第8章:平穏の代償
「魔王軍の幹部から国境の村を守ってくれたこと、感謝せねばな」
皇帝の声は、どこか空虚で無理に絞り出されたように響いた。
エイドロンは首を振った。
「俺一人でやったわけじゃありません。結界を維持したのはレオンさんです」
ミアが皇帝に寄り添い、その瞳を妖しく光らせた。
「謙遜が過ぎますわ、皇帝陛下。これほど有能な御仁なら、今すぐにでもエルフの王国へ派遣し、国境の紛争を解決させるべきですわ」
エイドロンは瞬きをした。「はあ?」
「ふざけないで!」セラフィナが前に踏み出し、怒りで顔を赤らめた。「彼は私の専属騎士よ! どこにも行かせないわ、この狂った女!」
「セラフィナ! ええい、控えよ!」
皇帝が玉座の肘掛けを叩き、一喝した。
「エイドロン、エルフの国へ向かえ。これは私の直命である」
エイドロンは目を細め、声に冷たさを宿した。
「陛下、お言葉ですが……なぜ俺があなたの命令に従わなきゃならないんです? 俺は魔法騎士であって、奴隷じゃない。行く場所は自分で決めます」
「なんて無礼な!」ミアが金切り声を上げ、その顔を憤怒の形相に歪めた。「皇帝陛下に向かって、なんて口を利くのです!」
「俺は召使いじゃない」エイドロンは腕を組み、繰り返した。
皇帝は急に弱々しく、何かに怯えるような様子を見せた。
「頼む、エイドロン……重要な任務なのだ。魔王軍の幹部たちがエルフの領土を荒らし始めている。彼らが堕ちれば、次はこの王国だ。頼む」
エイドロンはしばし沈黙した。政治に興味はないが、自分の店のことは別だ。
「それで、俺の取り分は?」
皇帝は息を吐いた。「戻った暁には、金貨5000枚を授けよう」
「決まりだ」エイドロンは即答した。金こそが、彼が真に理解できる唯一の言語だった。
「なら、私も行く!」
エミリアがエイドロンの袖を掴んで叫んだ。ミアの表情が、薄く、ねっとりとした笑みに変わる。
「ダメだ、危険すぎる。お前は王女と一緒にここにいろ」とエイドロン。
「お願い、エイドロン! 一人でここにいたくないの!」
エミリアは目に涙を浮かべて懇願した。
エイドロンはため息をついた。なんて強情な奴だ。
「……分かったよ。連れて行く」
「俺も忘れるなよ!」
ホールに豪快な声が響き渡った。鎧を鳴らして歩み寄ってきたのはレオンだった。ミアの笑みが消え、剥き出しの嫌悪に変わる。
「レオンか……」皇帝が呟いた。
「序列二位、精霊騎士レオン。お供しましょう」レオンがニヤリと笑った。「エイドロンと一緒に行って、エルフの問題を片付けてきますよ」
エイドロンは内心でうめいた。(また人数が増えるのか? すでに頭が痛くなってきたぞ)
「私も行くわ!」セラフィナが叫んだ。
「「絶対ダメだ」」エイドロンとレオンの声が重なった。
「セラフィナ、お前はここに残って城を守るんだ」レオンが諭す。「出発まであと2日ある。それまで楽しもうじゃないか! エイドロン、村で約束しただろ。俺の家族に会わせるって。行くぞ!」
「嫌ーーっ! レオンさん、まだ彼を連れて行かないで!」セラフィナが駄々をこねる。
その背後で、エミリアとミアの視線がぶつかり合った。ピンクと闇――音なき、火花を散らすような意志のぶつかり合い。
「じゃあな、お嬢ちゃんたち!」レオンは笑いながら、疲れ切ったエイドロンを出口へと引きずっていった。
現実の味
その日の夕方、レオンとエイドロンは静かな住宅街を歩いていた。
「あの子たち、すっかりお前にベタ惚れだな、エディ」レオンがからかった。
「チッ。俺はそんなの興味ありませんよ」
「まあそう言うな。自分を支えてくれる女を見つけろよ。男には帰る場所が必要なんだ」
エイドロンは石畳を見つめた。(最後に愛した女は、俺を泥の中で死なせた。あんな『愛』はもう二度と御免だ)
「着いたぞ!」レオンが声を上げた。
家は控えめながらも美しく、ツタが絡まり、ランプの温かい光が漏れていた。
「ただいま、お前たち!」レオンが呼びかける。
「おかえりなさい、あなた!」
優しそうな女性が彼を迎えに駆け寄り、その後ろから小さな女の子が二人飛び出してきた。
「お客さんだ。王女様の専属騎士、エイドロンだぞ」
娘たちの目が輝いた。「専属騎士様!?」
姉の方が即座にエイドロンの肩に飛び乗り、妹の方が彼の手を握った。
「私の専属騎士になって!」妹が要求する。
「ダメ、私のよ!」
「落ち着け、お前たち!」レオンが笑う。「ああ、このエイドロンは村で巨大な怪物を倒したんだぞ」
レオンが子供たちと遊ぶ姿を見て、妻がエイドロンに微笑みかけた。
「あの人、本当にこの子たちが大好きなんです。彼にとっての全世界なんです」
エイドロンは彼らを見つめ、ごく自然な微笑みを浮かべた。
「……素敵な家族ですね」
「それで、エイドロンさんを待っている奥さんはいるの?」彼女が悪戯っぽく尋ねる。
「レオンさん、止めてくださいよ」エイドロンがうめき、レオンが爆笑し始めた。
夕食の席は温かさに満ちていた。「これ、最高です」エイドロンはお代わりをしながら言った。「料理、めちゃくちゃ美味いですね」
「俺の女房の手は魔法なんだ」レオンが自慢げに言う。
「今まで会った中で一番の料理人ですよ」エイドロンも同意した。「二番目はセラフィナかな」
妻が笑った。「あら、セラフィナが12歳の時に料理を教えたのは私なのよ! まだ続けてくれているなんて嬉しいわ」
エイドロンは食卓を見渡した。笑い声、温もり、安全。
(これが、完璧な家族の姿か……)
それは、目覚めたくない夢のように感じられた。
鏡の中の影
城では、セラフィナがエミリアを王室の衣装部屋へ引っ張っていっていた。
「これ着てみて! 絶対に似合うわ!」セラフィナがシルクのドレスを掲げる。
エミリアは顔を赤らめ、それを体に当てた。「これ……ちょっと露出が多くない?」
「そんなことないわ、完璧よ!」セラフィナが笑う。「ここで待ってて。お祝いのケーキを作ってくるから。10分よ!」
セラフィナが部屋を出た瞬間、室内の空気が氷のように冷え切った。
「……何の用? 私を監視しているの?」
エミリアの声から震えが消え、冷徹な響きに変わった。
部屋の隅から影が分離し、揺らめく煙のようなエネルギーを纏った人影が現れた。
「魔王軍幹部『色欲』ともあろう者が、人間の騎士と仲良しごっこか。滑稽だな」
「『色欲』はもういないわ」エミリアが低く唸る。「今のこの体と行動を支配しているのは私。もう魔王の犬にはならない。私は自由よ」
影はくすくすと笑った。それは擬態を司る魔王軍幹部『嫉妬』だった。
「本当に消えたかな? お前の中に彼女の魂が、復讐を求めて叫んでいるのを感じるぞ。我々の元に戻らぬというのなら、いっそここで殺してやろうか」
「やってみなさいよ」エミリアが脅し返す。
エンヴィーの体が揺らめき、膨れ上がった。数秒後、その姿はセラフィナと寸分違わぬものになった――髪、声、瞳までも。
「賢いつもりか? 我々の計画を邪魔するなら、本物のセラフィナはこの世から消えることになるぞ」
「……彼女に手を出したら、許さない」
「それと、あの少年は?」エンヴィー扮するセラフィナがニヤリと笑った。「美味しそうな顔をしていたな。彼の方は私が貰い受けてもいい」
「エイドロンに触れるな!!」エミリアが吠えた。
「さて、どうかな」
エンヴィーは影に溶けるように消えた。その直後、ドアが開いた。
「ただいま!」セラフィナがお盆を持って入ってきた。「どこへ行ったかと思ったわ。バルコニーで何をしていたの?」
エミリアは心臓の鼓動を抑え、無理に笑顔を作った。「……ううん。ちょっと風に当たってただけ」
「さあ、ケーキが焼けたわ! 食べましょう!」
席についたエミリアは、恐怖に苛まれながら友人を見つめた。
遠く離れたレオンの家で、エイドロンは本物のベッドで深い眠りに落ちていた。
そして城の塔高く、ミアは月を見上げ、夜の闇に響く長く暗い笑い声を漏らしていた。




