第5章:色欲の囁き
村は死んだように静まり返っていた。家畜の鳴き声一つせず、小さな石造りの家の窓はどれも固く閉ざされている。
「村人たちは外に一歩踏み出すのすら怯えているんだ」
レオンは厳しい表情で周囲を見回しながら囁いた。
「『暴食』のせいですか?」エイドロンが尋ねる。
「ああ、そうだ。神隠しの噂が広まるのは早いからな」
彼らの会話は、青ざめ、怯えた様子の村人たちの集団が急ぎ足で近づいてきたことで遮られた。
「レオン様! 来てくださって本当にありがとうございます。どうかこちらへ……村長がお話をお伝えしたいと待っております」
レオンはエイドロンを見た。
「よし、お前は村の周辺を偵察してくれ。俺は村長との話が終わり次第、すぐに合流する」
「俺が? 一人でですか?」エイドロンはため息をついた。「……分かりましたよ」
エイドロンが村の境界に向かって歩いていくと、空気が重苦しくなっていくのを感じた。
「ったく、気味の悪い場所だな。それに、めちゃくちゃ喉が渇いた」
生い茂る木々を押し分けて進むと、澄んだ水の流れる川が目に入った。
「おっ、ようやく生水にありつけるな。ここへ来たばかりの時、森で1週間過ごしたのを思い出すぜ」
彼は水を飲もうと岸辺に膝をついたが、水しぶきの音を聞いて動きを止めた。霧の向こう側に、川で水浴びをしている少女の姿が見えたのだ。
(おいおい、冗談だろ?)エイドロンの心臓が跳ね上がった。魔物がうろついている村で、夜に川で水浴びをする少女だと? あり得ない。
少女は素早く水から上がり、シンプルなドレスを身に纏った。エイドロンは見えない剣の柄を握りしめる。
(チャンスだ。彼女の正体を見極めないといけない。絶対に普通の人間じゃない)
「おい、そこのお前!」エイドロンは木々の影から姿を現し、大声をあげた。「こんな真夜中に外で何をしてるんだ?」
少女が振り返った。彼女は長いライトピンクの髪と、妖しく光るピンク色の瞳をしていた。怯えている様子はない。それどころか、彼女はエイドロンの目の前まで歩み寄ると、身を乗り出して彼の服の匂いを嗅いだ。
エイドロンの喉が渇きで引きつる。「な、何をしてるんだ?」
「あなた、ずっと私のことを見ていたんでしょう?」
少女は目を細め、怒っているようでもあり、からかっているようでもある表情で尋ねた。
「違う! 本当に、信じてくれ、何も見てない!」
エイドロンは両手を上げて狼狽えた。
すると少女は緊張を解き、唇に小さな笑みを浮かべた。
「からかっただけよ。私はこの村の者。名前はエミリア。夜は静かだから、いつもこうして水浴びをしているの」
「だが、ここは危険だ!」エイドロンは彼女に警告した。「気をつけないと。魔物がうろついているんだぞ」
「あら、私に指図するあなた様はどなたかしら?」
エミリアはさらに距離を詰めて、甘えるような声を漏らした。
「俺は王都から来た近衛騎士だ。セラフィナ王女の専属護衛……それと、魔法の使い手でもある。名前はエイドロン・カゲだ」
「まあ」エミリアは小さく息を呑んだ。「私、騎士様って大好き。大きくて強くて素敵だわ。私たちを守ってくれてありがとう」
「あー、うん。それが俺の仕事だからな」
エイドロンは顔を赤らめながらぶっきらぼうに呟いた。
「木の実、食べる?」
彼女は鮮やかな赤い果実を両手いっぱいに差し出してきた。
(ここに来た初日を思い出すな)
「ああ、もらうよ」彼は一つ口に含んだ。「美味いな」
「それで、そんなイケメンの騎士様が、私たちの小さな村に何の用かしら?」
「ただの偵察だ。すべてが順調かどうかを確かめるためのな」
「ええ、私はとっても順調よ」
エミリアは微笑み、そのピンクの瞳で彼を射抜いた。
「あなたって本当に面白い人ね、エイドロン。その紫色の瞳は綺麗だし、髪はお月様みたい」
エイドロンは気まずそうに視線を逸らして咳き込んだ。「あー……。俺を口説こうとするなよ」
「ふふふっ!」彼女は鈴の鳴るような声で笑った。
「さあ、村に戻るぞ」エイドロンが促す。
「嫌よ、私はここであなたともっと一緒に過ごしたいわ」
エミリアはそう言って、彼の手首を掴んで離さなかった。
エイドロンの背筋に冷たいものが走った。なぜ彼女はこんな暗闇の中に残りたがるんだ? 何かがおかしい。ここから離れなければ。
その時、夜の静寂を切り裂くような、血も凍るような悲鳴が響き渡った。
「助けて! 喰わないでくれ、頼む――ッ!」
「今の声は!?」エイドロンは息を呑み、声のした方へ向き直った。
その一瞬、エミリアの顔に純粋で冷酷な怒りが走った。
(何であいつ、もう狩りを始めてるのよ? クソ、全部台無しにする気か)
だが、彼女はすぐにその表情を覆い隠した。
「何でもないわよ! きっと野生の動物よ」
「行かなきゃ。エミリア、お前は村に戻れ!」
エイドロンは彼女の返事も待たず、強化された身体能力で森の奥へと駆け出した。
捕食者が獲物になる時
エイドロンが悲鳴の源にたどり着いた時、すでに手遅れだった。そこには血溜まりだけが残されていた。
突如、彼の背後で茂みが激しく揺れた。Sランクの、巨大なヤギのような魔物が血走った飢えた目を光らせて飛び出してきた。
エイドロンは口角を上げ、影の刃を召喚した。「俺を喰う気か?」
流れるような一連の動作で彼は刃を振り抜き、Sランクの獣の顔面を真っ二つに切り裂いた。怪物は地面に崩れ落ちる。
「期待外れだな」エイドロンはため息をついた。「本気の戦いを期待してたんだが」
だがその時、魔物の肉体がブクブクと泡立ち始めた。それは傷口を繋ぎ合わせながら再び立ち上がり、さらに巨大でグロテスクな姿へと変貌を遂げたのだ。
「オーケー、前言撤回だ」エイドロンは呟いた。
魔物は目にも留まらぬ速さで飛びかかり、エイドロンの脚に牙を突き立てた。激痛が走るが、すぐに『神の加護』が発動し、引き裂かれた筋肉を瞬時に修復する。
「よくもやってくれたな!」
エイドロンは咆哮した。彼は剣を掲げ、引き絞る。――強く。
彼は周囲の環境からありったけのマナを吸い上げ、それを刃に集中させた。そして渾身の力で振り下ろし、放たれた闇のエネルギーの波は怪物の両脚を綺麗に切断した。怪物は歩くこともできず、土の上に叩きつけられた。
だが同時に、激しい目眩がエイドロンを襲った。彼は両手と両膝を地面につき、激しく呼吸を乱した。
(クソッ……大気中のマナを全部吸い上げたのはこれが初めてだ。エネルギーが完全に底をついた。これ以上こんな戦い方をしたら、村ごと消し飛んじまう)
脚を失った怪物はまだ生きており、大口を開けて彼の方へと這い寄ってくる。エイドロンは立ち上がろうとしたが、筋肉がまるで鉛のように重かった。
二人の幹部
怪物が彼に到達する前に、広場に巨大な影が落ちた。
闇の中から、病的に肥満した巨漢が姿を現した。それは人間ではなかった――灰色の肌と、カミソリのように鋭い歯が何列も並んだ悪魔だった。
巨漢は屈み込み、Sランクの怪物を掴むと、そのまま丸ごと口の中に放り込んだ。――バリバリ、ゴクン。
「おお……美味いな」
怪物の男は顎から血を滴らせながら唸った。そして、麻痺して動けないエイドロンを見下ろした。
「おや! この人間はもっと美味そうだ。こいつの頭蓋骨を齧りたくてたまらんぞ!」
エイドロンの血の気が引いた。体が動かない。
すると突然、巨漢の背後から一人の女性が歩み出てきた。暗がりで顔ははっきりと見えなかったが、その声は滑らかで、圧倒的な威厳に満ちていた。
「そこまでよ、暴食」彼女は冷ややかに言った。「今夜はもう十分に食べたでしょう」
(暴食――!?)
エイドロンの心臓が肋骨を打ち鳴らした。魔王軍の幹部『七つの大罪』の一人だ。なら、この女は誰だ? 俺はここで死ぬのか?
「でも、俺はまだ腹が減ってるんだよ、色欲!」
暴食は子供のように不満を漏らした。「こいつの骨の味を確かめたいんだ」
「言ったはずよ。今日は人間を食べないって」
色欲と呼ばれた女は厳しく命じた。「キャンプに戻りなさい」
「チッ、分かったよ、色欲! 戻ればいいんだろ。だが、こいつを逃がしたことを後悔するなよ」
暴食は低く唸り、茂みの奥へと消え去っていった。
謎の少女は、体力を使い果たしたエイドロンの元へと歩み寄った。彼女が屈み込んだ時、月明かりの下でエイドロンは、ライトピンクの髪と妖しく光るピンク色の瞳をはっきりと捉えた。
それは、エミリアだった。
「ここへ来るべきではなかったのよ、エイドロン」
彼女は囁いた。その声は、彼の背筋に恐怖と、そして甘美な快感の両方を走らせた。
「周囲のマナを枯渇させたのは見事だけど、まだまだ未熟ね」
「ら、ラスト(色欲)……?」
エイドロンは絞り出すように言った。
彼女は彼の手を、そして白銀の髪を優しく撫でた。
「あなたはもう私のもの。他の誰にも、あなたを傷つけさせはしないわ」
「エイドロン!! どこだ!?」
突如、レオンの声が森の中に轟いた。
色欲は妖艶に微笑むと一歩下がり、レオンが茂みをかき分けて飛び込んできた瞬間、煙のようにその場から消え去った。
レオンは駆け寄り、エイドロンを抱き起こした。「ここにいたか! あまり遠くへ行くなと言っただろう。大丈夫か?」
「あの女はどこへ……?」
エイドロンは息を荒くしながら、必死に周囲を見回した。
「誰のことだ? ここには俺たちしかいないぞ、小僧」
「誓って言います、女の子がいたんです! それに、巨大な魔物も!」
レオンはエイドロンの青ざめた顔と激しい呼吸を見て言った。
「意識が朦朧としてるんだな。よし、まずは村の医者に診せよう。行くぞ!」




