第三話 海までの道 ②
翌朝、栗毛の魔女は小さな袋を卓へ置いた。水筒と、着替えと、硬いパン。
魔女はパンを見た。
「港にも店はあるわよ」
「途中で食べる分よ」
「全部、途中で食べるの?」
栗毛の魔女は袋から二つ取り出した。それから、戸口まで行き、また戻った。
「朝は、奥から順に確かめて。雨が降ったら北の壁に水が入るから、溜まっていないか見てほしいの」
「昨日、聞いたわ」
「夕方は——」
「それも聞いた」
栗毛の魔女は口を閉じた。荷物の紐を握る。
「……行ってくるわ」
「ええ。いってらっしゃい」
戸が開いた。栗毛の魔女は敷居をまたぎ、山道へ足を向けた。
今度は、戻ってこなかった。
*
朝、封印の状態を確かめた。昼には北の壁から落ちた土を払った。夕方、魔力を注いだ。
一人でこなせる仕事だった。
日が暮れると、魔女は鍋を火へ掛けた。二人分の豆を入れかけ、半分戻す。
食事を終えると、海の絵が目に入った。小さな帆船が、岸から離れていくところだった。
栗毛の魔女はこの絵を、何度見ただろう。
湯が沸くのを待つ間に。雨が続いて、外へ出られなかった日に。麓から戻り、一人で食事をする夜に。
魔女は椀を洗い、棚へ戻した。
*
三日目は雨だった。北の壁に水が溜まった。魔女は溝を掃除し、外へ流れるようにした。
夕方、麓から食料を運ぶ男が来た。
「もう一人の魔女さんは?」
「海へ行ったわ」
男は袋を下ろしたまま、顔を上げた。
「海へ?」
「そんなに驚くこと?」
「いや。町へ来ても、いつもすぐ帰られるので」
男は荷台から薪を運んだ。
「そうですか。海へ」
何度もうなずいていた。
魔女は受け取った食料を棚へ入れた。男が帰った後、戸口に立ち、雨の降る山道を見た。
海のほうは、晴れているだろうか。
しばらく雨音を聞いてから、戸を閉めた。
*
五日目の夕方、足音がした。
魔女が顔を上げると、栗毛の魔女が戸口に立っていた。髪が風に乱れ、靴は白く汚れている。
「戻ったわ」
「見ればわかる」
栗毛の魔女は袋を下ろした。その場で靴を脱ぎ、逆さにする。細かな砂が、床へ落ちた。
「……外でやってちょうだい」
「ああ、ごめんなさい」
靴を持って、また戸口へ戻っていく。魔女は卓の上を片づけ、椀を二つ並べた。
「どうだったの?」
「靴に砂が入ったわ」
「それは見た」
「魚も食べたの。干したものではなくて、焼いたばかりの」
「そう」
「骨が多かった」
魔女は戸口へ目を向けた。栗毛の魔女は靴を履き直し、部屋へ入った。
「それから?」
「宿の窓からも海が見えて。朝、目が覚めたら、前の日と同じところにあるのよ」
「一晩では、なくならないでしょうね」
「わかっているわよ」
栗毛の魔女は、少し笑いながら椅子へ座った。
「でも、また見られると思って、嬉しかったの」
その視線が、壁の絵へ向いた。
「朝は、水の色が違ったわ。船も、動いていて」
紙の上では、白い帆が同じ場所に浮かんでいた。魔女はその絵を見上げた。
「窓から離れられなかったでしょう」
「ええ。朝食に呼ばれるまで、ずっと見ていたわ」
嬉しそうに話す横顔に、魔女の口元も緩んだ。
「向こう岸は?」
「見えなかった」
栗毛の魔女は、もう一度絵へ目を向けた。
「この絵より、ずっと広かったわ」
*
夕食の後、栗毛の魔女は袋から貝殻を取り出した。白い、小さなものだった。
「拾ってきたの」
卓へ置き、指で向きを変える。
「浜には、もっとたくさんあったわ。割れているものも、石みたいに丸くなったものも」
「それを選んだのね」
「ええ」
栗毛の魔女は貝殻を、こちらへ押した。
「あなたに」
「自分で持っていなさい」
「二つ拾ったのよ」
もう一つ、袋から出てきた。そちらは縁が少し欠けていた。
魔女は二つを見比べた。栗毛の魔女は何も言わず、欠けたほうを自分の手元へ引いた。
「……ありがとう」
魔女は白い貝殻を受け取った。指の腹へ、細かな筋が触れた。
*
翌朝は、二人で封印を確かめた。栗毛の魔女は奥の壁へ手を当て、目を閉じた。
「変わりないわね」
「北の溝は掃除したわ。あれでは雨のたびに溜まるでしょう」
「助かったわ」
「それと、棚の豆は使った」
「食べるために置いてあるのよ」
点検を終えると、魔女は荷物を担いだ。栗毛の魔女は戸口まで見送りに来た。
「次は、いつ来られる?」
「巡る順番を確かめてからね」
「そう。私で手伝えることがあれば、言って」
「そのときは頼むわ」
栗毛の魔女はうなずいた。
魔女は山道へ足を向けた。数歩進んでから、振り返る。
「次は、どこへ行くの?」
「次?」
「また五日空いたら」
栗毛の魔女は答えなかった。戸口に立ったまま、少し考えている。
「……海のほかは、考えたことがなかったわ」
「では、考えておきなさい」
魔女は言った。
「『お役目』のほかに、したいことがあってもいいでしょう」
栗毛の魔女は少し目を見開いた。
「あなたの人生なのだから」
しばらくして、小さくうなずいた。
魔女は歩き出した。背後で、呼び止められる。
「あなたは?」
足を止める。
「行きたいところは、あるの?」
魔女は肩の荷物へ目を向けた。木のかざぐるまが、留め具のそばで揺れていた。
「もちろん、あるわ」
「そう」
栗毛の魔女は少し笑った。
「次に来たら、聞かせてね」
*
麓へ着くころには、昼を過ぎていた。
魔女は道端の石へ座り、地図を広げた。次の遺跡まで、二日。点検には、まだ間に合う。
袋からパンを取り出すと、布に包んだ貝殻が一緒に出てきた。落とさないよう、膝へ置く。
自分は、点検の間隔を確かめ、道を選ぶことができる。けれど、栗毛の魔女は明日も同じ壁へ手を当てる。設備が直るまでは、また誰かに留守を頼まなければ、遠くへは行けない。
その暮らしを、自分も知っていた。夜が明けるたびに、山を下りる支度ではなく、封印へ向かう支度をした。便りを託す相手に、彼の行く先を尋ねながら。
魔女は貝殻を包み直した。
「お役目」など、なくなってしまえばいい。その思いは変わらない。
けれど、栗毛の魔女と知り合ったのも、封印の手伝いを頼まれたからだった。二人で壁へ手を当て、火の前で食事をした。
次に会えば、海の話の続きを聞かせてもらおう。今度は、どこへ行きたいと言うだろう。
そう考えるのを、今は楽しんでいる。
手伝いを頼まれなくても、またあの遺跡へ寄ってみよう。
魔女は地図の上へ、もう一度目を落とした。栗毛の魔女に教わった港を探し、小さく丸をつけた。
訪ねてみたい場所が、また一つ増えた。
地図を畳み、荷物を担いだ。山から風が吹き下ろし、留め具のそばのかざぐるまが回った。
頬に掛かった黒髪を片手で押さえ、魔女は明日の行き先へ思いを巡らせた。




