第21話 賢者の庵と、記憶の「錨」
特異点と化した魔獣を倒し、あたしたちはさらに青き山の奥地へと足を踏み入れた。
やがて、空を覆い隠すほどの大木の根元に、ひっそりと佇む小さな丸太小屋が見えてきた。
「……アイラ、気をつけて。空気が違うわ」
奏の鋭い声に、あたしは足を止めた。
小屋の周囲だけ、景色が陽炎のように歪んでいる。ただの魔法の壁じゃない。そこから放たれているのは、圧倒的な密度を持った「気」の奔流だった。
「精神を制御できない者が近づけば、一瞬で正気を失いそうね……『気の結界』よ」
「でも、今のあたしたちなら」
あたしは目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をした。神羅島で、ソウシン様に何度も叩き込まれた精神の統一。荒ぶる魔力を静め、自分自身の「芯」を保つ。
目を開けると、歪んでいた景色がはっきりと形を結んだ。
奏と頷き合い、あたしたちは結界の中へと足を踏み入れた。
その瞬間だった。
「――グルルル……」
小屋の影から、ぬらりと巨大な白い影が姿を現した。
真っ白な体毛に覆われた、見上げるほど巨大な狼型の魔獣。先ほどの黒い特異点とは比べ物にならない、静かで、しかし底知れないプレッシャー。
「敵……っ!?」
あたしが反射的に魔力を練り上げようとした瞬間、奏がスッと前に出た。
「――ちょっと待って。……殺気を感じないわ」
奏は剣を抜かず、無防備なままそっと右手を差し出した。
巨大な白狼は、警戒する様子もなく奏に近づくと、その大きな舌で、彼女の手のひらを穏やかにペロリと舐めた。
「……あなた、ひょっとして守護獣さん?」
「そうね。……賢者様と、ここで暮らしているのかしら」
奏が白狼の喉元を撫でると、白狼は気持ちよさそうに目を細めた。あたしも恐る恐る手を伸ばすと、巨大な頭がぐりぐりとあたしの掌に押し付けられた。
「……思ったより、もふもふだ」
思わず呟くと、奏が小さく吹き出した。
「――見事じゃ。わしの結界を破り、シロにも怯えぬとはな」
ふいに、小屋の扉が開く音がした。
そこに立っていたのは、長い白髭を蓄え、深い皺の刻まれた顔に、星空のように澄んだ知的な瞳を持つ老人だった。質素な麻の衣をまとい、節くれだった手に古い杖をついている。その佇まいは、どこか神羅島のソウシン様と似た静けさを纏っていた。
「お尋ねいたします。あたしはアイラといいます。こちらは奏。……賢者様でいらっしゃいますか」
その老人は、杖をつきながらゆっくりとあたしたちに近づいてくると――突然、あたしたち二人を、その細い腕で力強く、ぎゅっと抱きしめた。
「え……?」
「よく来たな……小さき希望たちよ。待ちくたびれたぞ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がチクリと痛んだ。
――初めて会ったはずなのに。
どうして、この人の声を「知っている」気がするのだろう。
老人の声は、震えていた。温かくて、どこか懐かしい匂いがした。
「……賢者様? まるであたしたちが来ることが、わかっていたみたいに……」
「ああ、もちろんじゃ」
そう言って、老人はあたしたちの方に向き直した。
「わしの名はガルド。……お主たちが立派に育ち、ここへ辿り着くこの時を、わしはずっと……ずっと待っておったのじゃ」
* * *
小屋の中に案内されたあたしたちは、温かいお茶を出された。
壁には無数の魔導書が積み上げられ、あちこちに見たこともないような魔道具が置かれている。窓の外では、シロが小屋の周囲をゆったりと歩き回っていた。
あたしは、お茶に口をつけるのももどかしく、単刀直入に切り出した。
「……賢者様。あたし、元の世界に帰る方法を探しているんです。日本に、帰りたいんです」
あたしの悲痛な声に、賢者様は深く頷いた。
「……帰るための『鍵』じゃが、お主がすでに持っておる。その指輪じゃ」
「この、指輪が……?」
あたしは自分の指にはめられた、プラチナの指輪を見つめた。
「そうじゃ。それは次元を繋ぐ起動キー。……だが、それを作動させるための『転移装置本体』は、わしがかつて造り上げたものじゃが……今は、帝国が占拠する旧セレスティア王城、玉座の間の奥に封印されたままじゃ。つまり、帰るためには、あの城から帝国を追い出さねばならん」
玉座の間。帝国を、追い出す。
そのあまりにも途方もない条件に、あたしと奏は息を呑んだ。
「だが、玉座へ向かう前に、お主たちには知らせねばならぬことがある。……お主たちが何者で、なぜここにいるのかをな」
賢者様は立ち上がり、あたしたちの前に静かに立った。
「ふむ……やはり、強固な封印が施されておるな。二人とも、少しばかりこっちへ来なさい」
言われるがまま顔を上げると、賢者様があたしと奏の頭に、そっと手を置いた。
「――『開け』」
「「あっ……!」」
途端に、頭の奥で何かが弾けるような衝撃が走った。
それは「思い出す」という感覚ではなかった。
無理やり、鍵をこじ開けられるような――封じ込められていた何かが、暴れながら溢れ出してくる。
光の奔流。見たこともない、けれど知っている景色。
大理石の床。ステンドグラスから差し込む光。焦げ臭い煙の匂い。誰かの、悲痛な叫び声――。
「はぁっ、はぁっ……!」
あたしは弾かれたように目を見開いた。隣で、奏も肩で息をしている。
「今のは……何? いったいどういうことですか!?」
賢者様は、慈しむような目で、あたしたちを見た。
「……わしは、先々代のセレスティア国王のもとで宮廷魔導師筆頭をしておった。人はわしのことを賢者と呼ぶが、少しばかり人より多くの魔法が使え、関わった者の運命の糸が見えるだけの、ただの爺じゃよ」
賢者様は、遠く窓の外を見る。
「神羅島のソウシンも、よくわしに話を聞きに来たもんじゃ。トップに立つ者は孤独じゃからな。……そう、アイラ。お前の父上もな」
「お父さん? ……どういうことなんですか。あたしのお父さんは、日本にいるのに……」
「アイラよ」
賢者は、あたしの方を向き直し、真剣な表情で語り始めた。
「お主の本当の姿。それは、旧セレスティア王国の先代王エリアス陛下の一人娘。正当な王位継承者じゃ」
――え?
賢者様の言葉が、頭の中でうまく結像しなかった。
王位継承者?
先代王の一人娘?
「アイラが……! セレスティアの……!」
奏が驚愕の声を上げる。
「そんな……だって、あたしのお父さんとお母さんは日本にいて――」
「違う……」
喉の奥から、かすれた声が漏れた。
「違う、違う違う……っ!」
あたしは後ずさりしながら、何度も激しく首を振った。頭の中を、日本にいるお母さんの優しい笑顔と、お父さんの不器用な笑い声が駆け巡る。
「そんなはずない! あたしは、日本で生まれて、日本で育って……毎朝、あたしにお弁当を作ってくれて……!」
視界がぐにゃりと歪む。息が、うまく吸えない。
「あれが……嘘だったなんて……そんなの……!」
「アイラ……」
隣で奏が伸ばしかけた手を、あたしは無意識に振り払ってしまっていた。
「やめてよ……そんなこと、言わないでよ……っ!」
床にへたり込みそうになるのを必死に堪え、あたしは自分の頭を抱え込んだ。
必死で紡いだあたしの言葉を、賢者様は静かに受け止めた。すぐに否定も肯定もせず、ただ、嵐が過ぎ去るのを待つように、あたしの言葉を全部聞いてくれた。
そして、静かに続けた。
「そして奏よ。お主にも伝えないといけない。……先代王が最も信頼していた守護者ジン。神羅十剣が一人。その一人娘が、お主じゃ」
「……っ!」
奏の喉が、かすかに鳴った。
「……嘘……よね……?」
奏の気丈な空気が、かつてないほど激しく揺らいでいた。
「そうじゃ、その指輪を見せてごらん」
混乱するあたしたちが、震える手を差し出すと、賢者様が指輪にそっと念を込めた。淡い光が溢れ出し、空中に映像――ホログラムが浮かび上がる。
「この指輪は、転移の鍵であると同時に、記憶のストレージになっておる。多くの者が家族の映像を記録するのじゃが……これは、ただの思い出ではない。過酷な次元転移をする者が、自分が何者だったかを絶対に忘れぬための、『錨』なんじゃ」
浮かび上がった光の中にいたのは――。
王冠を被り、優しく微笑む見知らぬ男性と、アイラによく似た美しい女性。
そして奏の指輪からは、鋭い眼光の中にも深い愛情を湛えた剣士と、その妻の姿。
淡い光の粒子が結像し、空中に浮かび上がったその姿を見た瞬間――。
ドクン、と心臓が、今まで経験したことのない強さで跳ねた。
肺から空気が押し出され、呼吸の仕方を忘れてしまったかのようだった。
頭では『知らない人だ』と叫んでいるのに、胸の奥の、もっと深い魂の底から、どうしようもないほどの『愛おしさ』と『懐かしさ』が洪水のように溢れてくる。
理屈よりも先に、目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
胸の奥がギュッと締め付けられる。懐かしくて、温かくて、たまらなく悲しい。
「これが……本当のお父さんと、お母さん……」
隣を見ると、いつも冷静な奏も、両手で顔を覆って声を殺して泣いていた。
あたしたちは、ただの迷子じゃなかった。ここは、見知らぬ異世界なんかじゃない。奪われた、あたしたちの本当の故郷なんだ。
「アイラ、奏。お主ら二人のことだ。……まずは、自分の目で見てきなさい。あの日、何があったのかを」
涙に暮れるあたしたちの額に、賢者様の温かい手が、再びそっと当てられた。そして、あたしたちの意識は、十五年前の「あの日」へと深く沈み込んでいった――。
――逃げ場のない、「真実」の中へ。




