ep.63 エミリアとエリク その6
工房を構えたトーマのもとには、騎士たちの剣だけでなく、東の農地からも少しずつ仕事が持ち込まれるようになりました。
仕事が増えれば、工房で過ごす時間も長くなり、遠方へ出向けば家を空ける日も増えていきます。
三人で暮らすことが当たり前になっていたカリンも、そんなトーマの変化を少しずつ意識するようになっていました。
そして仕事が安定すれば、その先には当然、自分の暮らしを持つという話も出てきます。
トーマが工房を構えてから、季節がひとつ巡ろうとしていた。
騎士たちの剣から始まった仕事は、いつの間にか農具や日用品の修理にまで広がっている。東へ出向くことも珍しくなくなり、工房を訪ねればいつでもトーマが暇そうにしている、という時期はとうに過ぎていた。壁際には預かった剣や農具が順番を待つように並び、朝に火を入れた炉が、日暮れ近くまで赤みを残していることもある。
それでも、朝になれば同じ家から出ていき、夜になれば帰りの早い者から食卓の支度をする。三人が揃わない日も増えたが、それ自体を気にする者はいなかった。カリンが騎士団の仕事で数日家を空けることもあれば、トーマが東へ出向いたまま帰れないこともある。ラディクスに至っては、帰ってきたと思えば食事だけ済ませてまた呼び出されるような日さえあった。それでも誰かが帰れば玄関には靴が増え、台所では鍋の蓋が鳴り、夜が更ける頃には、たいてい三人分の気配が家の中にあった。
少なくともカリンは、それがまだしばらく続くものだと思っていた。
その日の夕食も、いつもと変わらなかった。帰宅したカリンが台所へ入ると、トーマが鍋の前に立っていた。仕事を終えて先に帰ってきたらしい。工房で着ている服からは着替えていたが、捲った袖の下には、洗っても落ちなかった煤が薄く残っている。鍋から立つ湯気の向こうで、火加減を確かめる横顔だけを見れば、何か月も前からこの家でそうしていたようだった。
「今日は早かったのね」
「預かってる分が片付いたからな。明日はまた東だけど」
トーマは味を確かめると、木匙をカリンへ差し出した。受け取って口に含むと、少し薄い気もしたが、煮詰まればちょうどよくなりそうだった。
「これくらいでいいんじゃない?」
「じゃあ、このままで」
木匙を返し、カリンは棚から皿を取り出した。トーマは鍋を見ながら火を弱める。狭い台所では、二人で動けば肩がぶつかることもあったが、それも今ではほとんどない。カリンが棚へ手を伸ばせばトーマが半歩退き、トーマが鍋を運ぼうとすればカリンが食卓へ続く場所を空ける。どちらから頼んだわけでもないのに、互いの邪魔にならない場所は、もう考えなくても分かるようになっていた。
やがてラディクスも帰り、三人で食卓を囲んだ。
窓の外にはまだわずかに夕方の明るさが残っていた。食卓の中央にはトーマが作った煮込みが置かれ、三人がそれぞれ手を伸ばすたびに器が小さく触れ合う。仕事の時間がばらばらになっても、こうして揃ってしまえば以前と何も変わらない。
トーマは明日の朝から東へ行くという。帰りは翌日になるかもしれないらしい。カリンはパンをちぎりながらそれを聞き、短く頷いた。以前なら、それで終わっていた話だった。
食事が半分ほど済んだ頃、ラディクスがトーマの工房について尋ねた。
「もう、食っていくには困らなそうだな」
「ああ。たぶん大丈夫だと思う」
「なら、そろそろ家のことも考えていいかもしれないな」
カリンの手が止まった。
ラディクスは何気なく続けている。仕事が安定したのなら、いつまでもこの家にいる必要はない。工房の近くに住めば、トーマにとっても楽になるだろう。
それは、もっともな話だった。トーマがこの家へ来た頃とは違う。街のことも分からず、仕事も持っていなかった男には、今では毎日のように客が訪れる工房がある。東の農地にも顔を覚えられ、向こうから呼ばれて仕事へ出かけることまで増えた。朝になれば自分で工房を開け、仕事を終えれば自分の稼ぎで必要なものを買って帰ってくる。もう、この家に置いてもらう理由はなかった。
「俺も、そろそろ考えた方がいいとは思ってた」
トーマも当然のことのように答え、工房の近くなら朝も少し楽になるとラディクスに話している。二人の間では、すでに住む場所の話へ移りつつあった。
カリンは手元へ目を落とした。指先には、ちぎりかけたパンが残っている。
家を出る。
言われてみれば、それは当たり前のことだった。トーマは最初から、この家の人間ではない。仕事を見つけ、自分で暮らしていけるようになれば、いずれ出ていく。誰かが決めたわけでもないのに、そうなることだけは最初から分かっていたはずだった。
ただ、その「いずれ」がいつ来るのかを、カリンは一度も考えたことがなかった。
食事のあとも、トーマは普段と変わらなかった。使った器を流しへ運び、ラディクスと明日の天気の話をし、自分の部屋へ戻っていく。カリンもいつものように片付けを済ませたが、卓上を拭くとき、トーマの使っていた椅子を無意識に見ていた。
翌朝、トーマは予定通り東へ出かけた。
カリンが起きた頃にはすでに姿はなく、食卓にはラディクスだけがいた。窓から入る朝の光が、誰も座っていない椅子の背を照らしている。そこに人がいない朝など、これまでにも何度もあったはずなのに、昨夜までは気にも留めなかった場所だった。
「昨日の話だけど。トーマの家、もう探すの?」
「本人次第だろ。急ぐことでもない」
それだけ聞いて、カリンはスープへ目を落とした。ラディクスが一度こちらを見たが、何も言わなかった。
その日は騎士団へ行っても、時折、昨夜の話が頭をよぎった。仕事をしている間は忘れている。符を確認し、指示を受け、必要なことを済ませているうちは何も考えない。それなのに手が空くと、工房の近くに家を借りると言ったトーマの声が戻ってくる。
会えなくなるわけではない。工房へ行けばいるし、騎士団にもトーマを知る者は多い。夕食に呼ぶことだってできるだろう。今までと同じように話すことも、顔を見ることもできる。
ただ、この家へは帰ってこなくなる。
夕方、家へ戻ってもトーマの姿はなかった。東へ行っているのだから当然だった。
カリンは一人で台所に立ち、夕食の支度を始めた。野菜を洗ってまな板の上へ置き、切ったものを鍋へ移している途中で、いつもと同じ量を用意していることに気づいた。二人ならもう十分なのに、手元にはまだ切っていない野菜が残っている。
包丁を持ったまま、しばらくそれを見た。
トーマが一晩いないだけなら、明日の朝にでも食べればいい。そう考えて残りも切り、鍋へ落とす。湯の中へ沈んだ野菜を木匙で混ぜると、いつもと同じくらいの量になった。
ラディクスが帰ってきた頃には、食卓に夕食が並んでいた。二人で向かい合って食べる間も、トーマの席だけが空いている。料理が少し余ったが、ラディクスはそのことには触れなかった。
食事を終え、片付けまで済ませても、カリンは自分の部屋へ戻らなかった。居間の椅子に腰を下ろして窓の外を眺めていると、通りの明かりは次第に少なくなり、時折、人の話し声だけが遠くを通り過ぎていく。向かいではラディクスが本を読んでいた。頁をめくる乾いた音が、ときどき静かな部屋に落ちる。
「兄さん」
「ん?」
カリンはすぐには続けなかった。食卓の端に、小さな傷がある。いつだったか、トーマが皿を落としかけたときについたものだった。大した傷ではなく、これまで気にしたこともなかったのに、今夜に限って妙に目についた。
「トーマが家を借りたら、すぐ出ていくのかな」
ラディクスの頁をめくる手が止まった。
「家を借りるなら、そうなるだろうな」
「……そうよね」
ラディクスは指を挟んで頁を閉じ、妹へ目を向けた。
「出ていってほしくないのか?」
窓の隙間から入った風に、卓上の灯りがわずかに揺れる。カリンはしばらく黙っていたが、やがて視線を食卓へ落としたまま口を開いた。
「分からない。出ていくのがおかしいとは思ってないの。トーマだって仕事があるし、自分で暮らせるなら、その方がいいんだと思う。でも、帰ってこなくなるのは……嫌かも」
言葉にしても、胸の内がきれいに整理されたわけではなかった。それでも、これ以上近い言い方は思いつかなかった。
朝になれば台所で顔を合わせる。どちらかが先に帰れば夕食を作り、遅ければ残しておく。数日家を空ければ、帰ってくる日を覚えている。工房であったことを聞き、騎士団であったことを話し、たまにはラディクスまで交えてくだらないことで笑う。
いつからそうなったのかは分からない。けれど、どれもすでに、カリンにとってはこの家の暮らしの一部だった。
しばらく黙っていたラディクスが、椅子の背にもたれた。
「なら、一緒に行けばいいんじゃないか?」
カリンは顔を上げた。
「……私が?」
「一緒に暮らしたいんだろ」
「それは……そうだけど」
トーマが別の家へ移るなら、自分もそこへ行く。それ自体に問題があるわけではない。けれど、今の家を出てトーマと二人で暮らすところまで考えると、すぐに頷くことはできなかった。
「でも、それって今と同じじゃない」
「同じじゃ駄目なのか?」
「そうじゃなくて……」
カリン自身、何が引っかかっているのかうまく言葉にできなかった。今の暮らしを続けたいから、トーマについていきたい。それなのに、ただ場所を変えて一緒に暮らすだけだと思うと、どこか違う気がする。
ラディクスはしばらく妹の様子を見ていたが、ふと眉を上げた。
「……恋人じゃなかったのか?」
「違うわよ」
思わず即答すると、ラディクスはしばらく妹の顔を見た。
「何よ」
「いや。初めて知った」
「何でよ」
「見てれば、そう思うだろ」
カリンは言い返そうとして、やめた。何を見てそう思ったのかと聞けば、兄が余計なことまで言い出しそうな気がした。それに、昨日までなら笑い飛ばせたはずの言葉が、今は妙に耳に残る。
恋人。
自分とトーマの間に、その言葉を置いて考えたことは一度もなかった。
ラディクスは腕を組み、少し考えるように視線を上げた。
「じゃあ、恋人になればいいんじゃないか?」
「兄さんは簡単に言いすぎなのよ」
「そうか?」
「そうよ。自分に恋人がいないから分からないんじゃない?」
「それは関係ないだろ」
「あるわよ。兄さんも恋人作ればいいじゃない」
口にしてから、カリンは少しだけ胸がすいた。ラディクスは呆れたように妹を見ていたが、やがて鼻で小さく笑った。
「俺の話はどうでもいいんだよ。恋人じゃないから一緒に暮らせない。でも、離れて暮らすのは嫌なんだろ?」
言葉にされると、ひどく身勝手に聞こえる。カリンは何も答えなかったが、否定もできなかった。
「だったら、トーマと話すしかないだろ」
「何て?」
「それは自分で考えろ」
ラディクスはそこで一度言葉を切り、食卓の上に置いていた本を脇へ寄せた。
「まあ、一緒に暮らしたいなら……結婚するって手もあるけどな」
カリンは顔を上げたものの、すぐには何も言えなかった。ラディクスは冗談めかして笑っているわけではなく、ただ思いついた選択肢を口にしたような顔をしている。
結婚。
その言葉だけが、先ほどの「恋人」よりも重く、静かな部屋に残った。
トーマと一緒に暮らしたい。それなら、結婚する。言葉にすれば単純だったが、カリンの中では今まで一度もつながったことのない二つだった。恋人ですらないと、ついさっき言ったばかりなのに、その先にあるはずの言葉を突然目の前へ置かれている。
「……飛ばしすぎじゃない?」
「じゃあ、順番にやればいい」
「そういうことじゃなくて」
「俺には分からんよ。トーマがどう思ってるかもな。本人に聞け」
ラディクスはそう言って本を取り上げた。それきり話を終えるつもりらしい。
カリンはしばらく兄を睨んでいたが、やがて椅子の背へ体を預けた。窓の外では、さっきまで聞こえていた人の声も途絶えている。
恋人と結婚。どちらも昨日までは、自分とトーマの間に置いたことのない言葉だった。
けれど、そのどちらを考えても、思い浮かぶ暮らしは今とそれほど変わらない。同じ家に帰り、同じ台所に立ち、同じ食卓で食事をする。朝になれば顔を合わせ、夜になれば今日あったことを話す。
結局、思い浮かぶのはそれだけだった。
翌日の夕方、トーマは予定より早く帰ってきた。
玄関から聞こえた「ただいま」に、台所にいたカリンはいつも通り「おかえり」と返した。それだけのやり取りなのに、昨日一日聞かなかった声が家の中を通ってくると、無意識に肩の力が抜けた。
トーマは東から持ち帰った食べ物を食卓へ置き、荷物を片付けてから手を洗うと台所へ入ってきた。外を歩いてきたせいか髪にはまだ少し埃が残り、袖口にも土がついている。夕食の支度をしているカリンの横から鍋を覗き込んだ。
「何か手伝う?」
カリンは少しだけ迷ってから、まな板の端に置いてあった野菜を指した。
「それ、切って」
「分かった」
トーマが隣に立ち、包丁がまな板を叩く音と鍋の煮える音が重なった。窓の外では日が傾き、台所の奥まで伸びていた光が少しずつ薄くなっている。やがて灯りをつけなければ手元が見えにくくなるだろう。
トーマは東で見た壊れた荷車の話をしていた。車輪の金具がひどい状態で、次に行くまでに部品を用意しておかなければならないらしい。カリンは鍋をかき混ぜながら聞いていたが、昨日までは何とも思わなかった隣との距離が、今になって妙に気になった。
肩が触れそうなほど近くに立ち、棚のものを取ろうとすれば、どちらかが自然に半歩退く。トーマが切った野菜を寄せれば、カリンは言われる前に受け取って鍋へ入れる。何度繰り返したのかも分からない動きなのに、昨夜ラディクスに「恋人」と言われただけで、今まで見えていなかったものを急に見せられているようだった。
自分たちは違う。
少なくとも、そういう話をしたことは一度もない。
それなのに、トーマが別の家へ帰るようになることを考えると嫌だった。
「ねえ、トーマ」
「ん?」
「家、探すの?」
包丁の音が止まった。
「すぐじゃないけどな。そろそろ探してもいいかなとは思ってる」
「そう」
カリンは鍋の中でゆっくり沈んでいく野菜を見つめていた。湯気が顔に触れ、目の前でほどけていく。昨夜は兄に本人へ聞けと言われた。何をどう聞けばいいのか、そのときは分からなかったが、今は少なくとも一つだけ、言わなければならないことがあった。
木匙を鍋の脇へ置き、カリンは息をひとつ吐いた。
「私も、一緒に行っていい?」
しばらく返事がなかった。
顔を上げると、トーマが少し驚いた様子でこちらを見ていた。冗談だと思った様子はない。ただ、カリンが何を言い出したのか、その意味を確かめているようだった。
「俺が借りる家に?」
「うん」
「ラディクスは?」
「兄さんはここに住むでしょ」
トーマは少し考え、手にしていた包丁をまな板へ置いた。刃が木に触れて、小さな音を立てる。
「二人で住むってこと?」
カリンは頷いた。
昨日までなら、ここで終わっていたかもしれない。同じ家に住む。ただそれだけのこととして話せたかもしれない。けれど今は、その言葉がどういう意味を持つのかを意識せずにはいられなかった。
「私たち、恋人でもないけど」
自分で口にすると、ひどく落ち着かなかった。
トーマは一度目を瞬かせたあと、少し困ったようにまな板へ視線を落とした。
「ああ……そういえば、そうだな」
「そういえばって何よ」
「いや、考えたことなかった」
それはカリンも同じだった。
二人が黙り込むあいだにも、鍋の中では小さな泡が絶えず浮かんでは弾けている。外から差していた光はほとんど消え、台所には炉の火と壁際の灯りだけが残っていた。
やがてトーマは切りかけの野菜を見たまま、ぽつりと口を開いた。
「でも、カリンが一緒に来るなら、俺はその方がいい」
カリンは彼の横顔を見た。
「それって、どういう意味?」
「どういうって……」
トーマはすぐには答えなかった。普段なら思ったことをそのまま口にする男が、珍しく言葉を選んでいる。しばらくして顔を上げると、確かめるようにカリンを見た。
「ずっと一緒に住むなら、結婚するってことになるのか?」
昨夜、ラディクスから聞いたのと同じ言葉だった。
兄に言われたときより、不思議と驚かなかった。むしろ、トーマの口からその言葉が出たことで、昨日から胸の中に置き場所のなかったものが、ようやく収まるところを見つけたように思えた。
「……私も、そう思ってた」
カリンは鍋へ視線を戻した。頬が少し熱い気がしたが、火の前にいるせいだと思うことにする。
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃないよ」
返事が思ったより早く返ってきて、カリンはもう一度トーマを見た。彼は少し考えるように眉を寄せ、言葉を探すように口を開いた。
「俺も、カリンがいなくなるのは困ると思う。……いや、困るっていうのも違うな。嫌だな、たぶん」
それ以上うまい言葉を探す様子はなかった。
飾り気のない答えだったが、カリンにはその方がトーマらしく思えた。昨日ラディクスに言われた「恋人」も「結婚」も、もっと特別な何かを伴う言葉のように感じていたのに、目の前の男はいつもの台所で、切りかけの野菜を前にしてそれを口にしている。
「じゃあ、一緒に住む?」
「ああ」
「結婚して?」
「ああ」
あまりにも普段と変わらない返事だった。
カリンは少しだけ笑った。
トーマもつられたように笑い、包丁を取り直して残っていた野菜を切り始める。カリンも鍋へ向き直った。何かが大きく変わったはずなのに、包丁の音も鍋から上がる湯気も、それまでと少しも変わらない。
それが妙に可笑しく、同時に、カリンにはひどく自然に思えた。
しばらくして玄関の扉が開き、ラディクスの「ただいま」という声が聞こえた。廊下を歩く音が近づいてくる頃には、トーマが切り終えた野菜も鍋へ入り、夕食の支度はほとんど済んでいた。
カリンは棚から皿を取り出し、一枚、二枚、三枚と食卓へ運んだ。何度となく繰り返してきた動作で、手に取る枚数を考えることもない。
いつもの数だった。
三枚目をトーマの席へ置いたところで、昨夜の兄の顔が浮かんだ。
――兄さんも恋人作ればいいじゃない。
今度その話をしたら、きっと何か言われるだろう。自分からあれだけ言っておきながら、一日経たないうちに結婚の話まで決めてしまったのだから、しばらくは格好のからかい種になるに違いない。
カリンはわずかに口元を緩め、台所へ戻った。
今夜も三人で食事をする。
この家で三人分の皿を並べる日は、もうそれほど長くない。けれど、それを考えても、昨日のように空いた椅子ばかりが浮かぶことはなかった。
三枚ではなくなった、その先の食卓。
そこに誰が座っているのかは、もう分かっていた。
今回は少しだけ、王都における結婚について。
王都では、結婚しなければ生活できないという事情はあまりありません。一人でも生活していける仕組みがありますし、結婚していなくても子供を持つことはできます。そのため、結婚そのものに大きな経済的利益があるわけでもありません。
では何のために結婚するのかというと、簡単に言えば「これからこの人と生活を共にしていく」と公に決めるためのものです。
結婚した二人は、一つの生活基盤を持つ家族として扱われます。住居も二人のものとなり、仕事についても、可能であれば長期間離れて暮らすことにならないよう考慮されます。もちろん必ず同じ職場になるわけではありませんし、任務などで一時的に離れることもあります。
これは夫婦だけの特別な扱いではなく、親子や、一緒に暮らす兄弟姉妹も同じです。成人した兄弟姉妹の場合は届け出が必要になりますが、ラディクスとカリンもこれに当たります。
一方、恋人同士はあくまで別々の生活基盤を持つ二人です。一緒に暮らすこと自体はできますが、それだけで公的に一つの家族として扱われるわけではありません。
なので今回のカリンにとっては、単に「トーマについていって一緒に暮らす」という選択肢も普通にありました。
それでも結婚を選んだのは、生活のためでも、そうしなければ二人で暮らせないからでもありません。
今まで兄と暮らしてきた家を出て、今度はトーマと新しい生活を作っていく。
その先も一緒にいることを、二人で選んだ結果が結婚だった、ということになります。
……まあ、その割にはずいぶんあっさり決まりましたが。
たぶんこの二人には、あれくらいがちょうどいいのでしょう。




