↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
68/71

ep.62 エミリアとエリク その5

模擬戦をきっかけに騎士たちの間で知られるようになったトーマは、騎士になる道を選ばず、自分の工房を構えた。


しばらく客の来ない日が続いたものの、やがて一人の騎士が刃こぼれした剣を持ち込んでくる。


久しぶりに手にする鍛冶の仕事。その一本の剣から、トーマの新しい暮らしが少しずつ動き始めていた。

トーマが最初の仕事を受けてから、工房には少しずつ客が来るようになった。


最初のうちは、騎士団の人間ばかりだった。刃こぼれした剣を持ち込んだ騎士が、直って戻ってきた剣を何人かに見せたらしい。模擬戦で妙な強さを見せた男が、今度は鍛冶屋を始めた。しかも、どうやら腕も悪くない。そんな話が、以前とはまた違った形で騎士たちの間を巡り始めていた。


「また剣か」


作業台の上に置かれた一本を見て、トーマは苦笑した。


「嫌なのか?」


「嫌じゃないよ。ただ、こればっかりだなと思って」


客としてやって来た騎士は、腰から外した鞘を作業台の端へ寄せながら笑った。


「仕方ないだろ。俺たちは剣を使うんだから」


「そりゃそうだ」


トーマは剣を抜き、窓から差し込む光に刃をかざした。


最初の頃は、こちらで使われている剣そのものに慣れるところから始めなければならなかった。使われている鉄の質も、刃の厚みも、自分が扱ってきたものとは少し違う。壊れ方にも癖があり、昔と同じやり方をそのまま当てはめればいいというものでもない。


それでも何本か触っているうちに、少しずつ加減が分かってきた。どこまで削っていいのか、どれくらい熱を入れるべきなのか。研ぎ直すだけで済むものと、形そのものに手を入れなければならないもの。その違いが見えるようになれば、あとはそれほど戸惑わなかった。


「これはそんなに時間かからないよ。明日の夕方にはできると思う」


「分かった。じゃあ頼む」


男が帰ると、トーマは預かった剣を壁際へ立て掛けた。そこにはすでに二本、別の客から預かった剣が並んでいる。工房を開いたばかりの頃、入口から通りを眺めながら客を待っていたことを思えば、大した変わりようだった。


もっとも、忙しくて手が回らないというほどではない。一本預かり、直して返す。その途中に別の客が来れば、仕事の量を見て順番を決める。空いた時間には道具を手入れし、足りないものがあれば自分で作る。朝に炉へ火を入れ、夕方には灰を始末して家へ帰る。そんな日々が続いた頃、工房を訪れる客にも少しずつ変化が現れた。


「これも直せるかい?」


ある日の昼前、年嵩の男が持ってきたのは剣ではなかった。


長い柄の先についた鉄の刃を受け取り、トーマは両手の中で何度か角度を変えた。畑で使う道具らしい。刃先の一部が欠けているうえ、柄との継ぎ目にもわずかな緩みがある。


「使ってると、ここがぐらつく?」


「そうなんだよ。力を入れると妙に曲がってな」


「じゃあ、刃だけじゃなくてこっちも直した方がいいな」


男は少し意外そうにトーマの手元を見た。


「騎士の剣ばっかり直してるって聞いたから、こういうのは駄目かと思ったんだが」


「別に剣だけじゃないよ。直せるものなら直す」


話を聞けば、男は東側の農地で働いているらしい。街へ来たついでに、知り合いから新しい鍛冶屋ができたと聞き、寄ってみたのだという。


数日後、その男は別の道具も持ってきた。それも一つではなかった。刃の曲がった農具、先端の摩耗した工具、金具の外れかけたもの。周りに話したところ、自分のものも見てほしいと次々に頼まれたらしい。


トーマは床へ並べられた道具を一つずつ手に取った。


騎士の剣とは勝手が違う。見栄えよりも、毎日使って不都合がないことの方が大切だった。刃を直すだけで済むものもあれば、柄との取り付けから手を入れた方がいいものもある。握ったまま振ってみたり、持ち主に使い方を尋ねたりしながら、手を入れる場所を決めていく。


こういう仕事の方が、昔は多かった。


「これだけあると、明日までには無理だな」


「急がなくていいよ。使う分はまだ残ってるから」


「じゃあ、順番にやるよ」


それをきっかけに、東から来る客が少しずつ増えていった。


誰かが直してもらった道具を持ち帰り、それを見た別の誰かが話を聞く。街へ来る用事があるときに持ち込み、帰りに預けていく。壁際に並んでいた剣の隣へ農具が置かれ、作業台の下には鍋の取っ手や壊れた金具まで転がるようになった。


ある日の夕方、仕事帰りに工房へ立ち寄ったラディクスは、入口近くに並んだ長柄の農具を避けながら中へ入ってきた。


「ずいぶん増えたな」


「最近、東から持ってくる人がいるんだよ」


トーマは炉の前から振り返り、額の汗を腕で拭った。火箸の先では赤く熱せられた鉄が炭の間に沈んでいる。


「お前、農具もやるのか」


「そりゃあ、鍛冶屋だからな」


ラディクスは壁に並んだ剣と農具を見比べたが、トーマにとってはどちらも変わらないらしい。


「順調そうで何よりだ」


「おかげさまで」


「俺は客を一人連れてきただけだぞ」


「工房も見つけてくれただろ」


「そうだな。だったら今度、飯でも奢れ」


「それくらいならいいよ」


そんな話をしている間にも、トーマの手は止まらない。炉から鉄を取り出すと金床へ置き、槌を手にした。ラディクスは邪魔にならないよう壁際へ退き、しばらくその様子を眺めてから帰っていった。


埃と煤ばかりが目についた工房は、いつの間にかすっかり仕事場になっていた。壁には手入れした道具が並び、作業台には預かった品が置かれ、炉には毎日のように火が入る。そうなれば当然、トーマが工房で過ごす時間も長くなった。


朝はラディクスやカリンと同じ頃に家を出て、そのまま工房へ向かう。昼は持ってきたものを食べ、手を止めにくい仕事があれば日が傾いても続けた。帰宅する頃にはすっかり暗くなっていることもあったが、それでも最初のうちは、三人の暮らしが大きく変わったようには見えなかった。


ある晩、トーマが帰ると、食卓にはすでに夕食が並んでいた。ラディクスは先に食べ始めており、カリンは自分の前の皿には手をつけず、椅子に座っている。


「遅かったわね」


「悪い。思ったより時間かかった」


トーマが空いている席へ向かおうとすると、カリンの視線がその手に落ちた。指の節や爪の際には、洗い切れていない煤が残っている。


「先に手、洗ってきなさい」


「ああ、そうだった」


トーマが奥へ引き返すと、カリンは伏せてあった器を起こした。ラディクスが向かいからその様子を見ていたが、何も言わずに食事を続けている。


やがて戻ってきたトーマが席につけば、あとはいつもと変わらなかった。その日に持ち込まれた妙な形の農具の話をトーマがし、ラディクスが騎士団で見かけた新人の失敗を話す。カリンも途中で口を挟み、食事が終わる頃には、トーマの帰りが遅かったことなど話題にも上らなくなっていた。


三人とも外で仕事をしているのだから、帰る時間が多少ずれることはある。それでも夜になれば同じ食卓につき、それぞれの一日を話して眠る。それが三人にとっての暮らしになっていた。


けれど、東から依頼を持ってくる者が増えるにつれて、今度は向こうへ来てくれないかという話が出始めた。


「持ってくるより、お前に見てもらった方が早いものもあるんだよ」


農具を受け取りに来た男が、修理の済んだ道具を肩へ担ぎながらそう言った。何軒かまとめて見てもらえれば助かるという。壊れたものを全部街まで運ぶのは、それだけでも手間がかかるらしい。


トーマは少し考えた。工房を一日空けることにはなるが、急ぎの仕事がなければどうにかなる。


「分かった。一度行ってみるよ」


そうして出かけた最初の日、トーマは家へ帰らなかった。


一日で戻るつもりだったのだが、実際に行ってみると、話を聞きつけた者が次々と道具を持ってきた。その場ですぐ直せるものもあれば、工房へ持ち帰らなければならないものもある。一軒を見終える頃には別の家から声がかかり、そちらへ行けば、ついでにこれもと奥から別の道具が出てくる。


翌日の夕方、ようやく家へ戻ったトーマは、何本かの道具を束ねて肩に担いでいた。服の裾には土埃がつき、いつもの煤とはまた違った汚れ方をしている。


「ただいま」


居間にいたカリンが扉の音に振り返った。


「昨日、帰ってくると思ってたんだけど」


「俺もそのつもりだったんだよ。思ったより仕事があってさ」


トーマは肩から道具を下ろし、壁際へ寄せた。持ち帰ったものはどれも、その場では手に負えなかったらしい。カリンは束ねられた農具を見て、それからトーマの服についた土を払った。


「次も行くの?」


「たぶんな。直したら持っていかないと」


「忙しくなったわね」


「こんなに仕事が来るとは思ってなかったよ」


そう言って笑うトーマの顔には疲れが見えたが、嫌そうな様子はなかった。


カリンはそれ以上何も言わず、トーマの肩にまだ残っていた土をもう一度払った。


数日後、今度はカリンが家を空けることになった。


騎士団の仕事で東側の監視地点まで出向き、周辺を確認して戻る。何もなければ三日ほどで帰れる予定だった。


出発の朝も三人で食事をした。ラディクスが先に家を出て、カリンも荷物を持って玄関へ向かう。トーマは食器を片付ける手を止め、戸口までついてきた。


「帰ってきたら飯作っとくよ」


「忘れないでよ」


「三日後だろ。覚えてるって」


カリンは疑わしそうにトーマを見たが、やがて小さく笑って家を出た。


三日後、予定通り戻ってきたカリンを迎えたのはラディクスだけだった。


「ただいま」


「おかえり」


居間ではラディクスが一人で本を読んでいる。カリンは肩から荷物を下ろし、いつもトーマが座っている椅子へ目をやった。


「トーマは?」


「まだ工房じゃないか?」


ラディクスは頁をめくりながら答えた。


カリンは自分の部屋へ戻って着替えを済ませ、三日分の荷物を片付けた。戻ってきた居間にはまだラディクスしかおらず、食卓にも何も並んでいない。


仕方なく椅子へ座る。


窓の外にはまだ夕方の明るさが残っていたが、それも少しずつ薄れていった。通りを行く人の姿が減り、家々の窓に明かりが灯る。ラディクスが頁をめくる音に混じって、遠くで扉の閉まる音がした。そのたびにカリンは一度だけ顔を上げ、また窓へ目を戻した。


「遅いわね」


「そうだな」


ラディクスは本を読んだまま答えた。


工房まで行ってみようかとも思ったが、仕事をしているだけなら邪魔になる。自分だって三日間家を空けていたのだから、トーマの帰りが少し遅いくらいで気にするのもおかしな話だった。


そう思っているうちに、玄関の扉が開いた。


「ただいま」


カリンは椅子から顔を上げた。


入ってきたトーマは、待っていた二人の顔を見ると少し申し訳なさそうに笑った。片手には、紙に包まれた食べ物を抱えている。


「遅かったわね」


「ごめん。もう少し早く終わると思ってたんだけど、仕事が長引いた」


トーマは手にしていた包みを軽く持ち上げた。


「飯作るって言ったけど、今からだと遅くなるだろ。途中で買ってきた」


「……待ってたんだけど」


「だから悪かったって。腹減っただろ?」


カリンは何か言い返しかけたものの、差し出された包みをそのまま受け取った。まだ少し温かい。


「次から遅くなるなら、先に言ってよね」


「分かった。気をつけるよ」


トーマは素直に頷き、手を洗うため奥へ向かった。カリンはその背中を見送ってから包みを食卓へ運ぶ。ラディクスも読んでいた本を閉じ、何も言わずにいつもの席へ移った。


その夜は、トーマが買ってきた料理に簡単なものを足して三人で食べた。ラディクスが騎士団の話をし、トーマが今日預かった仕事について話す。カリンも三日間の任務について尋ねられ、食事をしながら答えた。


誰かが数日いなくても、戻ってくれば同じ食卓につく。それまで三人は、そうやって暮らしてきた。


翌朝、カリンが起きたときには、トーマはすでに家を出ていた。


食卓には簡単な朝食が一人分残され、その脇に小さな紙が置かれている。手に取ると、東へ仕事に行くことと、おそらく今日は戻れるということだけが書かれていた。


「今日は戻ると思う、って何よ」


小さく呟きながら、カリンは椅子を引いた。


向かいの席は空いている。昨夜はそこにトーマが座り、東で見た壊れた農具の話をしていた。


カリンは朝食を食べながら、何気なく書き置きへ手を伸ばした。読み返すほどのことは書かれていない。それでも丸めて捨てることはせず、紙を二つに折って食卓の端へ置いた。


窓から差し込む朝の光の中で、その小さな紙だけが、しばらくそこに残っていた。

このエピソードシリーズが思ったより長くなってしまったため、タイトルを変更しました。


「エミリア」改め「エミリアとエリク」です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。