第23話 十五年越しの道標、血の証明
賢者様の庵の木の床に突っ伏したまま、あたしたちはどれくらい泣き続けていただろうか。
呼吸をするたびに、胸が軋む。泣きすぎて、もう涙すら出ないのに――痛みだけが残っている。
シロが、静かにあたしの隣に寄り添ってきた。その大きな体が、柔らかい毛並みが、ぬくもりとしてあたしに伝わってくる。白狼は何も言わない。ただ、そこにいてくれた。
「……お前たちを転移させた後、レオナルトはたった一人で帝国の大軍に斬り込み、実に三分の一を壊滅させるという、鬼神のごとき戦いを見せたのじゃ」
静寂の中、賢者様がポツリとこぼした言葉に、あたしはビクッと肩を震わせた。
「だが、多勢に無勢。……ついに取り押さえられてしまった。帝国は、その圧倒的な武力と、民を惹きつける『カリスマ』を利用するため、彼を殺さず『セレスティア自治区の宰相』として据えたのじゃ」
あたしの頭に、血だらけで戦う背中が浮かんだ。
「……王立図書館の歴史書に書いてあった、あの残酷な政策は……。帝国に恭順するフリをして、この国の中枢に残り続けるためのものだったんでしょうか」
奏が、苦しげに、けれどはっきりと口にした。
「そうじゃろう。当初、民は彼を信じた。『あのレオナルト様が言うなら』と。だが、彼が生き延びるために選んだ政策は、あまりにも過酷じゃった」
「……魔導士の拘束と、魔法石の帝国への提供」
賢者様は重く頷き、目を伏せた。
「帝国に媚びへつらうようなその仕打ちに、彼を信じていた民は深く絶望した。やがて、口々にこう噂するようになったのじゃ。『親衛隊長レオナルトは、自らの保身のためにセレスティアを売った裏切り者だ』とな」
息が、詰まった。
こうして彼は、守るべき民から誰よりも深い憎悪を向けられながら、十五年もの間、たった一人で孤独な統治を続けてきたのだ。
「レオナルトは……ずっと、たった一人で……」
奏が、血が滲むほど強く拳を握りしめた。
「……許せない」
その声は、悲鳴のようだった。誰よりもこの国を愛した誇り高き騎士に、国を売る泥をすすらせ、民から憎ませることを強要した、帝国という存在への底知れぬ怒り。
「アイラよ。お主が『日本』とやらに帰る方法は、先ほども言った通り、玉座の間にある転移装置を使うしかない」
賢者様は、真っ直ぐにあたしを見据えた。
「だが、あれを起動するには、セレスティアの地脈に流れる魔力の大半と、魔法石の力が必要になる。現在、城を占拠している帝国が、それをすんなり渡すはずがない。……つまり、帰還の扉を開くということは、帝国との全面的な衝突を意味する」
衝突。命の奪い合い。その言葉の重みに、あたしはギュッと唇を噛んだ。
「しかし、それでも命を懸けて玉座にたどり着けば、お前は日本に帰り、何も知らなかった頃の平和な日常に戻ることができる。この国の惨状も、レオナルトの苦しみも……すべてを置き去りにしてな」
賢者様の言葉は、優しくも残酷だった。自分たちだけが助かる『逃げ道』を示しながら、同時に、重い選択を迫っている。
「……私は」
静かな、けれど微かに震える声が響いた。奏だった。
彼女はゆっくりと立ち上がり、まっすぐにあたしを見た。
「……賢者様の言う通り、帰れば私たちは、……セレスティアの国を見捨てることになる」
奏は、痛みを堪えるようにギュッと拳を握った。
「でも……私は、アイラの決めたことに従う。アイラが日本に帰りたいと願うなら、私が剣になって、玉座までの道を切り拓く。……その代わり、国を見捨てた十字架は、私にも半分背負わせて」
「奏……」
帰りたい。
お弁当の匂いがする、あの温かい家に。あたしを愛して育ててくれた、日本のお父さんとお母さんのもとに。
その気持ちは、嘘じゃない。
でも――。
あたしは、胸元の青い魔法石に触れた。指輪に触れた。
この石を選んでくれた長老の手。ベイル村の村長の言葉。ゴードンさんたちの温かさ。ロレンスさんの偏屈な探求心。リトル・セレスティアの人たちの熱量。リャンさんの静かな指導。ソウシン様の見事な合気。
そして――あたしたちのすべてを背負い、玉座の前に立ち続けたレオナルトの、修羅のような後ろ姿。
言葉が、喉の奥で震えた。
日本での温かい記憶が、未練となってあたしの心を引き留めようとする。それでも、あたしはギュッと拳を握り、ゆっくりと顔を上げた。
「帰りたいよ――本当は」
その言葉の続きを、あたしは一度だけ、飲み込んだ。
「でも……自分だけ逃げて、全部なかったことになんて、できない。知っちゃったから。あたしが、何者なのかも。……誰が、あたしをここまで生かしてくれたのかも」
涙でぐしゃぐしゃだったはずの声には、自分でも驚くほど、はっきりとした芯が通っていた。
本当のお父さんたちが命を懸けて守ってくれたこの命を。
レオナルトが十五年間、泥をすすって守り抜いてきたこの国を。
見捨てて自分だけ逃げるなんて、絶対にできない。
部屋に、静寂が満ちた。
賢者様は何も言わなかった。奏も、ただあたしを見ていた。
あたしは涙を乱暴に拭い、賢者様を見た。
「……賢者様。ひとつ、聞かせてください」
「なんじゃ」
「どうして、レオナルトはあたしたちを『日本』なんて、遠く離れた別の世界に転移させたんですか? この世界のどこかに隠せば、もっと近くにいられたんじゃないかって……」
賢者様は少しだけ目を細め、穏やかに答えた。
「次元そのものを跨がせれば、帝国の魔力探知はまず届かん。それに……ほれ、お前さんたち、あちらの世界で『見たこともない古い書籍』に触れなかったか?」
――ドクン。
心臓が、大きく跳ねた。
『セレスティア』と書かれた、あの路地裏の古本屋。
薄暗い店内で、あたしが手に取った、あの古い本。
表紙に描かれた少女の顔が、あたし自身に似ていたあの本。
「あの本が……どうして……?」
「お前さんたちの指輪は、その本に反応する仕組みになっておった。あれは、ただの本ではない。次元を超えて道筋を繋ぐための『座標固定装置』じゃ。……いつか、お前たちが成長し、この世界へ帰還できるように、奴が最後の力を振り絞って設置した『道標』じゃよ」
ああ、そうだったのか。
あたしは、偶然あの路地裏に迷い込んだわけじゃなかった。三ヶ月間、扉の前で立ち尽くしていたあたしを、あの本はずっと待っていたのだ。レオナルトが……本当の故郷が、ずっとあたしを呼んでいたんだ。
――十五年越しに。
「……でも、賢者様」
奏が、絞り出すような声で問うた。
「たとえ国を守るためだったとしても、今の彼がやっていることは……あまりに、かつての誇り高き騎士とはかけ離れています。十五年という歳月は、彼を……変えてしまったのでしょうか。あの時の誠実な瞳は、もう失われてしまったのですか?」
賢者様は、しばらく黙っていた。窓の外で、風が木々を揺らす音がする。
「その後のレオナルトに何があったのかは、わしにもわからん」
賢者様は、悲しげに目を伏せた。
「生き延びるため、奴隷になることもいとわなかったのじゃろう。魔法の反応を監視し、魔法石を帝国に管理させ……民を守りたかった。だが、選んだ手段はご覧の有様じゃ。彼なりの考えがあるのかもしれんが、わしには計りかねる。……あるいは、もはや引き返せぬところにまで、立たされてしまったのかもしれん」
引き返せぬところ。
その言葉が、胸に刺さった。
だとしたら、なおさらだ。
「……解放しなきゃ」
あたしは、立ち上がった。
いつの間にか、足の震えも、止まっていた。
「帝国を追い出して、閉じ込められている人たちを解放する。そして、レオナルトを……あの孤独から、救い出す!」
もう、迷いはなかった。
「あたしが、この戦いを終わらせる」
真っ直ぐに宣言したあたしを見て、賢者様はふっと、安堵したような、誇らしげな笑みを浮かべた。
「……アイラよ。神羅島のソウシンにも、言われたであろう」
「え……?」
「『帰る場所は、おぬしを拒まぬ』とな」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んだ。
そうだ。あたしは、異世界に迷い込んだただの女子高生じゃない。
「賢者様」
あたしは、深く頭を下げた。
「あたしたちを、ずっと待っていてくれて……ありがとうございます」
賢者様は何も言わなかった。ただ、しわだらけの手で、あたしの頭をそっと撫でた。その手のひらの温もりが、本当のお父さんの声に、少しだけ似ていた。
奏が、静かに腰の神羅十剣に手を添えた。その目に、もう迷いはない。
「……取り戻すわよ、アイラ」
凛とした声。あたしたちを何度も立ち上がらせてきた、あの声。
「うん」
あたしは胸の魔法石を、一度だけ強く握りしめた。脈打つような温かさが、掌に広がる。
賢者様は深く頷き、ふっと表情を険しいものに変えた。
「だが、忘れるな。今の帝国軍には無数の魔導兵器と精鋭部隊がおる。いくらお主たちが力をつけようと、たった二人で正面から挑めば間違いなく犬死にじゃ。国を取り戻すには、巨大な帝国に対抗しうる『軍』……圧倒的な戦力が必要となる」
「戦力……」
「アイラよ。お主はもう、迷い込んだただの子供ではない。セレスティアの第一王女じゃ。その『王女としての立場』を最大限に活用し、戦力を集めよ。民を束ね、他国を動かすのじゃ」
王女としての、立場。
その言葉の重みに、あたしは背筋を伸ばし、力強く頷いた。
「……ですが賢者様」
奏が、冷静な声で口を挟んだ。
「十五年前に死んだはずの王女が急に現れても、他国の王や民が簡単に信じるとは思えません。ペテン師だと疑われるはずです」
「案ずるな。証明の手段なら、すでにアイラ自身が身につけておる」
賢者様は、あたしの胸元を指さした。服の上からでも微かに青い光を放っている、王家の紋章が刻まれた魔法石。
「セレスティア王家の血筋は、代々途方もない魔力をその身に宿す。お主のその『魔法石』は、正当な血を引く者にしか反応せん」
賢者様は、ふと目を細め、あたしたちを交互に見た。
「どうじゃ。これまでの旅の中で、その石が目も眩むような青い光を放ったことはなかったか?」
その言葉に、あたしと奏はハッと顔を見合わせた。
「……リトル・セレスティアでの一件……!」
奏が息を呑む。
あたしは、あの時の光景を鮮明に思い出していた。
ふらりと立ち寄った、王都の外れの難民居住区。あたしが胸元の魔法石を強く握りしめた時、石が強烈な青い光を放ち、それを見た人々が驚愕して膝をついた、あの時の騒動。
「あの時、石が光ったのは……偶然じゃなかったんですね」
「いかにも。王家の血を持つ者だけが、その石を太陽のように輝かせ、王の威光を放つことができるのじゃ。それこそが何よりの、血の証明。民の魂を震わせる、唯一無二の証拠となる」
あたしは、胸元の魔法石をそっと握りしめた。
あの時、あたしを『姫様』と呼んで泣き崩れた老婆の手のぬくもりが蘇る。
あたしの中に流れる、本当のお父さんから受け継いだ、この国の記憶。
「……証明してみせます。あたしが、アイラ・セレスティアであることを」
「……よい面構えになった。その瞳、かつての王妃によく似ておる」
「それから、これを持って行け」
賢者様は木箱から「一対の青いイヤリング」を取り出し、あたしたちに一つずつ手渡した。
「これは、魔力で微かに共鳴し合う魔道具じゃ。遠く離れていても、互いの居場所の『方向』だけはかすかに感じ取れるはずじゃ。……これから始まる過酷な戦いの道標とせよ」
青く透き通るイヤリングを、あたしはしっかりと握りしめた。
「よいか、小さき希望たちよ。くれぐれも、無茶はするなよ」
――セレスティア王国第一王女、アイラ。
胸の奥で、何かが静かに燃え上がる。
今ここから、あたしたちの本当の故郷を救い出すための、反撃が始まるんだ。
これは、復讐じゃない。
奪われたものを、取り戻すための戦いだ。
* * *
翌朝。
賢者様の厚意で庵に一泊させてもらったあたしたちは、夜明けと共に旅立ちの支度を整えた。
小屋の扉を開けると、アズライトの冷たい山風が、あたしたちの髪を揺らした。空は高く、どこまでも青い。
シロが、あたしたちの前に立ち、山のふもとへと続く獣道を静かに歩き出した。まるで、道を示すように。
「……シロも来てくれるの?」
あたしが呟くと、白狼は振り返らずに、一度だけ尻尾を揺らした。
「……頼もしい道案内ね」
奏が、小さく笑った。
あたしも笑った。
二人は並んで歩き出した。
吹き抜ける風の向こう――。
待ち受ける、新たな戦いの舞台へと。




