別物だった。


ガレスが打ち込んでくる。重い。

私は避けた。

兵士たちが声を上げる。

「おっ」

だが次で転んだ。泥へ背中から落ちる。

痛い。

「立て」

ガレスが言う。私は立ち上がり、また打ち込まれる。

避ける、転ぶ、また立つ。泥だらけだった。

兵士たちは最初笑っていたが、途中から黙った。何度倒れても、私が逃げなかったからだろう。

ガレスが木剣を下ろす。

「今日はここまでだ」

私は息を吐いた。胸が苦しい。身体が追いつかない。

頭では分かっていても、悔しかった。

そのとき、端で見ていたダンが言った。

「坊ちゃん、妙な避け方しますな」

「なにか、おかしいの?」

「剣ってより、槍やら棒みてえな」

私は黙った。図星だった。


数日後。

私は中庭の隅で木の棒を振っていた。剣ではなく、棒。

長さは私の背より少し長いくらい。そこらの枝を削っただけのものだ。

握る。落ち着く。前世の感覚が、一番自然に戻る。私はゆっくり動いた。

打つ、払う、流す、突く。

身体は未熟でも、積み上げた理合は覚えている。

杖道は、力で勝つ武術ではない。

間合い、崩し、流れ。相手の動きを逸らし、止め、制する。

私は呼吸を整えながら動く。


後ろから声がした。

「何してんです」

振り返る。ダンだった。

私は少し迷った。

「……棒を振ってた」

「それは武器ですかい?」

「たぶん」

ダンは近づき、棒を見る。

「短い槍みてえですな」

「槍とは違うと思う」

「どう違うんで?」

説明に困る。前世でも杖は説明しづらかった。

私は少し考え、言った。

「……倒すんじゃなくて、崩すんだ」

ダンは分からなそうな顔をした。当然だった。

私は棒を構える。

「ダン、打ってきて」

「え?」

「木剣で」

ダンは笑った。

「坊ちゃん、本気ですかい」

「怪我はしないようにする」

ダンは半信半疑で木剣を持つ。

「じゃあ軽く――」


ダンの木剣が振り下ろされる。私は半歩入った。

棒で剣を流し、その動きのまま足を払う。

ダンが転んだ。様子を伺っていた兵士たちが吹き出す。

「おい!」

「何やってんだダン!」

ダン本人が一番驚いていた。

「……は?」

私は棒を下ろした。前世なら当たり前の動きだった。

だが、この世界では違うらしい。

「坊ちゃん、もう一回」

今度はダンが真面目な顔になる。

打ち込む。速い。だが直線的だ。

私は受け流し、手元を叩いた。木剣が落ちる。

沈黙。

兵士たちがこちらを見ていた。

「坊ちゃん」

ダンが言う。

「それ、何なんです」

私は棒を見た。

「……ただの棒だけど、ダンの大きさなら杖だね」

それが一番近かった。


その日から、兵士たちが時々私を見るようになった。奇妙なものを見る目だった。

剣ではない。槍でもない。だが妙に実戦的で、理に適う。

夕方、それを見ていたガレスが言った。

「お前のあれは何だ」

「棒を使った武術です」

「誰に習った」

少し迷う。

「昔、です」

嘘ではない。ガレスは腕を組む。

「騎士の剣ではないな」

「はい」

「戦場ではどうだ」

私は考える。正直、分からない。

鎧武者相手に杖だけで勝てるとは思わない。

だが。

「狭い場所なら使えると思います」

「……ほう」

「あと、殺さない。それに、止めやすい」


ガレスが眉を動かした。そこだった。

この世界の武術は、基本的に“殺す”ためのものだ。

だが杖道は少し違う。

制する、崩す、止める。

その思想がある。

ガレスはしばらく黙ったあと、言った。

「兵には向いているかもしれんな」

意外だった。もっと否定されると思っていた。

「剣は場所を選ぶ」

ガレスは続ける。

「だが見張り、捕縛、屋内なら棒の方が扱いやすい」

実戦を知る人間の言葉だった。


私は少し嬉しかった。

夏が深くなる頃、畑は緑を増していた。南村では麦が揺れている。

痩せてはいたが、去年より色が良かった。

農民たちは無言で畑を歩く。誰もまだ安心していない。

この土地では、収穫するまで何も終わらない。害獣もいる。

ある朝、畑が荒らされた。鹿だった。若い麦が踏み荒らされている。

農民が顔を歪める。

「畜生……」

ガレスは兵を出した。だが人手が足りない。

見張りを増やせば、今度は土塁が薄くなる。全部は守れない。

私は荒れた畑を見ていた。


そこへレオンが来る。

「兄さま、しか?」

「ああ」

「わるいね」

私は頷いた。鹿は悪くない。生きているだけだ。

だがこちらも生きなければならない。それだけだった。

私は畑の周囲を見る。

泥、杭、縄。

前世の知識を探る。完全な柵は無理だ。だが少しなら減らせる。

「音を鳴らせないかな」

「おと?」

「風で鳴るやつ」

レオンは首を傾げていた。


数日後、畑の周囲へ簡素な鳴子が並んだ。木片と縄だけの粗末なものだ。

農民たちは半信半疑だった。だが夜、音が鳴る。

兵士が気づく。鹿が逃げる。完全ではない。だが被害は減った。

また“少し”だった。

私は最近、それで十分だと思い始めていた。

ある夕暮れ。私は土塁の上で棒を振っていた。

風が吹く。草が揺れる。川の匂いがした。

すると背後で声がする。

「兄さま!」

レオンだった。

「またやってる!」

「少しだけ」

「ぼくも!」

私は困った。だが棒を渡す。レオンは振り回した。危ない。

私は慌てて止める。

兵士たちが笑っていた。

「レオン様、それ槍じゃありませんぜ」

「ぼう!」

「そうですなぁ」

レオンは嬉しそうだった。


私は弟を見ていた。

この子が大人になる頃、この土地はどうなっているだろう。

まだ貧しいままだろうか。少しは良くなっているだろうか。

分からない。だが、積むしかない。

土を、知恵を、人の営みを。この土地は、それでしか残らない。

夕日が灰蛇川を赤く染めていた。

私は棒を握る。剣ではない。人を斬るためのものではない。

押し返し、受け流し、守るための長さだった。


それは少しだけ、この土地に似ている気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ