第二話 外套の継ぎ目 ②
「裏から布を当てれば、残せます」
仕立屋の女の声で、魔女は顔を戻した。
「ただ、裂けたところの糸は少しほどきます。裾のつれも、そのままになりますが」
「構わないわ」
すぐに答えると、女は小さくうなずいた。
「では、お預かりします。夕方までには」
魔女は外套から手を離した。
店を出ると、風が首筋へ入った。いつもより、少し寒かった。
*
昼を過ぎるころ、雨が降り出した。
魔女は市場の軒下で、買った干し果物を袋へ詰め直していた。
向かいの店から、男が出てきた。仕立屋の戸口で看板を直していた男だった。両腕に布の束を抱えている。
その一番上が滑った。肘で押さえようとして、下の束まで傾く。
魔女は指を動かした。布は地面へ落ちる前に止まり、ゆっくりと男の腕へ戻った。
男は目を丸くした。
「ありがとうございます」
「紐を使いなさい」
「すぐそこまででしたから」
「だから落とすのよ」
「すみません」
男は布を抱え直した。
「母の店に来られた方ですよね。黒い外套の。よかったら、中で雨宿りを」
魔女は空を見た。
しばらく、やみそうになかった。
*
仕立屋の奥には、小さな火鉢があった。魔女が椅子へ座ると、女は針を持つ手を止めた。
「息子がお世話になったそうで」
「布を落としかけただけよ」
「泥がついたら、洗って乾かして、納品が延びるところでした」
女は足元の籠から布を一枚取り、差し出した。
「肩が濡れています」
「このくらい、すぐ乾くわ」
「そのままだと。椅子まで濡れますので」
魔女は女を見た。女は布を差し出したままだった。
「……そう」
受け取り、肩へ当てた。
窓辺で、息子が布を紐で縛り直していた。今度は二度、結び目を確かめている。
女は針仕事へ戻った。細い糸が布をくぐる。裏へ当てた黒い布は、元のものよりわずかに色が濃かった。
「新しい外套を買ったほうが、早いでしょうね」
魔女が言った。
「早いですね」
「あなた、商売が下手ね。買い替えを勧めれば済むでしょうに」
「新しいものを売るだけなら、直しの看板は出しませんよ」
女は糸を引き、縫い目を指でならした。
「これは、直せますから」
古い糸をすべて抜けば、もっと楽に縫えるはずだった。それでも、女は残すと約束した縫い目を避け、一針ずつ針を進めていた。
誰かに命じられたわけではない。魔女の頼みを聞いたうえで、どう直すかを自分で決めたのだ。手間のかかる仕事を選んだ女の顔に、不満はなかった。
魔女は、その手元を見つめた
自分も、風車の町であんな顔をしていただろうか。
頼まれてもいないのに風を止め、翌朝もまた丘へ上った。あのときは、点検の日を気にしながらも、そこにいたかった。
「……面倒な頼みだったでしょう」
女は顔を上げた。
「残しておきたいんでしょう?」
「ええ」
「では、残せるように直します」
そう答えて、また針を動かした。
魔女は外套の端を持ち、女が縫いやすいよう、そっと広げた。
*
店の奥から、湯気の立つ椀が運ばれてきた。息子が魔女の前へ置く。
「豆の煮込みです。昼の残りですけど」
「頼んでいないわよ」
「作りすぎたんです」
女が針を動かしたまま言った。
「二人だと、いつも余るので」
「でも、今日はそんなに——」
息子が言いかけると、女は顔を上げた。彼は口を閉じた。
魔女は二人を見比べた。それから、匙を取った。一口食べる。豆は柔らかかった。
「塩が少し足りないわね」
「母にも言われます。僕が作ると、いつも味が薄いって」
「だから、味を見て足しなさいと言ったでしょう」
女が答えた。
息子が塩の壺を持ってくる。魔女は煮込みへ、塩を少しだけ振った。
橋を直して、豆を袋いっぱいにもらってきた男を思い出した。あのときも、塩が足りなかった。けれど、鍋の底まで食べた。
「お口に合いませんでしたか」
息子が尋ねた。魔女は匙を止めていた。
「いいえ」
もう一口、食べた。
「温かいわ」
*
雨がやむころ、外套は仕上がった。女が両手で持ち上げる。
「羽織ってみてください」
魔女は袖を通した。裾は、やはり少し傾いた。歩くと、膝の横で馴染みのある重さが揺れた。
裂け目は閉じていた。裏側には新しい布が当てられ、細かな縫い目が並んでいる。その端に、茶色い糸が残っていた。
「できるだけ縫い目は残しましたが、大丈夫でしょうか」
魔女は指先で触れた。大きく、不揃いな縫い目。そのすぐ隣を、細い黒糸が支えていた。
「ええ」
指を離す。
「歩いても、広がらないわね」
「今度は椅子の釘に気をつけてください」
「座る前に、裏まで調べることにするわ」
女が笑った。
魔女は代金を尋ねた。女は、初めに告げた額より少ない金額を答えた。
「布を拾ってもらいましたから」
「あれは、指を動かしただけよ」
「こちらも、針を動かしただけです」
魔女は女を見た。女は平然と、糸巻きを箱へ戻していた。
しばらくして、魔女は告げられた分の硬貨を置いた。
「煮込みも、ごちそうさま」
「次は塩を足しておきます」
「また、自分で足すわよ」
女が、また笑った。
*
翌朝、魔女は市場へ出た。干し肉と、山で使う油を買った。それから、香辛料の店で足を止めた。
小さな包みを一つ買い、橋を渡る。
仕立屋の窓は、もう開いていた。女が戸口を掃いている。
「また裂けましたか」
「そんなに乱暴には扱わないわ」
魔女は包みを差し出した。
「豆を煮るときに入れるといいわ。少しだけね」
女は中を確かめた。
「こんなもの、いただいていいんですか」
「煮込みのお礼よ」
女の口元が緩んだ。
「では、今日も少し多めに作っておきます」
「塩も忘れずに。自分で足す手間が省けるわ」
魔女は店を離れた。
橋の上で、風が吹いた。外套の裾が膨らむ。片側は、今も少し持ち上がっていた。
魔女はそこへ手を添えた。あの不揃いな縫い目の隣に、別の誰かの縫い目が増えた。
明日は、また遺跡へ向かう。その前に、昼の食事をする場所が一つ決まった。
魔女は橋を渡りきると、宿へ戻る道を歩いた。




