第26話 守護者の血、奏の覚醒
神羅島、その中心に座する大道場。
海を渡り、ようやく辿り着いたその場所には、凛とした静寂と、古びた線香の匂いが立ち込めていた。
上座には、大尊師ソウシン。その傍らには、柔らかな笑みを湛えたリャンさんが控えている。
「やはり、戻ってきたか」
ソウシンさんの声は、湖の底のように静かで、深い。私は一歩前に出て、その鋭い瞳を真っ直ぐ見据えた。
「ソウシンさん、……賢者様に会いました」
「ふむ。……では、知ったのじゃな」
「はい。アイラは、亡国セレスティアの正当なる王女。……そして私は、神羅の守護者と呼ばれた男、ジンの娘であると」
言い切ると同時に、わずかに語気を強める。
「ソウシンさんは、最初から気づいていたのでしょう? 私のルーツが、この神羅にあることに」
「ふぉふぉふぉ。……お主と初めて合気を交えた時から、確信しておったわい。その巡りは、ジンと同じじゃ」
戯れのように笑い、しかし次の瞬間には表情を消す。
「それで。本題は、己の出自の確認ではあるまい?」
私は息を整え、言葉を紡ぐ。
レガリア王国でアイラが王女として立ったこと。
同盟が動き出していること。
帝国が魔獣を改造し、世界の理そのものを歪めようとしていること。
「神羅は武の国です。理を乱す帝国は、看過できないはずです。……どうか、アイラの……セレスティア奪還のために、力を貸してください」
言葉は、澱みなく積み上がる。
反論の余地はない――はずだった。
だが――。
ソウシンさんは、静かに首を横に振った。
「神羅は古来より中立。それがこの島を守る術じゃ。外界の理の乱れもまた、大きな流れの一つに過ぎん。一国として動く理由にはならんのぅ」
「ですが――!」
「奏よ。お主の言葉には『正論』はあるが、『覚悟』が足りん」
その一言が、胸に沈む。
「ただし、国ではなく『個』としてなら、話は別じゃがな」
意味を掴みきれず、言葉を失った――その時だった。
「――堅苦しい話は、そこまでにしておけ!」
轟音と共に、道場の扉が蹴り開けられた。
現れたのは、岩山のような巨漢だ。身の丈ほどもある、刃こぼれだらけの鉄塊――いや、大剣を肩に担いでいる。
「お前がジンの娘か。親父と違って、小賢しい頭で剣を振るうんだな」
「……あなたは?」
「神羅十剣筆頭、羅漢だ。おい、娘」
その男は、私の足元へ無造作に木刀を放り投げた。
「お前のその『覚悟』。……ジンの娘として、そして十番目の席を継ぐ者として、相応しいか見せてもらおう!」
返事をする間もなく、羅漢が踏み込んできた。私は反射的に木刀を拾い、その一撃を受け止める。
――重い!
まるで家屋が倒壊してきたかのような質量。まともに受ければ、それだけで刀ごと叩き折られる。
だが、焦りはない。アイラと共に、掴んだ感覚――相手の理ごと包み込み、その流れを奪う『合気』の呼吸。
「……ふっ!」
私はあえて力を抜き、羅漢の豪剣が振り下ろされる軌道に、吸い付くように木刀を合わせた。
衝突の衝撃を逃がし、大剣の重さをそのまま円の動きへと変えて、足元へと受け流す。
ズゥゥゥンッ!
道場の床が悲鳴を上げ、羅漢の剣が空を斬った。
「ほう。いなしたか。……大尊師の真似事にしては、悪くない」
「……理さえ見えれば、防げない剣はありません!」
私は最短距離で踏み込み、羅漢の懐へ滑り込む。完璧な重心移動。無駄のない一突き。
だが――。
「理屈で人は斬れん!!」
羅漢の叫びが、道場の空気を物理的な質量として震わせた。振り抜かれたはずの巨大な鉄塊が、その軌道を無理やり捻じ曲げ、逆流してくる。常識も、慣性も、すべてを踏み潰すように。
(――ありえないっ!)
予測したベクトル、受け流すべき力の流れ――そのすべてを、羅漢の放つ圧倒的な『熱』が焼き尽くしていく。 目の前にいるのは人間ではない。ただひたすらに「個」を極め、理そのものを暴力で上書きする、武の化身だ。
「が、はっ……!?」
『合気』で受け流せる許容量を、一瞬で超えられた。
間に合わない。圧倒的な暴力に、私の身体は宙を舞う。
流したはずの力が、流れない。
円が、閉じない。
――理が、成立しない。
床に転がる暇も与えられず、羅漢の剛剣が私の予測や技術を力任せに叩き潰していく。
「お前の剣には『誰かのために命を張る熱』がねえんだよ!」
一喝。横なぎの一撃が、私の体勢を完全に崩した。次の一撃で、終わる――。
理詰めで予測するまでもない。圧倒的な『死』の予感が、頭上から迫っていた。
ガァァァンッ!!
受け止めた瞬間、腕の骨が嫌な音を立てて軋み、衝撃で膝が畳に深くめり込んだ。指先の感覚は弾け飛び、木刀が手から滑り落ちそうになる。
(……私の剣に、熱がない?)
視界が火花を散らす中、羅漢の言葉が胸をえぐる。
正しい太刀筋。無駄のない重心。そんなものでは到底太刀打ちできない、圧倒的な『熱』。
薄れゆく意識の中で、脳裏に一人の少女の姿が浮かんだ。
臆病で、いつも私の後ろに隠れていた、不器用な親友。
あの子はいま、一人で王の前に立ち、震えながらも顔を上げている。私に相談もせず、自分一人の足で立とうとしている。
(……置いていかれる)
その恐怖が、私の心を満たした。
(違う……私は、あの子を守るって決めたはずなのに――)
綺麗事じゃない。
王女だからじゃない。
世界のためでもない。
――ただ、置いていかれたくない。
「『熱』が――無いですって!」
アイラを助けたい。王女を支えたい。そんな綺麗な言葉じゃなかった。ただ、隣にいたい。あの子が一人で背負おうとしているものを、半分奪ってやりたい。
「そんなわけ――ないでしょう!!」
足の裏で畳を噛み砕くように踏み込み、私は叫びながら、全力で床を蹴った。これまでの合理性も、合気の理も、すべてをかなぐり捨てた。
「私はただ、あの子の隣に立ちたい! あの子の――盾であり、剣でありたい!」
剥き出しの感情を乗せた、渾身の一撃。
羅漢の豪剣を真正面から弾き返し、私の木刀の先が、彼の頬を一筋、赤く染めた。
静寂が、道場を支配した。
羅漢は一瞬だけ目を丸くし、それから天を仰いで笑い出した。
「ガハハハハッ! それだ! その目だ! その熱こそが、ジンの剣だ! よくぞ小賢しい殻を破ったな、奏!」
羅漢は愉快そうに笑った。そして語り始める。
「国が動くには理屈がいる。だが、個は情で動く」
ソウシンさんに向き直った。
「大尊師。……神羅って国が動けねえってんなら、俺は今日から『十剣』を降りるぜ」
羅漢は懐から十剣の証たる木札を取り出し、未練の欠片もなく床に放り捨てた。
「俺は、親友を殺した帝国を叩き潰す『大義』をずっと探してたんだ。……友の娘と、その親友の王女を助ける……これほど血の滾る大義はねえ!」
「やれやれ……」
ソウシンさんは溜息をつき、けれどどこか嬉しそうに目を細めた。
「破門の必要はない。勝手にしろ。ただし……生きて帰れよ」
その声音は、どこか他人に向けたものではなかった。
「大尊師、もっと喜んでくだせえ! 国を守るあんたが行けない代わりに、この俺様が『孫娘』を助けに行くんですぜ?」
――孫娘?
……言葉の意味が、頭の中でゆっくりと組み上がる。
私が呆然としていると、羅漢は私の肩を痛いほど叩いた。
「なんだ、お前。知らないのか? ジンは、大尊師の息子。……つまり、この喰えない御仁は、お前のじいさまだよ」
「え……っ、ええええ!?」
私の叫びが、道場に響き渡る。
「ふぉふぉふぉ……似ておるな、驚いた顔も。あの男に」
ソウシンさんは、また煙に巻くように笑っていた。
神羅島最強の剣士、羅漢。そして彼を慕う精鋭たちが、私の後ろに並ぶ。私は、自分一人では決して届かなかった、最強の「矛」を手に入れた。
(待ってて、アイラ。今度は私が、あなたの元へ帰る番だ)
――その時、私の中で何かが、確かに変わっていた。




