ep65 エミリアとエリク その8
その朝、カリンはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外はすでに白み始めていたが、通りを行き交う人の気配はまだ少ない。隣ではトーマが眠っている。新しい家へ移ってから何日か経ち、最初はどこか借り物めいていた部屋にも、ようやく二人の暮らしが馴染み始めていた。
壁際にはまだ中身を片付けきれていない箱が一つあり、寝室の隅には置き場所の決まらない椅子が寄せられている。台所には二人分の食器が並び、昨日使った布巾は干したまま、棚には買い足したばかりの調味料が収まっていた。
今日もその家から一日が始まる。ただ、今日は結婚式だった。
カリンはしばらく天井を眺めたあと、音を立てないよう寝台から抜け出した。床へ足を下ろしたところで背後から寝具の擦れる音が聞こえ、振り返るより先に声がした。
「早いな」
「起こした?」
「ちょうど目が覚めたところだ」
まだ眠気の残る顔で身体を起こし、そのまま大きく伸びをする。結婚式の朝だからといって特別に緊張している様子もなく、昨日までと変わらないその姿を、カリンは少しだけ眺めてから寝室を出た。
朝食も普段と同じだった。トーマが火を見ている間にカリンが食器を出し、狭い台所ですれ違うときには、互いに何も言わず身体をずらす。新居へ移ったばかりの頃には何度か肩をぶつけた場所だったが、それもいつの間にか減っている。
食卓に並んだのはパンと卵、それに昨夜残しておいた野菜だった。結婚式だからと特別なものを用意することもなく、食べ終えれば皿を片付け、卓上を拭いて、それぞれ支度に取りかかる。そこまでは昨日までと変わらなかったが、寝室へ戻ったカリンが手に取ったのは、いつもの服ではなく騎士団の正装だった。
濃紺の生地には余計なたるみがなく、襟元から肩にかけてきちんと形が整えられている。胸元には騎士団を示す章が付き、留め具もきれいに磨かれていた。公の場で着たことは何度もあり、袖を通したあとの整え方も分かっているはずなのに、鏡の前に立つと妙に細かなところが気になった。
襟を直して一度は鏡から離れたものの、また戻ってわずかに位置を変える。胸元の章にも指を添え、曲がっていないことを確かめてから、ようやくカリンは居間へ戻った。
トーマもすでに支度を終えていた。借りてきた礼装は普段の仕事着とは勝手が違うらしく、袖口を確かめたあと、今度は襟元へ手をやっている。背丈に合うものがなかなか見つからず、ようやく借りられた一着も肩回りを直してもらったものだった。
「苦しい?」
「大丈夫。ちょっと気になるだけ」
そう言ってトーマは襟から手を離したが、カリンも人のことは言えなかった。何度も着ている正装の胸元を、今朝はさっきから何度確かめたか分からない。二人とも似たようなものだと思うと、少しだけ可笑しくなった。
家を出る頃には、通りにも人が増えていた。仕事へ向かう者が行き交い、店先では箒を手にした者が土埃を掃き出し、その脇を荷車がゆっくりと通り過ぎていく。朝の王都は二人の事情など知らないまま、いつもと同じように動き始めていた。
昨日と同じ道を並んで歩き、見慣れた店の前を通っていく。正装姿のカリンを見ても、仕事か何かだと思う者がほとんどなのだろう。声をかけてくる者も、二人をわざわざ振り返る者もいなかった。自分たちにとっては大きな一日でも、街にとっては数ある朝の一つに過ぎない。そのことが、カリンにはかえって心地よかった。
式が行われるのは、人々の生活に関わる記録や手続きを扱う建物の一角だった。婚姻だけのために建てられた場所ではなく、外から見ても特別なところはない。
入口まで来ると、すでにラディクスが壁際で待っていた。二人に気づいて背を離し、軽く手を上げる。
「待った?」
「いや。俺も今来たところだ」
トーマとも短く挨拶を交わしたラディクスを加え、三人で建物へ入った。こうして三人揃って歩くこと自体は珍しくないが、同じ家へ帰っていた頃とはもう違う。今日は兄として二人についてきたのではなく、婚姻を見届ける立会人としてここにいる。
案内された部屋は、外観から想像した通り簡素なものだった。窓から差し込む朝の光が中央の机を照らし、その向こうには婚姻記録を担当する者が座っている。机には必要な書類が揃えられ、壁際に立会人用の椅子が置かれているほかには、式らしい飾り付けもない。
二人が自分たちの意思を示し、それを立会人が見届け、公的な記録として残す。そのために必要なものだけが揃えられていた。
簡単な挨拶を済ませると、担当者は手元の書類を確かめながら二人の名を呼んだ。
「トーマ・シュノメル」
「はい」
隣から聞こえた声は普段と変わらない。担当者はそのまま書類へ視線を戻し、続いてもう一人の名を読み上げた。
「カタリナ・フェイルル」
「はい」
返事をしたあと、カリンは小さく息を吐いた。
カタリナと呼ばれることは、普段ほとんどない。騎士団でも親しい者はカリンと呼び、ラディクスも昔から変わらない。それでも公的な記録の上では、二十年間ずっとカタリナ・フェイルルだった。本来の自分の名前が、今日はなぜか少し遠くから呼ばれたように感じられる。
ふと横から視線を感じて顔を向けると、トーマがこちらを見ていた。何かを言うわけでもなく、カリンも一度だけ視線を返す。担当者が次の確認へ移る頃には、二人とも何事もなかったように正面へ向き直っていた。
住所や所属、婚姻後に用いる姓など、届け出た内容が順番に確認されていく。これから二人が一つの生活単位として扱われることについても相違がないことを確かめたあと、担当者は書類から顔を上げた。
最後に尋ねられたのは、これから夫婦として生活を共にする意思があるかという、ごく単純なことだった。
先に問われたトーマは迷わず「はい」と答えた。その声を隣で聞いてから、カリンも担当者へ目を向ける。
トーマとは、すでに同じ家で暮らしている。朝になれば同じ場所で目を覚まし、食事を済ませればそれぞれの仕事へ向かう。帰る時間が違えば先に戻った方が火を起こし、夜になれば同じ家へ帰って、翌朝にはまた二人の一日が始まる。
それは結婚しなければできない暮らしではなかった。これまでも一緒にいられたし、結婚しなかったとしても、しばらくは同じような日々を送れただろう。
それでも二人は、ここへ来ることを選んだ。
「はい」
口にしてみれば、それだけだった。もっと何かが変わるような気もしていたが、自分の声は思っていたより普段と変わらなかった。
担当者は頷き、机の上の書類を二人の前へ向けた。トーマが先に筆記具を取り、慣れた手つきで自分の名を書いていく。トーマ・シュノメル。その文字を横から眺めているうちに書き終わり、今度は筆記具がカリンへ渡された。
空いている欄へ目を落とす。
ここに書く名前は、まだカタリナ・フェイルルだった。
紙へ筆記具を下ろしかけたところで、手がわずかに止まった。フェイルルという姓を失うことが惜しいわけではない。姓が変わったところでラディクスが兄でなくなることもなければ、これまでの二十年が別のものになることもない。ただ、自分の手でこの名前を書く機会は、これから少しずつ減っていくのだろう。
そう思ってから、カリンは筆記具を動かした。
カタリナ・フェイルル。
最後の文字まで書き終え、自分の名前を一度だけ見直してから筆記具を置く。
「では、立会人の方もお願いします」
呼ばれたラディクスが壁際から進み出た。普段なら何か一言くらい挟みそうな兄も、このときばかりは何も言わず、二人の署名が並んだ書類を見てから、その下に自分の名前を書き入れた。
書類を受け取った担当者が一枚ずつ内容を確認し、必要な処理を進めていく。部屋にはしばらく紙の擦れる音だけが続き、その間にカリンは机から目を離した。
隣に立つトーマの手が目に入る。
朝、同じ家から出てきたときと変わらない大きな手には、まだ何もない。あと少しすればそこに指輪があるのだと思うと、署名をしたときよりも、その方が不思議に感じられた。
最後の書類を重ねた担当者が、やがて顔を上げる。
「以上で婚姻の手続きは完了です。本日より、トーマ・シュノメル、カタリナ・シュノメルとして婚姻が記録されます」
カタリナ・シュノメル。
頭の中で繰り返してみても、まだ自分の名前という感じがしない。つい先ほどまで存在しなかったのだから当然なのかもしれないが、それでも今からは、その名前で記録されることになる。
隣を見ると、トーマもこちらを見ていた。目が合ったところで彼がほんの少し口元を緩めたので、カリンもつられるように笑った。
続いて二人が取り出したのは、余計な装飾のない細い指輪だった。日々の生活や仕事の邪魔にならないよう表面は滑らかに仕上げられ、形や太さは二人で相談して決めたうえで、最後の仕上げだけはトーマ自身が工房で行っている。
カリンは先にトーマの手を取った。何度も見て、何度も触れたことのある手だったが、指輪を通すために改めて持つと妙に意識してしまう。大きな指へ輪を通し、根元まで収まったことを確かめてから手を離した。
今度はトーマがカリンの左手を取る。鍛冶仕事で硬くなった指先が触れ、指輪がゆっくりと滑っていった。根元まで収まったところで手を離されると、カリンは自分の左手を持ち上げてみる。
見慣れた手に、朝まではなかったものが一つ増えていた。
「結婚おめでとう」
その声に振り返ると、ラディクスが二人を見ていた。表情はいつもとさほど変わらない。それでも、兄の口から聞くその言葉は、普段の何気ないやり取りとは少し違って聞こえた。
「ありがとう、兄さん」
トーマも続けて礼を言うと、ラディクスは一度だけ頷いた。誰もそれ以上の言葉を足すことはなく、三人の間に短い静けさが落ちたところで、式は終わった。
祝いの席が始まるまでには、まだ少し時間があった。
カリンは別室へ移って騎士団の正装を脱ぎ、祝いに来ていた騎士団の仲間の一人に着替えを手伝ってもらった。用意していたのは深い青を基調とした長いドレスで、襟元と袖口には同系色の糸で控えめな刺繍が入り、足首近くまである裾も大きく広がりすぎない。華やかではあっても、歩いたり食事をしたりするのに困るようなものではなかった。
背中の留め具を任せている間、カリンは鏡の中に映る自分を眺めていた。騎士団の正装なら、襟のずれや腕の動かしやすさ、章の位置と、確かめるべきところは分かっている。ところがこういう服になると、鏡を見てもどこが正しいのかさえよく分からない。
留め具を終えた友人は襟元を整えると、少し離れて全体を確かめた。
「少し歩いてみて」
言われるまま数歩進んでみたものの、いつもの歩幅では裾が気になり、途中から自然と足運びが小さくなった。それを鏡越しに見ていた相手が笑う。
「そのうち慣れるわよ」
「今日しか着ないかもしれないけど」
「それなら今日だけ慣れればいいでしょ」
言われてみればその通りで、カリンも笑った。最後に袖口を整えてもらい、礼を言って見送ると、部屋には一人だけが残る。
改めて鏡を見ても、やはり自分ではないような違和感は残っていた。ただ、先ほどまでよりは落ち着いて見られる。視線を下げれば、ドレスの袖口から覗く左手には指輪があった。
それを一度だけ確かめてから部屋を出ると、廊下ではトーマが待っていた。
足音に気づいてこちらを向いたトーマは、そのまましばらく何も言わなかった。普段より長く視線を向けられているのが分かり、先に居心地が悪くなったカリンが眉を寄せる。
「何?」
「似合ってる」
「そう」
できるだけ普段通りに返したつもりだったが、視線を逸らした途端、頬が熱を持つのが分かった。トーマがそれ以上何も言わなかったことに少しだけほっとして、カリンは先に歩き始める。慣れない裾に合わせて歩幅を狭めると、ほどなく隣にトーマの足音が並んだ。
祝いの席には、すでに多くの人が集まっていた。カリンと同じ騎士団に所属する者もいれば、以前トーマと手合わせをした騎士もいる。工房へ剣を持ち込んだ者や、仕事を始めてから付き合いのできた者の姿もあった。式そのものに立ち会ったのはラディクス一人だったが、こちらはずっと賑やかだった。
二人が姿を見せると、近くにいた者が気づいて祝いの声を上げ、それにつられて別の者も振り返る。席へ向かうまでのわずかな距離で、トーマは何度も足を止めることになった。杯を差し出され、祝いを言われ、騎士の一人には笑いながら肩を叩かれ、そのたびに少し困ったような顔をしながらも相手を見て礼を返している。
王都へ来たばかりの頃、トーマには知り合いらしい知り合いなどほとんどいなかった。それが今では、こうして何人もの人間が二人を祝いに来ている。
騎士団への誘いは何度断っても、手合わせを頼まれれば付き合った。工房を持ってからは、持ち込まれる剣や道具を一つずつ直してきた。何か大きなことをして人を集めたわけではなく、毎日の中で顔を合わせ、言葉を交わし、仕事を引き受けてきただけだ。その積み重ねが、今は目の前の賑わいになっている。
少し離れたところから見ていたカリンに気づいたのか、人に囲まれていたトーマがふとこちらを向いた。目が合うと困ったように笑う。その顔を見て、カリンも笑い返した。
席にはいくつもの料理が並び、杯が行き交っていた。あちらこちらから笑い声が聞こえ、誰かが二人のところへやって来て祝いを言ったかと思えば、今度は別の輪へ戻っていく。ラディクスも兄だからと二人のそばに居続けることはなく、騎士仲間に呼ばれればそちらへ行き、昔からの知り合いと話しながら杯を傾けていた。
その姿を見ているうちに、カリンの指先が左手の指輪へ触れた。
今日から姓は違い、暮らす家も別々になった。それでも、ラディクスが兄であることには何の変わりもない。少し前まで三人は同じ家で食卓を囲み、誰かが遅くなれば残りの二人で待ち、休日には特に用事もないまま同じ部屋で過ごしていた。今はそれぞれに帰る家があるが、三人で過ごしてきた時間までそこに置いてきたわけではない。
形が変わっただけなのだろう。
やがて人の輪から抜けたトーマが戻ってきて、カリンの隣へ腰を下ろした。ほとんど食事に手をつけていなかったらしく、ようやく目の前の皿へ手を伸ばす。カリンが近くの料理を取りやすい位置へ寄せると、「ありがとう」と言って、ようやく落ち着いて食べ始めた。
しばらくしてラディクスも戻り、三人で同じ卓を囲むことになった。
場所も着ているものも、周囲の騒がしさも、三人で暮らしていた頃とはまるで違う。それでもトーマが黙々と食べ、ラディクスが杯を傾け、その間でカリンが料理へ手を伸ばしていると、以前の食卓と不思議なほどよく似ていた。
誰も昔の話を持ち出さなかったし、今日から何が変わるのかを改めて口にすることもなかった。そんなことを確かめなくても、三人の間にあるものまで今日を境に別のものになるわけではないと、それぞれ分かっていた。
祝いの席は日が傾く頃まで続いた。人が一人、また一人と帰っていくにつれて、あれほど賑やかだった会場にも空いた席が目立つようになり、トーマとカリンも最後まで残っていた者たちに挨拶をして帰る支度をした。
外へ出ると、昼間より風が冷たくなっていた。入口まで一緒に出てきたラディクスがトーマへ軽く手を上げる。
「じゃあな」
「ああ。またな」
二人が短く言葉を交わすのを見てから、カリンも兄へ顔を向けた。三人で暮らしていた家を出た朝には、いつものように「行ってくる」と言った。けれど今は、それぞれが帰る場所を持っている。
「兄さんも気をつけてね」
「ああ。お前たちもな」
別れはそれだけだった。ラディクスが一人で歩いていく背中を少し見送ってから、カリンもトーマと並んで反対側へ歩き出す。
朝に通った道を、今度は家へ向かって戻っていく。夕方の通りには仕事を終えた人々が行き交い、店先には一つずつ灯りが入り始めていた。昼間の暖かさがわずかに残る石畳を歩きながら、カリンは何気なく左手へ目を落とす。
指輪はまだ、視界に入るたびに気になった。何日かすれば意識しなくなり、今日初めて呼ばれたカタリナ・シュノメルという名前も、少しずつ自分のものになっていくのだろう。
一方で、隣を歩くトーマには朝から何の変化もない。歩き方も、ときおり通りの店へ目を向ける仕草も、昨日まで何度も見てきたものだった。その横顔を見ていると、名前が変わったことを妙に大きく考えていた自分が少し可笑しくなり、カリンは誰にも気づかれない程度に口元を緩めた。
やがて、朝に二人で出てきた家が見えてくる。扉も窓も出かけたときのままで、トーマが鍵を開けて中へ入れば、食卓も椅子も朝と同じ場所にあった。壁際には片付けきれていない箱まで残っていて、今日一日の出来事など知らないように、二人の生活がそのまま待っている。
カリンは靴を脱いで部屋へ上がった。
「ただいま」
意識して言ったわけではなかった。いつものように口から出た言葉のあとで、背後から扉の閉まる音がする。
「ただいま」
トーマまで同じことを言ったので、カリンはそこで振り返った。二人しかいない家で二人とも帰宅を告げていることが可笑しくなり、少し笑う。
「おかえり」
一瞬遅れて、トーマも笑った。
「おかえり」
明日になれば、またこの家で朝を迎える。食事を済ませればカリンは騎士団へ行き、トーマは工房へ向かう。帰ってくれば夕食を作り、その日のことを話すこともあれば、疲れてほとんど話さない夜もあるだろう。
そういう暮らしは、昨日までと大きく変わらない。
カリンは左手を見て、指輪の表面を親指で一度だけなぞった。朝にはなかった小さな輪が、今はそこに収まっている。
同じ家へ帰り、同じように明日を迎える。
ただ、今日から二人は夫婦だった。




