第二話 外套の継ぎ目 ①
外套の裾が、椅子の釘に引っ掛かった。
乾いた音がした。
魔女は立ち上がりかけた姿勢で止まり、ゆっくりと振り返った。黒い布が、縫い目に沿って裂けていた。
「……余計な仕事を」
椅子に言っても仕方がなかった。
裾を外し、裂けたところを指で挟む。引っ張れば、まだ広がりそうだった。
「大丈夫ですか」
朝食の皿を下げに来た宿の主人が、手を止めた。
「椅子のほうはね」
主人は椅子を裏返し、眉を寄せた。
「釘が出ていましたか。申し訳ありません。お怪我は?」
「ないわ」
「繕い代はこちらで持ちます。橋を渡ったところに仕立屋がありますから」
「自分で直せるわよ」
魔女は外套を畳み、腕へ掛けた。主人は、その縫い目へ目を留めた。
「そこだけ、ずいぶん太い糸ですね」
「丈夫なほうがいいと、縫った人は思ったのでしょうね」
黒い布に、茶色い糸。縫い目は大きく、ところどころ斜めになっていた。
魔女はそれを内側へ折り込み、宿を出た。
*
川沿いの町には、染めた布が干されていた。青いもの、黄色いもの、まだらに色のついたもの。風に膨らむたび、道の上へ長い影が落ちた。
遺跡へ向かう荷馬車は、明後日の朝に出る。麓の村へ運ぶ食料に、魔女の頼んだ品も積んでもらうことになっていた。点検の日までは余裕がある。一緒に乗せてもらえば、山道を歩かずに済んだ。
橋のたもとに、小さな仕立屋があった。窓辺に糸巻きが並び、戸口では若い男が看板を掛け直している。
魔女は通り過ぎかけた。腕の中で、外套の裂け目が開いた。
縫い針は持っている。糸もある。ただ、自分で直せば、残った古い縫い目まで引っ張ってしまいそうだった。
少し考え、戸を押した。
*
「長く着ていらっしゃるんですね」
仕立屋の女は、外套を卓へ広げた。髪を後ろでまとめ、指には革の指貫をはめている。窓から入る光へ布を透かし、裾を撫でた。
「布はまだ使えます。ただ、この縫い方だと、糸より先に生地が負けます」
「そう」
「ずいぶん力を入れて縫ったんですね」
「剣を振るうほうが得意な人だったの」
女は顔を上げた。魔女は、窓辺の青い糸巻きを見ていた。
「古い縫い目は、残せる?」
女はもう一度、外套へ目を落とした。
すぐには返事をしなかった。
*
その外套が最初に破れたのは、勇者の受けた仕事を手伝ったときだった。
街道を通る荷車が、続けて盗賊に襲われていた。護衛を頼まれた勇者は、食料を積んだ荷車とともに森へ入った。魔女も次の遺跡へ向かうため、同じ道を歩いていた。
「出てきたら、荷車を頼む」
「あなた一人で相手をする気?」
「人数にもよる」
「あなた、また——」
言い終える前に、前方で木が倒れた。道を塞いだ幹の向こうから、剣を持った男たちが現れる。
背後でも、茂みが鳴った。
「荷を置いていけ」
先頭の男が言った。勇者は前を見たまま、声を落とした。
「前に四人」
「後ろに三人よ」
「少し多いな」
「私がいることに感謝なさい」
魔女は荷車へ片手を向けた。御者が身を縮めた直後、飛んできた矢が光の壁に弾かれた。
勇者が剣を抜いた。踏み込んできた男の刃を受け流し、柄で顎を打つ。その身体が崩れる間に、次の一人へ向き直った。
魔女は背後を見た。三人が、道の両側から近づいてくる。
指先を下げる。一人の足元で土が盛り上がった。男はつまずき、後ろから来た仲間を巻き込んで倒れた。
残った男が足を止める。
「剣を捨てなさい」
男は倒れた仲間を見て、それから彼女を見た。剣を握り直す。
「そう。面倒ね」
振り下ろされた刃を、魔女は半歩退いて避けた。切っ先が、風に膨らんだ外套を捉えた。
布の裂ける音がした。黒い裾が、長く垂れていた。
次の一撃が来る前に、男の足首を氷が包んだ。踏み出せなくなった男が、前へ倒れる。
魔女は風で剣を遠ざけ、倒れた二人の足元にも氷を走らせた。
前方では、勇者が最後の男の剣を弾いていた。
*
「怪我は?」
勇者が、裂けた外套へ目を落とした。
「布だけよ」
「よかった」
「よくはないわ」
魔女は裾を持ち上げた。
「あなたの仕事でしょう。繕うのは任せるわよ」
その夜、二人は街道沿いの宿に泊まった。盗賊を町の兵へ引き渡し、荷物を届けたころには、日が暮れていた。
勇者は食事を終えると、宿の主人から針と糸を借りてきた。外套を卓へ広げ、裂けた端を合わせる。
「本当に縫うの?」
「任せると言っただろ」
「縫い物をしたことは?」
「ある」
「いつ?」
「子供のころ」
「何を縫ったの?」
「袋だよ」
魔女は椅子を寄せた。
「物が落ちなければいい袋とは違うのよ」
「外套だって、風が入らなければいいだろ」
彼は針の穴へ糸を近づけた。糸の先が曲がる。指で撚り直し、もう一度近づける。
「私がやるから貸して」
「今、通るところだ」
魔女が茶を半分飲むころ、ようやく最初の一針が布へ入った。
出来上がった裾は、少し縮んでいた。茶色い糸が目立ち、羽織ると片側だけ持ち上がった。
「どうだ」
「歩くと傾くわ」
「そのうち伸びるさ」
彼は真面目な顔で言った。
翌朝も、その次の朝も、裾は傾いたままだった。それでも、裂け目から風は入らなくなった。




