第一話 鐘が鳴るころに ③
町の門をくぐったところで、魔女は足を止めた。
四十二年の間に、広場は広くなっていた。井戸のそばに、石像が立っている。
剣を手にした若い男だった。実物より肩幅が広い。髪も整っている。
魔女は台座へ近づいた。勇者の名と、その生涯が刻まれていた。
この町を襲った黒竜を討ち、人々から勇者と呼ばれるようになったこと。後に仲間とともに魔王を封じたこと。そして、最後には北方の国々を脅かした大竜を討ち果たし、長い戦乱を終わらせたこと。
その大竜は、この町の黒竜をはるかにしのぐ巨体で、いくつもの城を滅ぼしたという。
魔女は最後の一行まで読んだ。
*
遺跡を離れられるようになったのは、勇者と別れて数年後のことだった。
魔女はほかの管理地を巡りながら、彼の行方を尋ねた。その旅の途中で、魔王が封じられたと聞いた。大竜が倒れたという知らせが届いたのは、さらに後だった。
その戦いを最後に、魔獣に村が襲われたという知らせは途絶えた。焼かれた土地へ人が戻り、閉ざされていた街道を荷車が通るようになった。
けれど、遺跡の奥には、まだ数多くの魔獣が封じられていた。魔女は各地を巡り、封印へ魔力を注ぎ続けた。
行く先々で、勇者の戦いを語る者に会った。彼が今どこにいるのかを、知る者は少なかった。
一緒に旅をしていたころ、故郷の場所を聞いておけばよかった。いつも、訪れた町や、次に向かう町の話ばかりしていた。彼がいつか帰る場所については、何も知らなかった
消息を尋ね、便りを託しながら、魔女は巡回を続けた。返事のないまま、年月が過ぎた。
それでも、また会えたら何を話そうかと考えることはあった。風車の町へ行く約束も、そのたびに思い出した。
南の宿で、あの知らせを聞くまでは。
*
魔女は石像を見上げた。
『ほかの遺跡に封じられた魔獣も、全部だ』
あの朝、彼はそう言った。
人々は家へ帰れるようになった。けれど、魔女にはまだ、次に向かう遺跡があった。
―全部は倒せなかったのね―
口にしかけて、やめた。責めたいわけではなかった。ただ、あの約束の先で、もう一度一緒に歩きたかった。
魔女は石像の腕へ目を向けた。傷の跡はなかった。あの傷は、いつまで残っていたのだろう。
歳を取った顔も、手も、知らなかった。自分の手は、あの日からほとんど変わっていない。
魔女は外套の袖へ指を隠した。
「お参りですか」
声を掛けてきたのは、花籠を持った女だった。髪に白いものが交じっている。
「今も、旅の方が寄っていかれるんです」
女は台座の前へ花を置いた。
「私は子供でしたから、竜のことは怖かった記憶ばかりで。あの方が帰ってこられた日、皆が泣いていたのは覚えています」
立ち上がった女の手から、花が一本落ちた。魔女は拾い、差し出した。
「釘を打つのが、下手だったわ」
女の手が止まった。
「……え?」
「風車を直すとき、何本も曲げていたわ。叩くところを見なさいと、ずいぶん叱られていたわね」
女は魔女の顔を見つめた。視線が頬から目元へ移り、肩の荷物へ落ちる。
小さな木のかざぐるまが、留め具のそばに結ばれていた。
「そのかざぐるま……」
魔女は外し、差し出した。羽根の色は不揃いだった。握りは黒ずみ、角が丸くなっている。
女の指が、古い軸へ触れた。
「あのときの、お姉ちゃん……」
魔女は女の顔を見た。宿で笑っていた少女の面影が、目元に残っていた。
「……あの風車屋のお孫さんね。元気だったかしら」
女は何度もうなずいた。
*
女は広場の近くで、パン屋を営んでいた。夫に店を任せ、魔女を奥の部屋へ通した。
「お茶でいいですか。それとも、何か召し上がります?」
「お茶をいただくわ」
女は戸棚を開けた。椀を二つ、卓へ置く。湯を注いでから、戸口のほうを一度見た。
「……お一人なんですね」
「ええ」
「勇者様のこと、私も聞きました。冬の初めでしたか」
「私は、二月前に」
女が顔を上げた。魔女は椀を両手で包んだ。
「南の宿で。商人が話していたの」
「そうでしたか」
女は向かいへ座った。
「父が、会いたがっていました。今度来られたら、何日でも泊まっていただくんだって」
魔女は椀の縁へ指を添えた。
「二人で戻ろうと、話していたわ」
女は黙って聞いていた。
「仕事で、別々の道を行くことになったの。済めば、また会えると思っていた」
窓の外を、麦袋を積んだ荷車が通った。魔女はそれを見送った。
「亡くなったと聞いて、ここへ来たくなったのよ。あの人が直した風車は残っているのかしらと思って」
「今も、毎日役目を果たしていますよ」
女は答えた。
「何度も直しました。軸も替えましたし、祖父がいたころと同じように、麦を挽いています」
「道沿いの家も、増えていたわね」
「麦を持ってくる人が増えたんです。北の村からも」
魔女は小さくうなずいた。
*
「祖父は、あの石像が建ったとき、ずっと見上げていました」
女が言った。
「立派すぎるって」
魔女の口元が緩んだ。
「髪まで、きれいにしてあったわね」
「父は、あの方がうちのパンを両手で割ろうとしていた話をするんです。石像を見に来た人にまで」
「硬かったもの」
「スープにつけないからですよ」
「あなたが教えてくれたのよね」
女が目を瞬いた。それから、笑った。
「そうでしたね」
「あの人、そそっかしいから、服にこぼしていたわね」
「お姉さんが拭こうとすると、自分でやるからって」
「かえって染みを広げていたわね」
「そうでした」
二人は顔を見合わせて笑った。笑い声がやんだ後も、しばらく口元に笑みが残っていた。
女は卓へ置かれた小さなかざぐるまを手に取った。軸を回す。半周したところで、羽根が止まった。
「まだ、持っていてくださったんですね」
「羽根は何度か替えたわ。一本だけ、重くなってしまったけれど」
「祖父も、よく削り直していました。私が壊すたびに、今度は何をしたって」
「おじいさんの道具は、今も使っているの?」
「父も使っていました。今は、叔父の息子が」
女はかざぐるまを窓へ向けた。風が弱く、羽根は動かなかった。
「私、あの時、風が吹かないように祈っていたんです」
魔女が顔を上げた。
「足場が揺れて、祖父が心配だったから。急に風がやんだとき、祈りが届いたと思いました」
「私が止めていたのよ」
「ええ。お姉さんが町を出る日に、祖父が教えてくれました」
女は握りの古い傷を、親指で撫でた。
「風を止めてくれたお礼だって、これを預かったんです」
「覚えているわ」
女はうなずき、棚へ小刀を取りに行った。魔女は、削られていく羽根を見ていた。
この町を再び訪れたのは、「お役目」のためではなかった。封印の状態を確かめるためでも、誰かの命令を受けたからでもない。
初めて来たときは、彼と偶然立ち寄っただけだった。けれど、竜が現れ町へ引き返したのも、人々と風車を直したのも、自分で決めたことだった。
今、ここへ戻ってきたのも。
*
帰り際、女が包みを持ってきた。開く前から、パンの匂いがした。
「これは私からです」
魔女は受け取った。温かかった。
女は、小さなかざぐるまも差し出した。羽根の先が、わずかに削られている。
「祖父ほど上手ではないですけど」
魔女は指先で軸を持った。開いた扉から、風が入る。四枚の羽根が軽く回った。
「また回るようになったわね」
魔女は微笑んだ。
広場の向こうで、鐘が鳴った。
三度。
魔女は顔を上げた。低い音が家々の屋根を越え、丘へ長く響いていく。
「直った鐘を、二人で聞きに来るはずだったのよ」
「直ったのは、翌年でした。祖父が、鳴らせるまで何度も鐘楼を見に行って」
「あの人も、最後まで手伝いたいと言っていたわ」
「そうだったんですか」
「でも、北の村へ向かう荷車と一緒に、町を出たの。そのとき言っていたわ。今度は鐘を聞きながら、ゆっくり朝飯を食べたいって」
女は鐘楼へ向けていた顔を、魔女へ戻した。
「……聞いていただけて、よかったです」
「ええ」
魔女はうなずいた。鐘の音が、少しずつ遠くなった。
やがて、また遺跡へ向かわなければならない。望まずに得た力も、長い命も、手放せないままだった。
封印を気にせず眠り、行きたいところへ行けたら。そんな役目など、なくなってしまえばいい。
そう願っても、次に巡る場所は地図の上に残っている。
魔女はパンの包みを抱え直した。
けれど、明日の朝に発つ必要はなかった。
『ええ。今度は、ゆっくりしましょう』
あのとき、自分でそう答えた。
二人であの日の約束を果たすことは、もうできない。それでも、この町でゆっくり過ごすことはできる。
「明日、風車へ行くつもりなの」
「叔父の息子に、話しておきます」
「あなたも来られる?」
女は店の中を振り返った。夫がこちらを見て、うなずいた。
「朝の仕込みが済んだら」
「では、その後にしましょう」
魔女は小さなかざぐるまを荷物へ結び直した。
「その前に、ここで朝食をいただけるかしら」
「もちろん。何時ごろに?」
「鐘が鳴るころに」
女が笑った。
「焼きたてを、ご用意しておきます」
明日は地図を広げず、この店へ来よう。パンをゆっくりスープへ浸し、鐘を聞く。食事を終えたら、あの子と丘へ上る。
自分で決めた明日の予定を、もう一度魔女は思い浮かべた。
「明日も、よく晴れるそうですよ」
女が丘を見上げた。
「ええ。楽しみにしているわ」




