第10話 ふたたびサッカ部へ
ヘル出版のビルを出る。ふり返るとビルはもうない。いつのまにか僕は、さびしい土曜日のオフィス街に立っている。
さっきまでのことは全部夢なんじゃないか、締切なんかないんじゃないか。一瞬そう思うけど、手に持った茶封筒が僕を逃がしてはくれない。
この封筒は編集が帰りぎわに、「ヘル出版オフィシャルグッズだ」とか言って渡してきたものだ。あれは全部現実だったんだと、無言で主張してくる。
封筒には、赤くにじんだ「H」という文字があって、きっとヘル出版のロゴマークなんだろう。開けてみると、おなじようにHマークの入ったボールペンと原稿用紙が入ってる。やけに重いと思ったら、原稿用紙の束だったんだ。
このペンで原稿用紙に書けってことなんだろうか。どうせ、赤インクは作家の血でできてるとか、あの編集なら言いそうだ。ビビらせて、ドSな目で笑うにきまってる。
家に帰るなり、封筒ごと机の引き出しに放りこむ。これがあるかぎり、締切や編集者から逃れられない、そんな気がするんだ。
疲れたよ。
ベッドに横になる。
次の瞬間、僕の意識は現実を離れ、夢の世界に行っていた。
*
「こうして白滝オサムは小説を書けずに人生を終えましたニャー。おしまい」
「おしまいじゃないよ! かってに終わらせるなよ!」
「でも土曜も日曜も書けなかったニャー」
「うう……」
今日は月曜。締切まであと3日。ザムザの言うとおり、土日になにもできなかった。
けっきょく、小説大賞に応募しようとしたときとおなじ。1文字も書けないまま、いたずらに時間がすぎていった。
しかも今日から平日、学校だ。1日の半分は学校で取られてしまう。
*
昼休み。
「やることあるんだ」
いっしょに昼ご飯を食べてる友達グループに別れを告げ、ひとり自分の机にもどる。
でも、そんなことを言ったら、かえって目立ってしまうんだよね。ほら、友達連中はチラチラこっちを見てる。
時間がない、学校にいるあいだもムダにできない、そう思った僕は、原稿用紙を持ってきたんだ。学校で書くために。
そう、それはヘル出版からもらった「H」マークつきの原稿用紙とペン。まさかすぐに役立つとはね。
でも、持ってきたはいいけど、恥ずかしくて出せない。この気持ち、わかってくれるだろうか。学校で人と違うことをするのは、リスクをともなうんだ。
授業中や休み時間に出せなくて、いよいよ昼休み。決意して僕はようやく原稿用紙を……
やっぱり出せない。しかもスクールカースト上位組からこんな声が、
「オレ、小説で賞とったんだゼ」
新井葉だ。すごいことを言ってる。小説の賞を取ったって? この前まで、しかばね先生に文章を訂正されるレベルだったのに。
すごいすごいとクラスがわいてる。こんな状況じゃ原稿用紙を出せない。新井葉のマネして小説を書きはじめたと思われたら最悪だ。
マズった。本当にマズった。
「つぎの授業、自習だって」
言いながら、教室に星良が入ってきた。
あちこちで喜びの声があがってる。
「おっ? なんデ?」
新井葉もうれしそうだ。
「しかばね先生、いないんだって」
星良が職員室で仕入れた情報らしい。
「なんでいないンだ? もしかして死ンでたりしてな」
みんなはどっと笑うけど、僕は笑えない。だって先生は本当に……。
「金曜からいないんだって。うちらも自習になったでしょ」
金曜日、サッカ部で先生のしばかねを見た日だ。あれからいないって、どういうこと? 死んだ先生を、だれも発見してないってこと?
*
放課後、僕はB階段の前に立っている。
地下につづく階段が、不気味に僕を誘ってる。
行くしかない。
1段1段、噛みしめるようにおりていく。
この世のものとは思えない死者の国、編集の言う地獄とはここのこと? そんな、冥土の世界のような場所が地下1階だ。……言いすぎ?
地下におりて、暗い廊下を廊下を歩く。
目ざすのはサッカ部だ。行く理由は2つ。
1つ。やっぱり、しかばね先生が気になる。金曜日に死んでいた先生が、まだ見つかってないのはどうして?
2つ。ほかにも先生の小説が残ってるかもしれない。前の小説は、死臭がプンプンとか言われてボツったけど、先生の小説を僕が書き直せば、生命力がつくかもしれないよ。いい考えじゃない?
いや、これは盗作なんかじゃないよ。だって書き直した小説は、しかばね先生の名前で出版されるんだ。ヘル出版社で僕は、「鹿羽根はじめ」で通ってるんだから。
「サッカ部」
と書かれたドアの前で立ち止まる。
緊張する。だって前回は先生のしかばねを見て、失禁寸前で逃げ出したんだ。あれから先生、どうなったと思う?
恐ろしい結果が待ち受けてるかも。不安と恐怖が混ざった状態で、手をのばす。
ドアにふれる。金属が冷たい。
えい。思い切ってドアノブをまわすと、すんなりドアが開く。
なかがどうなってるのかなんて、想像できないよ。
平静か、それとも、ぐちゃぐちゃか……。
ゆっくり、ドアが開いていく。
ぎぃぃぃぃ。
サッカ部をのぞこうとする。
その前に、声がした。
「やあ、待ってたよ」