ep.64 エミリアとエリク その7
結婚することを決めたトーマとカリン。
けれど、決めたからといって、翌朝から何かが大きく変わるわけではありません。
いつもの三人で朝食を囲み、仕事へ向かい、帰ってくれば夕食を作る。そんな暮らしを続けながら、二人はこれから一緒に暮らす家を探し始めます。
そしてそれは、トーマとカリンにとって新しい生活の始まりであると同時に、三人で暮らしてきた家を離れることでもありました。
翌朝になっても、家の中はいつもと変わらなかった。
カリンが居間へ下りると、台所ではトーマが鍋を火にかけていた。食卓にはすでにパンと昨夜の残りが並び、ラディクスは先に席についている。窓から差し込む朝の光も、鍋から立つ湯気も、その向こうで動くトーマの背中も、昨日まで何度となく見てきたものだった。
「おはよう」
「おはよう。もうできるよ」
カリンは返事をしながら自分の席についた。トーマが鍋を運び、三人分の器へ中身をよそう。ラディクスはまだ眠気の残った顔でパンをちぎり、いつものように先に食べ始めていた。
昨夜、トーマと結婚することに決めた。
そう考えて改めて見回しても、何かが変わったようには見えない。食卓の位置も、並んだ三脚の椅子も、朝食の匂いも昨日までと同じだった。
「兄さん」
「ん?」
「私たち、結婚することにしたから」
ラディクスの手が止まった。ちぎりかけたパンを持ったままカリンを見て、それから向かいに座ったトーマへ視線を移す。
「……昨日の今日か?」
「兄さんが言ったんじゃない」
「選択肢の一つとしてな」
「それで話したの」
ラディクスは今度はトーマを見る。トーマも器を手にしたまま、何でもないことのように頷いた。
「話したよ」
「そうか」
それだけ言って、ラディクスはパンを口へ運んだ。
「何よ、その反応」
「いや。もう少し時間がかかると思ってた」
「私だって別に、昨日まで結婚しようと思ってたわけじゃないわよ」
「余計に早いだろ」
カリンが眉を寄せると、ラディクスは少し笑った。
「まあ、お前たちが決めたならいいんじゃないか」
今度は茶化すような調子ではなかった。カリンもそれ以上は言い返さず、器へ手を伸ばした。少し冷めた汁を口に含むと、いつもの朝食の味がする。
「それで、家はどうするんだ?」
「まだ決めてない」
トーマが答えた。
「工房の近くで探そうとは思ってるけど、カリンが騎士団に通えないと困るからな」
「それなら、あまり東へ寄りすぎない方がいいな」
そこから先は、いつもの朝食と大して変わらなかった。ラディクスがいくつか心当たりのある通りを挙げ、カリンが遠すぎるだの不便そうだのと言い、トーマが工房まで歩けるなら多少古くても構わないと言う。
結婚の話よりも、いつの間にか住む場所の話の方が長くなっていた。
数日後、二人は空いている住居を見て回った。
工房に近いところを選べばカリンの通勤が長くなり、騎士団に近づけば今度はトーマが毎朝かなり歩くことになる。どちらも今の仕事を変えるつもりはなく、片方だけに都合のいい場所を選ぶ理由もない。結局は二人の勤め先の間、その中でも日々の買い物に困らない辺りを探すことになった。
最初に見た家は、工房と騎士団のどちらへ向かうにも都合がよく、場所だけなら申し分なかった。通りからも近く、日々の買い物にも困らない。
ところがトーマは、玄関を入ってすぐ扉の蝶番を触り始めた。
「何してるの?」
「ちょっと歪んでる」
何度か扉を開閉してから、上側の金具へ指を当てる。開けるたび、確かに小さな軋みが聞こえた。
「直せる?」
「これくらいなら。外して少し調整すれば大丈夫だと思う」
そう答えたそばから次は窓枠を調べ、部屋を歩けば床板の軋む場所で足を止める。住居を見に来たというより修理する場所を探しているようで、カリンは呆れながらその背中を眺めていた。
「直すところばっかり見てない?」
「気になるんだよ」
「住めるならいいじゃない」
「だから、住むなら直すだろ」
どうやらトーマにとっては、多少傷んでいること自体は大した問題ではないらしい。
もっとも、その家は二人で暮らすには少々広かった。寝室のほかにも部屋がいくつかあり、二人で一通り見て回ったところで、結局使い道の思いつかない部屋が残った。
「ここ、何に使う?」
カリンが何も置かれていない一室の中央で尋ねると、トーマも入口から中を眺めた。
「……何に使うんだろうな」
「聞いてるの、私なんだけど」
「俺も思いつかない」
場所は惜しかったが、今の二人には持て余す。わざわざ必要以上の広さを選ぶこともないということで、その家は見送ることになった。
二軒目へ入ると、今度はカリンが真っ先に台所の棚を開けていた。
「ここ、物が入らないね」
「二人分なら足りないか?」
「食器だけじゃないでしょ。鍋もあるし、保存するものも置くんだから」
「棚を増やせばいいんじゃないか?」
「どこに?」
言われてトーマが台所を見回す。空いた壁はほとんどなく、増やせそうな場所には窓があった。
「……無理か」
「でしょ」
自分も大して変わらないことをしていると気づいてしまったので、一軒目のことは言わないことにした。
三軒目は、それまでより少し狭かった。
新しい建物ではないが、壁や床はきちんと手入れされている。寝室のほかに小さな部屋が一つあり、仕事で使わない荷物を置く場所にも困らなそうだった。工房までは歩いて通える距離で、カリンが騎士団へ向かうにも遠すぎない。通りから一本入っているため、人の往来の音もそれほど響かなかった。
一通り部屋を見たあと、カリンは台所へ入った。
調理台と炉があり、その向かいに棚が並んでいる。広くはないが、二人で暮らすなら十分だろう。窓から入る昼の光も思ったより明るかった。
「どう?」
後ろからトーマが入ってきた。
「悪くないと思う」
振り返ろうとして、カリンはトーマの肩にぶつかりそうになった。半歩避けると、今度は腰が調理台に当たる。トーマも邪魔にならないよう壁際へ寄ったが、それで余計に狭く見えた。
「……ちょっと狭いね」
「今のところも、二人で立つとこんなもんじゃないか?」
「そうだっけ?」
「いつもどっちかが避けてるだろ」
言われてみれば、そうだった。料理をしている横から皿を取るときも、鍋を運ぶときも、いつの間にか互いに半歩ずつ場所を空けている。
カリンはもう一度台所を見回した。調理台も二人分の食事を作るには困らないし、棚には鍋も食器も収まりそうだった。窓の外には隣家の屋根が見え、その向こうに細く空が覗いている。
「私、ここがいいかも」
トーマも窓枠から手を離し、部屋の中を見た。
「俺もいいと思う」
それから必要な手続きを済ませ、二人が新しい住居へ移る日が決まった。
荷造りを始めてみると、カリンの持ち物は思っていたより少なかった。衣類と日用品、仕事に使うものをまとめてしまえば、大きな荷物はそれほど残らない。
それでも、長く使ってきた部屋を空にしていく作業は妙なものだった。
棚から物を下ろして箱へ詰めるたび、見慣れていた部屋から少しずつ色がなくなっていく。机の引き出しを開ければ、いつ入れたのかも覚えていない小物が奥から出てきた。必要なもの、置いていくもの、もう使わないもの。一つずつ分けているうちに、部屋の隅にはいくつかの箱が積み上がり、代わりに棚や机の上には何もなくなっていった。
「本当に出ていくんだな」
声に振り向くと、ラディクスが扉にもたれていた。
「何よ、今さら」
「いや。荷物がなくなると、そう見えるなと思ってな」
カリンも手を止めて部屋を見回した。棚から物が消えただけで、ずいぶん広く感じる。これほど余白のある部屋だっただろうかと思うほどだった。
「兄さんの部屋にすれば?」
「いらん」
「じゃあ物置」
「それも嫌だな」
「なら、そのままにしておけばいいじゃない」
カリンは再び荷物へ向き直った。
ラディクスはしばらく入口に立っていたが、やがて部屋の中へ入り、床に置かれた箱を一つ持ち上げた。
「これは?」
「持っていく」
「こっちは?」
「それも」
「全部じゃないか」
「だから荷造りしてるのよ」
ラディクスは箱を元へ戻した。何か手伝うつもりで来たのか、それともただ様子を見に来ただけなのか、本人もよく分かっていないようだった。
「二人ともいなくなると、静かになるな」
カリンの手が少し止まった。
トーマが来る前は、兄と二人で暮らしていた。だから元に戻るだけだとどこかで思っていたが、考えてみれば違う。自分も出ていくのだから、この家に残るのはラディクス一人だった。
「……寂しい?」
「まあ、少しはな」
意外に素直な返事だった。
カリンは手にしていた衣類を畳み直し、箱へ入れた。
「近いんだから、来ればいいでしょ」
「新婚の家に兄がしょっちゅう行くのもどうなんだ?」
「兄さん、そういうところだけ気にするのね」
「そういうところくらい気にするさ」
カリンは笑い、次の荷物へ手を伸ばした。ラディクスも今度は黙って別の箱を持ち上げ、壁際へ寄せる。しばらくすると二人とも話さなくなり、箱の蓋を閉じる音だけが部屋に残った。
その夜は、三人で夕食を作った。
最後だから何か特別なものを、という話にはならなかった。保存の利く食材などほとんどない以上、家に残っているものをできるだけ使ってしまおうということになり、結果として鍋の中にはいつもより少し多くの具が入った。
トーマが鍋を見て、カリンが野菜を切る。ラディクスは頼まれて食卓を整えていたが、途中で台所へ戻ってくると、煮えているものへ手を伸ばした。
「まだできてない」
カリンに手を叩かれ、ラディクスが眉を寄せる。
「少しくらいいいだろ」
「駄目」
「トーマ」
「俺に振られても困るよ」
トーマは笑いながら鍋を混ぜている。
ラディクスは諦めて食卓へ戻り、カリンも切りかけの野菜へ包丁を入れた。いつもと同じように狭い台所で肩を避け合い、出来上がった料理を三人で食卓へ運ぶ。
食事が始まってからも、話すことは普段と変わらなかった。ラディクスが騎士団であったことを話し、トーマが工房へ持ち込まれた農具の話をする。カリンも途中から加わり、気づけば引っ越しの話などほとんどしていなかった。
明日のことを誰も忘れているわけではない。それでも、わざわざ話題にしなくても分かっていることを、改めて口にする必要もなかった。
食べ終えると、三人分の器が食卓の端へ重ねられた。
カリンはそれを持って台所へ向かい、トーマが残った皿を運んでくる。背後ではラディクスが布巾で食卓を拭いていた。器を洗う音がして、椅子が床を擦り、使い終えた鍋がいつもの場所へ戻される。
明日からは、この家で三人分の夕食を作ることはない。
カリンは水を切った器を一枚ずつ重ね、そのことを口にはしなかった。
翌朝、荷物を運び出すのにはそれほど時間がかからなかった。
トーマの荷物も、ここへ来た頃に比べれば増えている。それでも大半は衣類と身の回りのものだった。仕事に使う道具のほとんどは工房に置いてあるため、住居へ運ぶものは思ったほど多くない。
箱が一つずつ玄関から消え、部屋の隅にあった荷物もなくなっていく。最後の箱をトーマが持ち上げる頃には、朝から何度も開け閉めした扉の周りだけが少し埃っぽくなっていた。
カリンも自分の荷物を抱え、玄関へ向かう。
ラディクスがそこに立っていた。
「忘れ物はないか?」
「たぶん」
「たぶんか」
「忘れてても取りに来ればいいでしょ」
「それもそうだな」
靴を履いてから、カリンは一度だけ家の中を振り返った。
食卓も椅子もそのままだった。台所には朝食に使った器が置かれ、窓から入る光が床まで伸びている。自分の部屋から荷物がなくなったこと以外、昨日までと何も変わっていない。
けれど今日の夕方、仕事を終えても、もうここへ帰ってくることはない。
カリンは玄関へ向き直った。
「じゃあ、行ってくる」
口にしてから、少しだけ可笑しくなった。ラディクスも気づいたらしく、一瞬だけ目を細めたが、何も指摘しなかった。
「ああ。行ってこい」
トーマも抱えた箱を持ち直す。
「じゃあ、ラディクス。またな」
「ああ」
それだけだった。
カリンが先に外へ出ると、朝の通りにはすでに人が行き交っていた。少し遅れてトーマも出てきて、背後で扉が閉まる。その音に振り返ることなく、二人は並んで歩き出した。
新しい住居までは、荷物を抱えて歩いてもそれほど遠くなかった。
何度か往復して荷物を運び終える頃には、日もだいぶ高くなっていた。朝には何もなかった部屋の床へ箱が並び、壁際にはまだ置き場所の決まっていないものが積まれている。運び込んだだけの荷物が部屋を狭く見せ、歩くたびにどこかの箱を避けなければならなかった。
「とりあえず、これで全部かな」
トーマが最後の荷物を床へ下ろした。
「たぶん」
「また、たぶんか」
「忘れてたら取りに行けばいいのよ」
「ラディクスにも同じこと言ってたな」
カリンは箱を開けながら笑った。
何から片付けるか少し考え、まず今日使うものだけを出すことにする。衣類はあとでいい。食器と鍋、それから食卓の周りで使うものを先に出しておかなければ、夕方になってから困る。
箱の底から鍋を取り出し、カリンが台所へ入る。少し遅れて、トーマも食器を抱えてついてきた。
振り返ろうとして、肩がぶつかった。
「あ」
二人とも一歩ずつ退こうとして、今度はカリンが調理台に腰をぶつける。トーマは抱えていた食器を落とさないよう慌てて持ち直し、それから笑った。
「やっぱり狭いな」
「だから言ったでしょ」
「カリンがここがいいって言ったんだろ」
「トーマもいいって言ったじゃない」
「言ったけど」
カリンは鍋を調理台へ置いた。
まだ何も入っていない棚が並び、向こうの部屋には食卓を置く場所だけがぽっかり空いている。窓辺には箱が積まれ、寝室も荷物を運び込んだだけだった。朝まで暮らしていた家と違って、どこを見てもまだ使われた跡がない。
これから食器を棚へ入れ、鍋の置き場所を決め、食卓を置く。何度も使ううちに床のどこが軋むのかを覚え、朝にどの窓から光が入るのかも分かってくるのだろう。
「お腹空いた」
トーマが言った。
カリンは窓の外を見た。荷物を運ぶことばかり考えていて、昼をとうに過ぎている。
「何か作れる?」
「鍋は出した」
「食材は?」
カリンは答えようとして、動きを止めた。
トーマも食器を抱えたまま、何も入っていない棚を見る。
二人で顔を見合わせた。
「……買いに行く?」
「そうだな」
トーマが笑い、カリンもつられて笑った。
せっかく出した鍋をそのまま調理台へ残し、二人は空の買い物籠を持って、もう一度家を出た。
夕方には、この台所にも火が入る。買ってきたものを棚へ収め、鍋を火にかけ、狭い場所で互いに半歩ずつ避けながら夕食を作ることになる。
今までと、やることは大して変わらない。
ただ、帰ってくる家が、今日からここになった。
今回は少し、王都の住居事情について。
王都では、住居の多くを個人が所有しているわけではなく、基本的には公共のものとして管理されています。
一定の年齢になって独立して生活するようになれば、その人の生活に必要な住居を利用できます。夫婦や親子、届け出をして一緒に暮らしている兄弟姉妹なども同様で、世帯の人数に応じた広さの住居を使うことになります。
そのため、今回のトーマとカリンも「家を買う」という感覚ではありません。
二人で暮らすことになったので、空いている住居の中から、仕事へ通いやすく、二人の生活に合ったところを探しています。
基本的な住居には、住むための費用もほとんどかかりません。
だからといって、空いていれば好きなだけ広い家を使っていいわけでもなく、一人なら一人、二人なら二人の生活に見合った広さが基本になります。今回、一軒目の家を見送ったのも、二人には少し広すぎたからです。
もっとも、厳密に「二人ならこの広さ」と決められているわけではなく、空き状況や仕事場との距離なども含めて、それなりに融通は利きます。
ちなみに建物そのものは公共のものなので、本来なら修繕も管理する側の仕事です。
……ただ、蝶番が少し歪んでいる程度なら、トーマは頼むより先に自分で直してしまいそうですが。
王都では、衣食住について最低限のものは保障されています。
豪華な服や好きな食事、希望通りの家まで用意されるわけではありませんが、着るものがない、食べるものがない、住む場所がないという状態は、少なくとも制度としては避けるようになっています。
住居についてもその一つで、必要な場所は用意する。その代わり、必要以上のものを一人で占有しない。
そんな考え方が、王都の暮らしの根底にはあります。




