第二.五章商会飛躍編 第29話「カロリーネ失脚」
あらすじ
清王朝初期、王朝拡大に大きな影響をもたらした摂政王ドルゴン。
徳川家康の孫にして、豊臣秀頼の正室・千姫。
権力の絶頂期に若くして急死したドルゴンと、
大坂夏の陣で落城寸前だった千姫は、
突如見知らぬ世界へと身一つで飛ばされる。
そこから成り上がる二人の物語。
千姫とドルゴンは策を巡らせて、ハルトマン商会を掌握する。
王宮の奥にあるという帰還の鍵を手に入れるために、
二人は王宮に近づくために商会を大きく飛躍させるべく動く。
主な登場人物
ドルゴン:清朝初期の権力者・摂政王
ハルトマン商会番頭に就任
千姫:徳川家康の孫・豊臣秀頼の正室 猫かぶりのお姫様
孤児の才女サラとして、商会長屋敷に潜入中
フカ:逃亡奴隷、ドルゴンにフカと名付けられる
河野:ドルゴンの部下となった日本人女性 人の醜聞を覗くことが生きがい
ヨアン:妹を買い戻すためにドルゴンの部下となった元丁稚の少年
エルドリン:繁華街で火起こしの術を披露している大道芸人 ダルガの食客
ルーヴァ:エルドリンの孫 聡明な頭脳と術師の血統を持つ
ブリギッタ:ダルガの管理人となった老婆
オズヴァルト:商会倉庫の荷役統括⇒倉庫長
ミルガ:娼館の呼び込みにして、自称街の情報屋
ラドウィン:小所帯の傭兵部隊の隊長
リリア:ハルトマン商会長 我儘お嬢様
カロリーネ:ハルトマン商会長後見人 ドルゴンと不貞の関係になる
エーバーハルト:ハルトマン家家宰
先代商会長:ハルトマン商会先代会長 不審死を遂げる
カール:先代商会長の叔父、商会正社員
ベッセル:ハルトマン商会元番頭
アグリオス:ハルトマン商会 元農村統括長
主な用語
ハルトマン商会:ドルゴン、フカが働いている商会
正社員:幹部
準社員:従業員
ダルガ:ドルゴンの屋敷、転じてドルゴンの私的組織
術わざ・奇跡の術:体内の血肉を違う形に変換する術のこと。街の人たちからは魔法と呼ばれる
「カロリーネ失脚」
ハルトマン商会では、新しい商会長リリアの後見人となった継母カロリーネが実権を握っていた。
カロリーネは、もともと折り合いの悪かったリリアを自室に閉じ込め、
公の場にはリリアのお話し相手として雇ったサラを身代わりとして立てていた。
さらにカロリーネは、リリアの入れ替わりを秘匿するため、リリアを知る者たちにそれぞれ理由を付け、
次々と屋敷から遠ざけていった。
「エーバーハルト、いままでご苦労様でした」
「奥様……お元気で……」
(リリア様、どうかご無事で……)
家宰エーバーハルトは、前商会長の死を契機とする形で、本人の高齢を理由に勇退させられた。
カロリーネは、エーバーハルトの勇退の見返りとして、その親族に商会内の良い地位を与えることを約束しており、
表向きは穏便に事が運ばれていた。
「マルタ、帳簿のここの数字が間違っているわ」
カロリーネは、やや険しい表情で帳簿を指し示しながら、マルタの方へ視線を向けた。
「……申し訳ございません、カロリーネ様……」
マルタは一瞬言葉に詰まりながらも、深く頭を下げた。
「しっかりなさい。あなたはもう、この屋敷の管理人なのですよ」
エーバーハルトの後任として、商会長屋敷の管理人にはカロリーネの側女であるマルタが据えられていた。
しかし、マルタは実務能力に乏しく、細かいの誤りも目立つようになっており、
カロリーネはそのたびに小さくため息をつくことが増えていた。
「奥様、マルタさん……よろしいでしょうか?」
河野が、控えめな声で口を開いた。
「屋敷の帳簿の細かな計算につきましては、私にお任せいただけませんか。
マルタさんは結果をご確認いただければ、ご負担も軽くなるかと……」
「コウノ、あなたは計算ができるの?」
「以前勤めていた家で、簡単な計算を任されておりました。……失礼いたします」
そう言って河野は帳簿を受け取り、しばらく静かに目を通した。
「支出額の合計が誤っておりますわね。この場合は……1,536が正しい値かと存じます」
河野は落ち着いた口調で指摘した。
「……あなたに任せた方が良さそうね。では、お願いするわ」
カロリーネは短く考えた後、そう言って帳簿を河野に渡した。
「コウノ、正直に言うと助かったわ。帳簿をつけていると、どうにも肩が凝ってしまって……」
マルタも、ほっとした様子で口を挟んだ。
「お役に立てるようで何よりですわ。これからも細かいことはどうぞ私にお任せになって、
マルタさんはお屋敷全体のことを広く見ていただければと……」
「ええ、そうさせてもらおうかしらね……」
マルタは、やや力の抜けた声で応じた。
「まったく、見守っているふりをして、居眠りなんてしないでよ……フフフ」
カロリーネは軽く笑いながら釘を刺した。
「はい、心得ております。カロリーネ様」
マルタは、明るい口調で応じていた。
カロリーネ、マルタ、そして河野の間では、このようなやり取りが繰り返されていた。
河野は、着実な仕事ぶりによって、徐々にカロリーネからの信頼を得ていっていた。
その結果、屋敷の人員は表向きこそカロリーネの意向に従っているように見えながら、
実態としては河野の影響下で再編されていっていた。
◆
「商会長となられたお嬢様は、ご立派にお役目を果たしておられる」
「ああ。会議の最中、子供には退屈であろう話であっても、姿勢を正し、
我々の話をきちんと聞こうとする態度で臨んでおられる」
「しかし……お嬢様は、その……大変難儀なご性格をされていると噂されていたはずだ。
本当にあのお方は、前商会長の娘であるリリアお嬢様なのだろうか?
これまで我々は、お顔を拝見したことが一度もない」
「滅多なことを言うものではない。お嬢様は、御父上である前商会長が突然亡くなられたことで、
心を入れ替えられたのだろう。
それにお顔については、喪中であることもあるが、
何より商会にとってお嬢様のご結婚は重大な問題だ。
しかるべき時までは、男性の目に晒すべきではないというのが、奥様のお考えだと聞いている」
ハルトマン商会の正社員たちの間では、このような会話がしばしば交わされていた。
新商会長の後見人として商会を掌握した前商会長夫人カロリーネは、ひとつの問題に頭を悩ませていた。
――リリアの代役として立てたサラを、最終的にどのように処理するか。
その出口が、見えていなかったのである。
サラは現時点では、カロリーネの意に沿う形で、商会長役を忠実に演じていた。
喪中であることと、婿選びが政治課題となっていることを理由に、
喪服で顔と髪を隠し、表舞台での発言は最小限に抑えていた。
会議に出席する者の中には、近年のリリアと直接言葉を交わした者はおらず、
リリアの大叔父カールでさえ、ここ数年は葬儀の際に覆い越しに姿を見た程度に過ぎなかった。
つまり、「偽リリア」の正体が見破られる可能性は極めて低かった。
だが、カロリーネが考えていたのは「発覚しないこと」までであり、
その先――どのように終わらせるかについては、何ひとつ定まっていなかった。
カロリーネは、いずれ偽リリアであるサラを密かに処分するつもりでいた。
孤児であるサラであれば、表沙汰にせず消すことも可能であった。
しかし、それも簡単な話ではなかった。
カロリーネの権力は、「商会長リリアが将来婿を迎える」という前提のもと、
その婿選びの決定権を握っていることに依存している。
そのため、偽リリアを軽々しく病死させることはできない。
そして、偽リリアをそのままにしておくことはできない。
商会長であるリリアには婿を迎える前提がある以上、いずれは、"リリア"の姿を公の前に示す必要がある。
だが、サラの見た目は顔だち、髪色ともにこの辺りの土地の者ではない。
サラの姿をリリアとして公に晒すことは原理的に不可能であった。
かといって、本物のリリアと和解する道も、すでに失われていた。
「ドルゴンさん、あの子のことですが……」
「カロリーネ様、お任せください。よき策がございます……」
「……その“よき策”とは、どういうものなのですか……?」
カロリーネはサラの扱いについてドルゴンに相談していたが、ドルゴンは曖昧な返答を繰り返すにとどまっていた。
この曖昧さは、次第にカロリーネとドルゴンの関係に微妙なずれを生じさせはじめていた。
◆
(……ここ最近、『お任せください』ばかりで、具体的なことを何も話してくれない……私の気持ちを、まるで分かっていない……)
カロリーネは、自室で水の入った杯を手にしながら、物思いにふけっていた。
その時、カロリーネは杯を見つめているうちに、ふと違和感を覚えた。
そしてカロリーネは、机の上に置かれた水差しにも視線を移した。
その杯と水差しは、普段から使用している、品の良いものであった。
そのとき、カロリーネの脳裏には、前商会長が亡くなった日の情景がよみがえった。
(あの日……あの人が亡くなったとき、机の上にあった杯と水差しは、今使っているものよりも、
もっと品の劣る……使用人が使っているような物ではなかったかしら……?)
商会長が亡くなってから数か月が経過しており、カロリーネの記憶は曖昧になっていた。
しかその瞬間、その記憶は妙に鮮明なものとして浮かび上がってきた。
『原因は何とも言えませんな。外傷はないので、急に亡くなられたか、あるいは毒などということも考えられる』
そして、商会長の遺体を検分した医者が口にした言葉が、カロリーネの中でよみがえった。
「あ……あぁ……なんてことなの……」
あの日、商会長は誰かによって持ち込まれた水差しに入れられた毒によって殺されたのではないか。
そう考えれば、あの不可解な死にも説明がつく。
(でも……誰が……)
カロリーネは犯人について思いを巡らせたが、その過程で、自らが致命的な過ちを犯していたことに気づいた。
商会長殺害の証拠となり得た水差しは、すでに自らの手で処分してしまっていた。
今となっては、あの水差しに本当に毒が入っていたのかを確かめる手段は残されていない。
そしてその時、ベッセル達の前で、毒殺の可能性を否定したのはカロリーネ自身であった。
また、商会長の死は公には死亡時期はずらして公表されている。
カロリーネには、今更「あれは毒殺であった」と周囲に騒ぎ立てることができなかった。
そして、屋敷の人員はあの時から大きく入れ替わっている。
今となっては、犯人を追うことはほぼ不可能であった。
全てはカロリーネ自身が選択した結果であった。
カロリーネの思考は同じところを巡り続け、答えを出せないまま停滞していった。
その停滞は、次第に彼女の心を蝕み始めていた。
この日以来、カロリーネは次第に眠れなくなり、精神を少しずつ弱らせていった。
◆
「ねえ、サラ。この言葉……どういう意味かしら」
リリアは本から顔を上げ、傍らに控えているサラに声をかけた。
「“苦きを舐め、薪の上に臥すことで、志を忘れぬ”……と書いてあるわ」
千姫は、その一節を静かに見つめた。
「それは……辛いことや苦しいことを、あえて自分に課し、
目的を忘れないようにする、という意味にございます」
「わざわざ……辛いことを?」
リリアは眉をひそめ、小さく首を傾げた。
「はい。楽なままでおりますと、人は目的を見失いやすいものですので……」
千姫は言葉を選びながら、穏やかに続けた。
「だからこそ、自らに苦しみを残し、それを忘れぬようにする……
そのような在り方もあるのだと思われます」
リリアは再び本へと視線を落とし、その一節をじっと見つめた。
「……変わっているわね。でも……少しだけ、分かる気もするわ」
その声は小さく、しかしどこか確かめるような響きを帯びていた。
部屋に閉じ込められたリリアをそのままにしておくと気が滅入るだろうと、
千姫は時折訪れて相手をしていた。
当初、リリアは臥せることが多かったが、ある時から本に向かい、自ら学ぶ姿勢を見せるようになっていた。
その様子は、まるで季節が冬のあいだに力を蓄えるかのようでもあった。
◆
そして、季節は冬が明け、春を迎えていた――
その日、ハルトマン商会では定例の決済会議が開催されていた。
「王都倉庫では、今年の種籾の貸付につきまして、すでに準備が整っております」
「金庫番も、資金の貸し出しについて準備が整っております」
「承知した。ベッセル農村統括長、昨年の騒動があったばかりだ。
くれぐれも農民たちには丁寧に接するよう、配慮してくれたまえ」
「はっ、私からも部下たちに念を押し、慎重に業務にあたらせます」
昨年のグライフェン地方での農民反乱の責任を取る形で、
前番頭ベッセルと前農村統括長アグリオスは、処分を受けていた。
アグリオスは正社員の地位を解かれ、準社員へと格下げされていた。
一方でベッセルは、アグリオスの旧職に横滑りする形となり、農民との契約の見直しを推進していく役割を課せられていた。
とりわけ打撃が大きかったのは正社員から準社員に降格となったアグリオスであり、その降格は親族の結婚や就職にも影響を及ぼし、
その怨嗟の感情は表には現れないまま、静かに積もり続けていた。
閑話休題
「では、商会長。本年の種籾および資金の貸し付けを、
三月二十日より開始する件につきまして、ご承認をいただけますでしょうか?」
商会長である少女は、それまで向けていたドルゴンの方から視線を外し、
承認の言葉を述べるべく後見人であるカロリーネへと顔を向けた。
しかし――カロリーネは動かなかった。
カロリーネは目を閉じたまま、静かに寝息を立てていた。
一瞬、少女は戸惑ったようにわずかに身じろぎをした。
商会長となって以降、少女の役割は、番頭ドルゴンの提案に対し、
一言「認めます」と発言することで承認を与えることであった。
だが、その一言は、後見人であるカロリーネが事前に許可を与えることを前提としていた。
カロリーネが沈黙したままでは、少女は承認の言葉を発することができなかった。
その様子を見た周囲は、次第にざわつき始めた。
「……様、……お母様……お母様……」
少女は小声でカロリーネに呼びかけ、その袖をそっと揺らした。
何度目かの呼びかけで、カロリーネはようやく目を覚ました。
カロリーネは周囲を見渡し、自らが重大な失態を犯していることを理解し、顔色を失った。
「……失礼をいたしました……」
さらにカロリーネは、現在の議題を把握できず、戸惑いの様子を見せた。
「奥様、ただいま本年の種籾および資金の貸し付けについての決済を行っております。
準備は整っておりますので、三月二十日より貸し付けを開始したく存じますが……」
「は、はい……そう……でしたね……」
カロリーネは戸惑いながらも、商会長の方へと視線を向け、小さく頷いた。
「承認します」
「ありがとうございます。では、ベッセル農村統括長。
種籾および資金の貸し付けを、予定通り三月二十日より開始するように」
「承知しました」
案件が承認され、場には安堵の空気が広がった。
「本日の案件は、以上で終了となります……奥様、どうやら大分お疲れのご様子ですね」
ドルゴンは、気遣うような穏やかな口調でカロリーネに声をかけた。
「先ほどは……大変ご迷惑をおかけしてしまいました……」
カロリーネは恐縮した様子で答え、場にいる一同に向けて軽く顔を伏せた。
「昨年の一件以来、奥様は商会を支えるため、休む間もなく務めにあたってこられました。
疲れが溜まるのも無理はないことかと存じます。
いかがでしょうか。しばらく、テルメンシュタットの保養地などでお体を休められては?」
ドルゴンは、あくまで自然に、カロリーネを案じる形で提案を行った。
場の一同もそれに同調するように頷き、視線をカロリーネへと向けた。
「奥様、それがよろしいかと存じます。現在、ドルゴン殿の商会運営は堅実であり、幸い当面の重要案件も見当たりません。
それに、商会長もご立派にその役目を果たしておられる」
「カール義大叔父様……」
商会長の大叔父であるカールも、ドルゴンの意見に賛同した。
その場にいる者たちは、いずれもカロリーネの体調を気遣っていた。
「皆さまのご配慮、誠にありがたく存じます。
ですが、後見人として代理署名の役割もございますので……その点が気がかりで……」
カロリーネは、商会長の役割を口頭での承認に留め、
正式な署名については後見人である自らが代理署名を行うという形式を、強く維持しようとしていた。
表向きは「子供に署名を行わせるのは時期尚早である」という理由を掲げていたが、
実態としては、偽の商会長の署名が正式なものとして発行されることを防ぐ意図があった。
「お母様、私も番頭さんのご意見に賛成です。どうかお体をお休めになってください。
署名も……私一人で行えるよう、努めてみますわ」
「おぉ……」
商会長のその発言に、場の一同は小さなどよめきをもって応じた。
その言葉は、母を気遣い、自ら商会を支えていこうとする意思の表れであると受け取られた。
無論、まだ幼い商会長に高度な経営判断を期待する者はいない。
しかし、決済会議における承認という手続きを滞りなく行い、商会運営を円滑に進めることは可能である――
これまでの会議での態度から、その認識はすでに共有されていた。
(この子……なんということを……!)
カロリーネは表情こそ崩さなかったが、内心では少女に対する強い怒りを覚えた。
しかし、会議の場で声を荒げることはカロリーネには憚られた。
自身が居眠りをするという失態を犯した直後であり、
さらに休養の提案を退ける理由を、カロリーネはその場で見出すことができなかった。
「奥様、よろしいでしょうか……。代理署名の件をお気にされておられるようでしたら、
あくまで一時的に署名を認める形で、委任状を作成するという方法はいかがでしょうか。
措置は、あくまで奥様が休養に出ておられる間に限るとし、
ご帰還後には再び奥様による代理署名へと戻す。
正式な署名権については、商会長がご成人の折に改めて定める――
そのような形であれば、大きな問題にはならないかと存じます」
倉庫長オズヴァルトが、慎重な言い回しで提案を行った。
この提案にも、場の空気は自然と賛同の方向へと傾いていった。
「……わかり……ました。あくまで一時的な措置ということであれば……
商会長の署名を認めることといたします……」
カロリーネは、周囲の意見に押される形で応じ、次の内容で委任状がしたためられた。
~~~~~~~
委任状
後見人は、商会の円滑なる運営を維持するため、
自らが王都の外に滞在する期間に限り、
商会長に対し、商会に関する決裁事項への署名および承認の権限を委ねるものとする。
本委任は、後見人が王都の外にある間においてのみ効力を有し、
後見人が王都へ帰還した時点、またはこれに準ずる状況に至った時点をもって、
その効力は停止されるものとする。
また、後見人は、商会決済会議の場において本委任の失効を宣言することにより、
当該委任を即時に失効させることができる。
本委任に基づき、商会長が行った署名および承認は、
後見人が自ら行ったものと同一の効力を有するものとする。
以上、ここに記す。
ハルトマン商会商会長後見人 カロリーネ・フォン・ハルトマン
~~~~~~~
◆
「サラ、なんて勝手なことを言ってしまったの……!」
決済会議を終え、控室へ戻ったカロリーネは、声を荒げた。
その手は何度かサラに向かって振り上げられ、サラの頬には赤い腫れが残った。
「申し訳ございません……ですが、奥様のお顔があまりにもお疲れに見えましたので……
つい、心配になり、番頭様のご提案に従ってしまいました……」
サラ――サラに扮した千姫は、落ち着いた様子でそう弁明した。
その言葉を受けたカロリーネは、ふと我に返り、手鏡で自分の顔を確かめた。
その顔は、明らかに疲弊に満ちていた。
化粧の上からでも、その疲労の色がはっきりと見て取れた……
(……ああ……)
カロリーネは自分の状態を自覚し、力を失ったように腕を下ろした。
「あの……よろしいでしょうか?」
様子を見かねた側女マルタが、静かに声をかけた。
「私から見ましても、カロリーネ様は大変お疲れのご様子にお見受けいたします。
ここは一度、しっかりとお休みになられるのがよろしいかと存じますわ」
「マルタ……そうね……一度、ゆっくり休むことにするわ……」
マルタの言葉を受けて、カロリーネの心は揺らぎ、やがて一つの方向に定まっていった。
そしてカロリーネは、サラをじっと見つめた。
(心配なのはこの子ね……このまま放っておけば、今日のように私の意に沿わない行動を取りかねない……
不在の間は、コウノにしっかり見張らせて、勝手なことをさせないようにして……
……戻ってきたら、リリアによく似た新しい代役を立てることにしましょう……)
カロリーネの顔には、再び穏やかな表情が戻っていた。
◆
数日後、カロリーネは、側女マルタを伴い、王都近郊の保養地テルメンシュタットへ向かうこととなった。
不在の間、商会長屋敷の管理は河野に任されることとなった。
カロリーネは河野に対し、リリアの管理と、サラの行動を厳重に監督するよう言い渡した。
「では、サラ、コウノ……行ってきます。くれぐれも勝手なことはしないでおいてね」
「はい、奥様。心得ております。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
「奥様、どうぞごゆっくりなさってきてください」
出発の見送りの中で、カロリーネは千姫と河野の二人に改めて言い含めると、馬車へと乗り込んだ。
馬車はゆっくりと動き出し、やがてその姿は見えなくなっていった。
カロリーネは、保養地から一か月ほどで戻るつもりでいた。
だが――カロリーネが再び王都へ戻ることはなかった。
カロリーネが屋敷を離れたその瞬間、
商会長屋敷は、千姫と河野の手によって完全に掌握されていた。
ドルゴンという人物が好きで書いた妄想小説です。
楽しんで頂けたら幸いです。
次回:「直臣ラナ(前編)」2026/5/1 20時投稿予定




