第29話 絶望の包囲網と、漆黒の合流
中核都市の制圧は、拍子抜けするほど容易かった。
城門は開かれ、抵抗は形ばかり。わずかな守備兵が形式的に応戦しただけで、帝国の旗は引き摺り下ろされた。
青きセレスティアの旗が掲げられる。広場には市民の歓声が上がり、人々は安堵の表情を浮かべていた。
――なのに。
「……静かすぎる」
ゴードンさんの低い声が、喧騒の中に沈む。
あたしも、同じ違和感を抱いていた。
「十五年も支配してた割に、街が『無傷』すぎる。軍の影もねえ。……まるで、最初から放棄するつもりだったみてえだ」
「放棄……?」
嫌な予感が、背筋をなぞる。
その夜、将軍は進軍を決断した。
「勢いのある今、一気に首都へ迫る。補給線は確保済みです。問題はありません」
――本当に?
問いは胸の中に沈んだまま、翌朝、連合軍は進軍を再開した。
* * *
――同刻。
帝国陣営は、首都アークセレスを見下ろす宮廷中枢の望楼にいた。
「よく伸びたものだ。補給線も、士気も……見事に『整えてくれた』」
隣に立つディートリヒが、静かに頭を垂れる。
「すべては予定通りに。彼らは今、最も油断している瞬間です」
「うむ。希望というものは、落とす直前が一番よく熟れる」
「やつらに逃げ場は残しておりません。狩りとは、そういうものです」
将軍の口元が歪む。
「哀れなものだな。己の足で、この『終着点』へ歩みを進めるとは」
冷たい風の中、帝国の将軍は盤上の駒を見下ろすように、ゆっくりと目を細めた。
「……ときに、レオナルト殿は、どうしている?」
「宮廷の玉座の間で置物になっております。……役に立ちそうにはありませんが」
「ディートリヒよ、武人にはもう少し敬意を払え。とはいえ、このセレスティアを巡る戦に参加させる訳にはいかないがな」
そのとき伝令が、連合軍がアークセレス郊外に達したことを告げた。
「網は張り終えた。あとは――引くだけだな」
将軍はニヤリと笑う。
「しかし、レガリアが参戦するとはな。……ディートリヒよ、もしもの時のことも準備しておけ」
「はい、抜かりはありません」
「我々は、すでに多くの魔法石を手に入れた。この地で得る果実としては十分。……あとは、レガリアのその力、見せてもらおう」
* * *
首都へと続く街道。左右をなだらかな丘に挟まれたその道は、どこまでも続く一本道だった。
「ここを抜ければ、アークセレスは目前だ!」
号令とともに、兵たちの士気が一気に高まる。
連合軍は、ついに首都アークセレスの郊外へと到達した。
「ここで一気に攻め落とす!」
――そのとき。
空気が、歪んだ。
「……え?」
次の瞬間、視界が白に染まる。
轟音。
左右の丘の上から、無数の光弾と炎が降り注いだ。
さらに――。
「敵襲ッ!!」
空っぽだと思っていた森から、帝国の精鋭たちが雪崩を打って突撃してきた。
「伏兵だ! 側面から来るぞ!」
側面攻撃で、後方の補給路は瞬く間に断たれる。
帝国兵は、そのまま連合軍後方に回り込む。
あたしたちの前方には、帝国軍の盾の壁。
連合軍は分断され、挟みこまれる。
「包囲……!? いや、違う――」
ゴードンさんの声が鋭くなる。
「最初から『ここに誘い込まれていた』んだ!」
逃げ場のない、完全な包囲。
「退路は!?」
「断たれています!」
「くそっ……!」
あたしたちは、完全に囲まれていた。
「撃て!!」
帝国の魔導士たちの容赦ない遠隔攻撃が降り注ぐ。
頭上からの一斉砲撃。
連合軍は防御壁を展開する。
「まだ……持つ、はず……!」
けれど――
連続する衝撃に、防御壁が軋む。
ひびが入る。
そこへ、もう一撃。
「――だめ、持たない……っ!」
衝撃が叩きつけられ、防御が砕け散る。
前方からは、帝国軍が突進してくる。
レガリアの騎士たちが盾を構え、前に出る。
一枚、また一枚と砕かれていく。
剣と魔法がぶつかり合い、戦場は混沌に包まれた。
「こいつは、ちっとばかしまずい状況だぜ」
ゴードンさんが大剣を振り回し、必死であたしの周囲を守ってくれている。あたしも指先から光弾を放ち応戦するが、焼け石に水だった。
「前線、崩壊寸前!」
「負傷者多数! 回復が追いつきません!」
悲鳴のような報告が、魔法の爆発音にかき消されていく。
焦げた肉の匂い。むせ返るような血の鉄臭さ。
ほんの数日前、王都で笑い合っていたレガリアの若い騎士たちが、あたしの目の前で次々と崩れ落ちていく。悲鳴を上げる間もなく、彼らの血が、セレスティアの乾いた土を黒く染め上げていった。
(違う……こんなの……!)
守るために来たはずなのに。
奪われていく命。
止められない現実。
「アイラ、伏せろぉッ!!」
ゴードンさんの怒号が、耳を劈く。
直後、目の前の空間を、冷徹な銀の閃光が薙いだ。死を運ぶ鉄の匂いが、鼻先をかすめる。
(……あ、あぁ。あたし……死ぬんだ)
膝が、笑う。指先から魔法の残滓がこぼれ落ち、視界がゆっくりとスローモーションに切り替わっていく。
息が詰まる。
体が動かない。
そのとき――
――音が、消えた。
剣の軌道が、止まる。
風も、叫びも、すべてが遠のく。
一瞬の静寂。
……何も、起きない。
次の瞬間――。
――ドンッ。
後方から衝撃波。
空気そのものが、打ち抜かれる。
遅れて、重い地鳴りがあった。
振り下ろされようとしていた帝国の剣が止まる。
兵士たちが背後を振り返る。
――ドォォン!!
地面が揺れる。
足元から突き上げるような衝撃波。
次の瞬間、あたしたちを包囲していた帝国軍の分厚い壁が、爆風で空高く吹き飛んだ。
「な、なんだ……!?」
後方に、地を蹴り、戦場を裂く集団の「影」が見えた。
人の動きじゃない。
いや――
人であってはいけない速度。
猛烈な土煙を舞い上げ、一直線にこちらに向かってきた。
やがて、土煙が晴れたその向こう。
立ち並ぶ「影」。
黒い。ただ黒い。
漆黒の衣装を纏った集団。
ただそこに立っているだけで、周囲の空気をビリビリと軋ませていた。
魔法の力ではない。
彼らの内側から立ち昇る、圧倒的な生命力の奔流――『気』のプレッシャーが、戦場の重力すらも歪めているように錯覚する。
「――ほう」
低く、響く声。
先頭の、ひときわ巨大な大剣を担いだ豪傑が、一歩踏み出す。
――止まる。
その瞬間、空気が震えた。
「これだけの殺気に当てられて、まだ足がすくんでおらぬか」
振るわれた一閃。
目に見えない「気」の衝撃波が走り、帝国兵がまとめて吹き飛ぶ。
あたしの前に、その男――羅漢が立っていた。
「いい目だ。お前さんが、奏の言っていた姫様か」
言葉を返すより先に――
背後で、足音。
静かで、けれど確かな一歩。
振り返る。
――誰?
視界が滲む。
輪郭が揺れる。
それでも。
見間違えるはずがない。
漆黒の装束。
腰に帯びた、見慣れた細身の剣。
そして、風に揺れる艶やかな黒髪。
「……ごめん、遅くなった」
凛とした、けれど、どこか泣き出しそうなほど優しい声。
その響きが耳に届いた瞬間、胸の奥で、何かが弾けた。
視界が滲んで、うまく焦点が合わない。
けれど、そのシルエットを、その立ち姿を、
忘れるはずなんてなかった。
喉の奥で固まっていた名前が、震えながらこぼれ落ちる。
「……かな……で……」
それは、祈りに似た叫びだった。
「奏っ! 奏、かなでっ!!」
名前を呼ぶたび、喉の奥が焼けるように熱い。戦況も、立場も、泥にまみれたプライドも、全部どうでもよかった。
あたしは無様に、けれど必死に地面を蹴って、彼女という『かけがえのない半身』に向かって、ただ真っ直ぐに飛び込んだ。
ぶつかるように飛び込んだ胸のうちは、記憶にある通り、暖かくて――少しだけ、懐かしい香りがした。
「よかった……」
奏はあたしをしっかりと受け止め、その腕で強く、強く抱きしめ返してくれた。
「賢者様から授かったこの耳飾り(イアリング)が……ずっと、あなたがここにいるって教えてくれていた。絶対に、間に合わせるって決めてたの」
耳元で、震える声が優しく囁く。
「もう大丈夫。……あたしたちが来たから」
その言葉に、張り詰めていた心の糸がぷつりと切れた。
あふれ出した涙が、奏の黒い装束を濡らしていく。
戦場だというのに。
そんなこと、どうでもよかった。
その様子を見ていた羅漢が、ニヤリと笑う。
大剣を肩に担ぎ、戦場を見渡す。
「さて」
太刀を引き抜く音が、やけに大きく響いた。
背後に並ぶ、漆黒の戦士たち。
ただ立っているだけで、空気が変わる。
「我ら、神羅十剣」
一歩、踏み出す。
その一歩で、帝国兵がたじろぐ。
「これより、セレスティア連合軍に加勢する」
羅漢が刀を天に掲げる。
陽光を反射したその輝きが、戦場を貫いた。
「――死にたい奴から、かかってこい!」
絶望の色に染まっていた戦場に、逆転の狼煙が、鮮烈に上がった。
――戦場の空気が、明らかに変わった。




