第三話 海までの道 ①
窓のない部屋に、海の絵が掛かっていた。
青い水面と、白い帆。端のほうが黄ばみ、紙は少し波打っている。
魔女は荷物を下ろし、その絵を見上げた。
「あなたが描いたの?」
「麓の市で買ったのよ」
栗毛の魔女が、湯の入った鍋を火から下ろした。この遺跡を管理している。入口近くの一室へ寝台や炊事道具を持ち込み、寝起きしていた。
「ずいぶん前だけれど」
「行ったことは?」
「ないわ」
椀へ湯が注がれた。乾かした葉が、ゆっくりと開いていく。
「この山からでは、少し遠いもの」
魔女は地図を取り出した。
「五日あれば、往復できるでしょう」
「道を間違えなければね」
栗毛の魔女は向かいへ座った。
「昔、港へ荷を運んでいた人から聞いたの。水がどこまでも続いていて、向こう岸が見えないんですって」
「そうね」
「あなたは見たことがあるの?」
「何度かあるわ」
栗毛の魔女は、こちらを見た。何か尋ねかけて、椀へ目を戻す。
「今日は、奥の封印を見てもらえる?」
「そのために来たのよ」
この遺跡は、彼女の管理地の一つだった。封印を保つ力の流れが乱れ、一人では確かめきれない箇所があると、麓で会ったときに相談されたのだった。
魔女は地図を畳み、椀を取った。
*
山の遺跡では、封印を保つ設備の一部が傷んでいた。栗毛の魔女が毎日魔力を注ぎ、その働きを補っている。
すぐに封印が解ける状態ではなかった。だが、何日も空けることはできない。
魔女は壁へ手を当てた。石の奥を流れる力を確かめ、隣に立つ栗毛の魔女へ目を向ける。
「ほかの遺跡は?」
「ここが傷んでからは、近くの魔女に頼んでいるわ」
「こちらの修復は?」
「少しずつね。一度に触れると、ほかの箇所まで不安定になるの」
栗毛の魔女は壁の継ぎ目を指した。
「前に直したところは、まだ保っているでしょう。次は、その奥」
魔女はうなずいた。
二人で魔力を注ぐ。床に刻まれた溝を、淡い光が巡った。明るさの揺れていた箇所へ、魔女が指を向ける。栗毛の魔女は反対側へ回り、壁へ手を添えた。
しばらくすると、光が均等になった。奥から響いていた低い音も、一定になっていた。
「ありがとう。どこで滞っているのか、一人ではわからなかったの」
栗毛の魔女が手を離した。
「これなら、少しずつ直せるわ」
「ねえ、ここって数日修復を休んでも問題はないかしら?」
「ええ。ただ、魔力は毎日注がないと」
その視線が、壁の向こうへ向いた。魔女は、隣の横顔を見た。
自分にも、離れられない遺跡があった。旅支度をする彼を見送り、翌朝も、その次の朝も、一人で封印へ力を注いだ。山を下りた先には道が続いているのに、そこへ足を向けることはできなかった。
栗毛の魔女も、あの絵を見ては、壁の向こうへ戻っていたのだろう。
魔女は、もう一度壁へ手を添えた。力の流れを確かめてから、指を下ろす。
「五日なら、私が見ていられるわ」
栗毛の魔女が振り返った。
「何の話?」
「海よ」
「あなたにも、次があるでしょう」
夕食の席で、栗毛の魔女は言った。
「次の点検までは、十日あるわ」
「山を下りるだけで一日掛かるのよ。戻るのが遅れたら」
「じゃあ、六日まで待つわ」
「そんなに簡単に——」
「歩けない距離ではないでしょう」
栗毛の魔女は匙を置いた。
「『お役目』で行く場所のほかは、どこにも行ったことがないの」
魔女は黙った。
「自分が海を見に行くために、あなたをここへ残すなんて」
「私が引き受けると言っているのよ」
「それは、わかっているけれど」
栗毛の魔女は壁の向こうへ目を向けた。遺跡の奥から、低い音が聞こえていた。
「本当に、頼んでもいいの?」
「そのつもりがなければ、言わないわ」
向かいで、栗毛の魔女が椀を見下ろした。
「……少し、考えてもいい?」
魔女は自分の椀を取り上げた。
「ええ。行くかどうかは、明日の朝までに決めてちょうだい」




