第二.五章商会飛躍編 第32話「リリア屈服」
あらすじ
清王朝初期、王朝拡大に大きな影響をもたらした摂政王ドルゴン。
徳川家康の孫にして、豊臣秀頼の正室・千姫。
権力の絶頂期に若くして急死したドルゴンと、
大坂夏の陣で落城寸前だった千姫は、
突如見知らぬ世界へと身一つで飛ばされる。
そこから成り上がる二人の物語。
千姫とドルゴンは策を巡らせて、ハルトマン商会を掌握する。
王宮の奥にあるという帰還の鍵を手に入れるために、
二人は王宮に近づくために商会を大きく飛躍させるべく動く。
主な登場人物
ドルゴン:清朝初期の権力者・摂政王
ハルトマン商会番頭に就任
千姫:徳川家康の孫・豊臣秀頼の正室 猫かぶりのお姫様
孤児の才女サラとして、商会長屋敷に潜入中
フカ:逃亡奴隷、ドルゴンにフカと名付けられる
河野:ドルゴンの部下となった日本人女性 人の醜聞を覗くことが生きがい
ヨアン:妹を買い戻すためにドルゴンの部下となった元丁稚の少年
エルドリン:繁華街で火起こしの術を披露している大道芸人 ダルガの食客
ルーヴァ:エルドリンの孫 聡明な頭脳と術師の血統を持つ
ブリギッタ:ダルガの管理人となった老婆
オズヴァルト:商会倉庫の荷役統括⇒倉庫長
ミルガ:娼館の呼び込みにして、自称街の情報屋
ラドウィン:小所帯の傭兵部隊の隊長
ラナ:洗濯婦として働く狼族の美しい少女 千姫の友達
⇒千姫の直臣となる
リリア:ハルトマン商会長 我儘お嬢様⇒軟禁中
フロレンツィア:リリアの養育係⇒地方に左遷
カロリーネ:ハルトマン商会長後見人 ドルゴンと不貞の関係になる
⇒休養のため王都に不在
エーバーハルト:ハルトマン家家宰⇒年齢を理由に勇退
主な用語
ハルトマン商会:ドルゴン、フカが働いている商会
正社員:幹部
準社員:従業員
ダルガ:ドルゴンの屋敷、転じてドルゴンの私的組織
術わざ・奇跡の術:体内の血肉を違う形に変換する術のこと。街の人たちからは魔法と呼ばれる
「リリア屈服」
話は、カロリーネが商会長屋敷を離れた時点にまでさかのぼる。
千姫がラナを迎えに出ていった後、河野はすでに動き出していた。
「リリア、こちらにきなさい」
「きゃっ、いたっ……いったい何よ?」
リリアの部屋の扉をいきなり開けた河野は、リリアの腕をつかみ、そのまま部屋の外へと引きずり出した。
その呼びかけも、以前の丁寧なものではなく、使用人に対するような呼び捨てへと変わっていた。
「やめてよ……いったいどこに連れて行く気なの?」
「……」
河野は何も答えなかった。
そのまま河野はリリアを連れて廊下を進み、サラ──千姫が使っている部屋へと押し込み、外から扉を閉めた。
「……ねえ、開けてよ、開けなさいよ!」
リリアは扉を叩き、必死に開けようとしたが、すでに鍵が掛けられており、開けることはできなかった。
やがて、扉の覗き窓が外側から開かれ、河野が中を覗き込んできた。
「リリア、今日からここがあなたの部屋です」
「な、何を勝手に……開けなさいよ!」
「扉を開けてほしければ、寝台の上にある服に着替えなさい。そうすれば、開けて差し上げます」
河野は淡々とそう告げた。
リリアが寝台の上に目を向けると、そこには使用人の服が置かれていた。
それに着替えるということは、すなわち使用人として扱われることを意味していた。
「こんなの、着られるわけないじゃない!」
リリアは、その意味を察したうえで、強く拒絶した。
「ご勝手に……ただし、その服を着るまでは部屋から出ることは叶いませんよ」
そう言い残し、河野は扉の前から立ち去った。
「こ、殺してやる……殺してやるわ!……死んでやる……!」
リリアは怒りと混乱のままに声を荒げ、恨み言や自棄の言葉を吐き続けた。
だが、やがて力尽き、その声も途切れていった。
リリアは寝台の上に腰を下ろし、呆然としたまま……使用人の服を見つめ続けた。
(絶対に着るもんか……)
リリアは、そう心の中で言い聞かせていた。
やがて夕食の時間になると、部屋の扉下の小窓から食事と水が差し出された。
それは、これまで与えられてきた上等な食事ではなく、使用人が口にするような質素なものだった。
「なによ、これ……こんなの、食べるわけないじゃない」
リリアは食事を拒絶した。
「……」
しかし、扉の向こうからは何の反応も返ってこなかった。
その日は、リリアは食事をとらずにやり過ごした。
そのまま床に就き、空腹を抱えたまま夜を明かした。
翌朝、再び食事と水が差し入れられた。
(誰が……こんな粗末なもの……)
リリアは最初こそそう思い、再び拒もうとした。
しかし、腹の虫が鳴り、空腹がはっきりと意識されるようになると、いよいよ耐えきれなくなっていった。
(……仕方ないわ……食べないと、死んでしまうもの……)
リリアはそう心の中で言い訳しながら、食事に手を付けた。
空腹のせいもあり、その食事は思いのほか自然に体へと受け入れられていった。
それ以降も、朝と晩の二度、食事は扉越しに運ばれ続けた。
食事をとれば、自然と排泄も必要になる。
部屋には便壺が備え付けられており、リリアはそこに用を足すしかなかった。
やがて便壺の中身は溜まり、部屋には強い臭気がこもるようになっていった。
リリアは耐えかねて、便壺を扉の小窓の前へと置いた。
すると、しばらくして便壺は回収され、新しいものへと取り替えられた。
そのような生活の中で、リリアの抵抗は何日も続いた。
しかし同じ衣服を着続けるうちに、体の不快感は日ごとに増していった。
汗や汚れが蓄積し、においも無視できないものとなっていった。
──一週間ほどが経過した日。
(……し、仕方ないわ……こんなに服が汚れてしまっては……何を着ても、私は私なんだから……)
ついに汚れに耐えかねたリリアは、そう自分に言い聞かせ、心の中で折り合いをつけた。
そして、使用人の服へと着替えた。
次の食事が運ばれてきたとき、リリアは扉に向かって声をかけた。
「ねえ……着替えたわよ……扉……開けなさいよ」
リリアはそう告げた。
河野は覗き窓越しにリリアの姿を確認し、確かに服が替わっていることを確かめると、扉の鍵を開けた。
扉が開いた瞬間、リリアは部屋から飛び出した。
一瞬、リリアは河野を一瞥し、険しい視線を向けた。
しかし、そのまま足元もおぼつかないまま、よろよろと走り去っていった。
河野は、その様子をただ見送り、追いかけることはしなかった。
◆
「ねえ、誰かいないの? フロレンツィア! エーバーハルト! 助けて!」
リリアは助けを求めて周囲を見回し、これまで顔見知りだった者たちの名を呼んだ。
しかし、フロレンツィアもエーバーハルトも姿は見当たらず、応じる声も返ってこなかった。
視界には使用人たちの姿が入ってきたが、いずれも見覚えのない者ばかりだった。
さらに、リリアは自分の身なりが整っていないことを強く意識し、彼らの前に出ることをためらってしまった。
そうして廊下を彷徨い、角を曲がったその先で──
リリアは一人の少女と出会った。
そこに立っていたのは、美しい獣人の少女──ラナだった。
その立ち姿は、可憐でありながら凛としていた。
リリアは、これまで獣人という存在を目にしたことがなかった。
ラナの耳と尻尾にまず驚き、そして何より、その整った容姿に目を奪われた。
リリアは、しばらく言葉を失ったまま、ラナを見つめ続けていた。
やがて、自身の薄汚れた姿を意識したリリアは、急に強い羞恥を覚え、ラナの前から身を隠そうとした。
その瞬間、ラナの手がリリアの腕に伸びた。
「きゃっ……離して……」
リリアは小さく声を上げた。
「あんた……こんなに汚れて……新入りの子かい?……こんなに汚れてちゃダメだよ。こっちに来な」
ラナはリリアを新入りの使用人だと思い込み、純粋に心配していた。
「ちょ……ちょっと……」
ラナはリリアの腕を引き、そのまま屋敷の一角へと連れていった。
そこは浴室だった。
「ちょっと待ってな……お湯をもらってくるから」
そう言って、ラナは一度その場を離れた。
リリアは戸惑いながらも、その場に留まるしかなかった。
しばらくして、ラナは湯を張った桶を抱えて戻ってきた。
「ほら、服脱いで……遠慮しないで……」
ラナは洗い桶に湯を張り、リリアの服を脱がせて中に入れた。
そして、優しく丁寧な手つきでリリアの身体を洗い始めた。
その動きは穏やかで、急がせる様子はなかった。
「あたいには、妹がいるからさ……こういうのはよくやってあげたのさ……」
ラナは優しく、リリアに話しかけた。
「う……うぅ……」
リリアは、久しく感じていなかった手入れと、他者から向けられる無条件の優しさに触れ、思わず涙をこぼしてしまった。
ラナはその様子に気づきながらも、何も問いたださず、ただ黙々と手を動かし続けた。
やがてリリアの呼吸が落ち着いてきた頃、ラナは口を開いた。
「なあ、あんた……名前は何ていうんだい? あたいはラナだよ」
「ラナ……わ、私は……私は……リリアよ……」
リリアは一瞬ためらい、自分の立場をどう名乗るべきか迷った。
だが最終的に、リリアは「お嬢様」としての肩書きを口にせず、名前だけを告げた。
「リリアね……じゃあ、おリリだ」
「おリリって……」
その呼び方に戸惑っていると、リリアの頭上からお湯がかけられた。
◆
湯浴みを終えた後、ラナはリリアの髪や身なりを丁寧に整えた。
整えられたリリアの姿は、かつての華やかな装いではなく、使用人として違和感のないものへと変わっていた。
その後、リリアはラナの後をついて歩いた。
リリアには、他に行くあてがなかった。
「あ、お千……」
ラナの視線の先に、千姫の姿が現れた。
「サラ……」
リリアは思わずその名を漏らし、その瞳には憎悪が浮かんだ。
「ラナ……その子は?」
千姫は、何事もないかのように尋ねた。
「ああ、この子はリリアってんだ。新入りの子らしくてね、ずいぶん汚れていたから、さっき風呂場で体を洗ってやったのさ」
「おぉ、そうか。良かったの、リリア。似合っておるぞ……」
千姫は軽くそう言い放った。
「あ、あなたねぇ!」
リリアは怒りに任せて、千姫へと飛びかかろうとした。
その瞬間、ラナがリリアの腕を強くつかみ、動きを止めた。
「だめだよ、おリリ。無礼なことをしちゃ。お千はこのお屋敷のご主人様なんだ」
事情を知らないラナは、ただ素直にリリアを諭していた。
「……ラナ……」
リリアはラナに名を呼ばれると、不思議と力が抜けていった。
リリアは、ラナに嫌われたくないと感じていた。
「ふふっ……」
千姫はその様子を静かに見届けていた。
こうしてリリアは、新たな立場の中での振る舞いを求められる状況へと、ゆるやかに追い込まれていくこととなった。
ドルゴンという人物が好きで書いた妄想小説です。
楽しんで頂けたら幸いです。
次回:「リリアとラナ」2026/5/8 20時投稿予定




