第20話 暴走する核、崩れる同調
青く透き通るようなアズライトの山肌が、木々の隙間から時折顔を覗かせる。一歩、また一歩と踏み出すたび、ひんやりとした森の空気が肌を撫でた。以前ここへ来たときは、ただ息を殺し、震える足で逃げ隠れするしかなかった恐ろしい場所。
(でも、今は違う)
隣を歩く奏の足取りは羽のように軽く、あたしの胸元にある魔法石も、静かで力強い熱を帯びている。あの時の、ただ怯えるだけだった無力なあたしたちじゃない。
――ザザッ。
前方の茂みの奥で、何かが動いた。飛び出してきたのは、三匹の狼に似た中型の魔獣だった。青黒い体毛に、ぎらつく黄色の瞳――かつてのあたしたちなら、一匹相手でも命がけになる凶暴な魔獣だ。
「アイラ」
「わかってる!」
あたしは一歩踏み込み、手のひらに魔力を集束させる。
――スッ。
以前のように無駄な魔力を垂れ流すことはしない。指先にスッと魔力を集中させると、熱も暴発もない、澄み切った光が刃のように収束した。
「はっ!」
放たれた極小の光弾は、まるで狙い澄ました矢のように、一匹の魔獣の足元で炸裂し、そのまま動かなくなる。
「一体」
背後から迫る気配。振り向くより早く、横から銀閃が走った。
キィンッ――!
奏の剣が、もう一体の喉元を正確に斬り裂く。彼女は魔獣の気の流れを完全に読み切り、最小限の動きで急所を捉える。血飛沫すら最小限に抑えられた、無駄のない一撃。
「二体」
残る一体が怯んだように足を止める。
その一瞬で、勝負は決まっていた。
「逃がさない」
奏が低く呟き、地を滑るように踏み込む。次の瞬間には、魔獣の背後に回り込んでいた。
――ズン。
遅れて、魔獣の体が崩れ落ちる。
「三体、終了」
静寂が戻る。以前なら、逃げることすらできなかった相手を、あたしたちは何の苦もなく倒していた。
「……終わったわね。十秒ってところかしら」
奏は小さく息を吐きながら、刀身に付着した僅かな汚れを静かに払い落とした。
「うん……やれる。あたしたち、ちゃんと強くなってる!」
自分の手のひらを見つめ、あふれ出そうになる歓喜をぐっと噛み締める。以前ここへ来たときは、恐怖でガタガタと震えていた両足が、今はしっかりと、力強く大地を踏みしめていた。
「当然よ。あの修行を乗り越えたんだから」
剣を鞘に収めながら、奏が小さく息を吐く。あたしたちは顔を見合わせ、自然と笑みをこぼした。神羅島での修行は、確実にあたしたちを強くしている。
あたしも手のひらに残る魔力の余韻を確かめながら、ふっと息を吐いた。
――いける。
そう思った、その時だった。
「……待って、奏」
胸の奥に、わずかな違和感が走る。
さっき魔獣を倒した瞬間、ほんの一瞬だけ――
「今、何か……引っ張られなかった?」
「……え?」
奏が眉をひそめる。あたしは周囲を見回した。風もないのに、木々の葉がかすかに揺れている気がする。
「気のせい、かも……」
そう言いながらも、胸の奥に残るざらつきは消えなかった。奏も無言で周囲に意識を巡らせる。数秒の沈黙。やがて彼女は、小さく首を振った。
「……今の段階では、異常は検知できない。でも――」
その視線が、森のさらに奥へと向けられる。
「気を引き締めた方がよさそうね」
「うん……」
さっきまでの手応えとは違う、得体の知れない何か。
それを振り払うように、あたしたちは再び歩き出した。
* * *
森の奥へ進むにつれて、空気が変わっていくのがわかった。
さっきまでの「生きた森」の気配が、少しずつ薄れていく。
「……静かすぎる。前もこんな感じだったわね」
奏がぽつりと呟く。
確かに、鳥の声も、風に揺れる葉音すら、どこか遠い。
まるでこの一帯だけ、世界から切り離されたみたいに。
「さっきの、やっぱり気のせいじゃない気がする」
胸の奥に残る、あのざらつき。
それが、今ははっきりと形を持ち始めていた。
――引っ張られている。
あたしの中の魔力が、どこか一点へと、じわじわと吸い寄せられている。
「奏、これ……」
「ええ。感じるわ。前よりもはっきりと」
奏の声が低くなる。
彼女は目を閉じ、周囲の「流れ」を読むように意識を研ぎ澄ませている。
「中心がある。かなり強い『歪み』……間違いない、これが」
その瞬間だった。
――ズン。
地面の奥から、鈍い振動が伝わってきた。
「……来る」
奏が呟いた直後、木々の奥で、何か巨大な影が揺らめいた。
ザザザザッ――!
枝をへし折り、地面を抉りながら、それはゆっくりと姿を現す。
漆黒の巨躯。
以前、何の対抗もできず敗北した魔獣だった。
地を踏みしめるたびに伝わる重圧。
体表を、赤い筋のようなものが走っている。
まるで血管のように脈打ち、そのたびに周囲の空気が歪む。
吸い込まれている。
光も、熱も、そして――あたしたちの魔力さえも。
「……これが、『特異点』」
奏の声は、はっきりとした確信を帯びていた。
魔獣がゆっくりと顔を上げる。
その瞳が、あたしたちを捉えた瞬間――。
ゾワッ、と全身の毛が逆立つ。
以前感じた「恐怖」とは違う。
もっと直接的な、「削られるような感覚」。
存在そのものを、内側から引き剥がされるような。
「……っ、来るよ、奏!」
「ええ、構えて!」
魔獣が唸り声を上げる。
同時に、その周囲の空気が渦を巻いた。
――引かれる。
強烈な引力が、あたしたちの体内の魔力に干渉してくる。
ザコとは、まるで違う。
比べ物にならない密度だ。
「っ……これ、最初から全開で行く!」
「判断は正しいわ!」
互いの位置を確認する。
呼吸を合わせる――はずだった。
けれど。
「……っ!?」
ほんのわずか、ズレる。
さっきまで当たり前にできていた同調が、ピタリとは噛み合わない。
まるで間に、見えない「ノイズ」が入り込んだみたいに。
「アイラ、仕切り直しよ! 一度、離れて――」
その言葉を遮るように、魔獣が地を蹴った。
――ドンッ!!
視界が揺れるほどの衝撃とともに、巨体が一瞬で距離を詰めてくる。
「速っ――!?」
以前とは比較にならない速度。そして、その軌道すら、どこか歪んで見える。
「アイラ!!」
奏の叫び。振り下ろされる、巨大な爪。
――でも、今のあたしは、ただ怯えるだけのあたしじゃない!
迫り来る死の凶刃に対し、あたしは手のひらに魔力を集め、反射的に解き放った。神羅島でソウシン様に叩き込まれた「気」の制御。ただ闇雲に放出するだけだった光は、あたしの意志に従い、高密度の盾となって魔獣の爪を弾き返した。
「いける……!」
弾かれた魔獣の隙を突き、奏が地を蹴る。彼女の剣筋には迷いがなかった。魔獣がまとう異質な魔力の「流れ」を読み切り、先回りするように的確な斬撃を叩き込んでいく。
確かな成長の証。あたしたちは、やれる。
そう確信して、一気に畳み掛けようとした瞬間だった。
「――くっ!?」
奏の動きが鈍った。
見ると、魔獣が大きく顎を開いていた。その喉の奥で、異様な光が渦を巻いている。
周囲の空気が悲鳴を上げ、さっきから感じていた『特異点』の引力が、一気に跳ね上がった。あたしの体内を巡る魔力が、激痛を伴って強引に吸い寄せられていく。
「干渉が強くなってる……これじゃ、魔力が持っていかれる!」
さっき倒した魔獣の残滓すら、地面から引き剥がされるように吸い込まれていく。
「――こいつ、自分の周囲そのものを『餌』にしてる……!」
「アイラ、出し惜しみは無しよ! 『比翼の剣』で一気に決める!」
「わかった!」
あたしたちは呼吸を合わせ、魔力を共鳴させようとした。
けれど――。
『特異点』からの強烈な引き寄せが、二人の波長を乱す。ピントが合わない。同調が、結べない。
「違う……! これじゃ同調できない!」
「いいえ、いける。私が合わせる!」
焦るあたしの横で、奏が鋭く叫んだ。
奏は自身の「気」を限界まで練り上げ、あたしから溢れ出す荒ぶる「生の魔力」を、無理やり包み込もうとしていた。ギリギリと、奏の腕の筋肉が悲鳴を上げているのがわかる。彼女は自分自身を器にして、強引にチューニングを合わせようとしているんだ。
(奏……っ!)
「アイラ、今! あなたの光を、私の切っ先に乗せて!」
「いっけえええええっ!!」
ドクン、と心臓が跳ねた。
一拍のズレ。不完全な同調。
けれど、今のあたしたちには、それを補って余りある「想い」があった。
「はあああああっ!!」
二人の声が重なる。放たれた膨大な黄金の光刃が、魔獣の放った漆黒のブレスごと、分厚い防御壁を真っ二つに両断した。
鼓膜を破るような轟音の後、魔獣の巨体は光の粒子となって山風に溶けていった。
あとに残ったのは、静寂だけ。
「……やった……」
膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。
「奏! 大丈夫!?」
駆け寄ると、奏は右腕を押さえて顔を歪めていた。無理やり魔力を制御した代償――深刻な魔力酔いと、過負荷による一時的な麻痺だ。
「……ええ、なんとかね。でも、これは……」
痛みを堪えながら、奏の視線が魔獣の消えた跡に向けられた。光の粒子が消え去った地面に、黒く変色し、異様な脈動を続ける「石」が落ちていたのだ。
「魔獣のコアの部分に、魔法石が見えたわ」
「……それって。じゃあ、ゴードンさんが言っていた、帝国の実験って……」
「ええ、間違いないわね」
奏が忌々しげにその石を睨みつける。
「魔法石の論理を悪用して、魔獣の体内に埋め込み、強制的に魔力を吸い上げる『特異点』に作り変えて狂暴化させていたのよ」
その言葉が、重い鉛のようにあたしの胃の腑に落ちた。
自然の中で生きていた命を、無理やり兵器に作り変えるなんて。
――あたしの脳裏に、魔獣が光に飲まれる瞬間の、あの濁った黄色い瞳が焼き付いていた。
憎悪でも、殺意でもない。あれは……終わりのない苦痛から解放してほしいと泣き叫ぶ、迷子の目だった。
ギュッと、爪が食い込むほど拳を握りしめる。元の世界に帰る。それだけじゃダメなんだ。この世界で泣いている命を、おぞましい悪意で弄ぶやつらを――あたしが、終わらせる。
「……行こう、奏」
あたしは、痛む腕を押さえる彼女に肩を貸しながら、山のさらに奥へと視線を向けた。
「賢者様に会って、全部終わらせる方法を見つけなきゃ」




