ep.61 エミリアとエリク その4
トーマがラディクスたちの家で暮らすようになって、しばらくが経った。
騎士団では、あの日の模擬戦をきっかけにトーマの話が広がっていた。本人が知らないところで話はどんどん大きくなり、気づけば騎士たちの間では、すっかり有名人になっている。
ラディクスは騎士団でその噂を聞くたびに苦笑していたが、同時に、トーマがこれからどうするのかも気にしていた。
いつまでも自分たちの家に置いておくわけにはいかない。
けれど、当のトーマは急ぐ様子もなく、カリンやラディクスと変わらない日々を過ごしていた。
そんなある日のことだった。
トーマは、自分にできる仕事について考え始める。
そして、ふと一つのことを思い出した。
模擬戦のあと、トーマの噂はさらに広がった。
最初に広まった話など、もはや原型を留めていない。ラディクスとの模擬戦を皮切りに、何人かの上級騎士がトーマとの手合わせを望み、その話を聞きつけた一般の騎士たちも次々と名乗りを上げた。
結果は、誰の目にも明らかだった。
一般の騎士では、相手にならない。剣を交えてもトーマに一撃を入れることすらできず、逆にトーマが本気で打ち込めば、数合と保たずに木剣を弾き飛ばされる。かといって、上級騎士なら勝てるというわけでもなかった。ラディクスを含め、上級騎士たちはそれぞれ技量と経験を生かして食い下がったものの、最後までトーマを捕らえ切ることはできなかった。
もっとも、トーマの側も簡単に勝てるわけではない。
騎士たちの剣術はトーマの知るものとは違い、盾を使った間合いの取り方や連続した攻めには苦戦していた。木剣そのものにも最後まで馴染めず、手合わせのたびに「やっぱり使いにくい」とこぼしている。それでも、攻撃をかわし続ける身のこなしと、素手で亜人と戦ってきた経験は、騎士たちにとって未知のものだった。
そして何より、トーマ自身が勝敗に執着していなかった。
「なあ、お前。正式に騎士にならないか?」
そんな誘いは、いつの間にか毎日のように届くようになっていた。
トーマは騎士たちとの手合わせを嫌がっているわけではなかった。むしろ、知らない剣術を目の前で見られることを面白がっている節さえある。ただ、それと騎士として働くことは別の話らしい。何度誘われても答えは変わらず、ラディクスもいつしか返事を取り次ぐだけになっていた。
そんなある日の夕方、食事を終えたあとだった。
トーマは、自分に何ができるのかを考えていた。
ここでの暮らしは居心地がいい。カリンもラディクスも、何も言わずに自分を置いてくれている。食事を一緒にして、くだらない話をして、夜になれば眠る。そんな毎日が、思っていたよりずっと穏やかだった。
だからこそ、いつまでも世話になっているわけにはいかないと思う。
夕食の支度をしながら、トーマはそんなことをぼんやり考えていた。鍋の中では煮込み料理が静かに湯気を立てている。火加減を確かめ、具材を混ぜ、次に切るものへ手を伸ばす。いつもの作業を繰り返しているうちに、ふと、その手が止まった。
まな板の上に置いていた料理用のナイフへ目が落ちる。
柄を握り直し、刃を親指の腹で軽く撫でる。もちろん刃先に触れるようなことはしない。ただ、使い込まれた金属の感触を確かめるように、目の前の道具を眺めた。
「……鉄、かな」
詳しいことまでは分からない。
けれど、こういう金属には見覚えがあった。
そういえば、騎士団で見た剣も鎧も鉄だった。街を歩いていても、鉄を使った道具は珍しくない。扉の金具や荷車の部品、店先に並ぶ道具にも、似たような金属が使われている。
思っていたより、ずっと身近にある。
トーマはナイフをまな板へ戻した。
鉄が手に入るなら、できることはある。
その考えが浮かぶと、以前の仕事が少しずつ頭の中に戻ってきた。炉の熱。赤くなった鉄。金床に置いたときの重さ。槌を振り下ろすたびに響く音。もう随分と離れているはずなのに、思い出してみれば手順の一つ一つが妙にはっきりしている。
しばらくやっていない。
それでも、身体が忘れているとは思えなかった。
武器でも農具でも、壊れたものを直すことくらいならできるだろう。新しく作ることだってできる。ここで使われている道具を見ている限り、仕事に困ることもなさそうだった。
何より、それなら自分一人でも仕事になる。
トーマはしばらく考え、それから小さく頷いた。
「……うん」
考えているうちに、鍋から湯気が強く立ち上った。
「っと」
慌てて火を弱める。
考え事をして料理を焦がしてしまったら、カリンに何を言われるか分からない。トーマは苦笑しながら鍋を覗き込み、残りの支度を続けた。
夕食を終え、片付けも一段落したところで、トーマは居間にいたラディクスへ声をかけた。
「ラディクス、ちょっと聞きたいんだけど」
「ん?」
ラディクスが顔を上げる。
「鍛冶ができるところって、どこかにあるか?」
ラディクスは少し意外そうな顔をした。
「鍛冶屋か?」
「そう。仕事をしたいんだ」
トーマは椅子に腰を下ろしながら答えた。
「急にどうした?」
「俺にできることを考えてたんだよ。それなら、鍛冶がいいかなって」
「鍛冶ができるのか?」
「うん」
トーマは少し笑った。
「昔、やってたから」
「鍛冶を?」
「ああ。武器も作ったし、道具も作った。修理もしてた」
ラディクスはしばらくトーマを見ていた。
これまで一緒に暮らしてきたとはいえ、まだ知らないことは多い。トーマが自分の過去をあまり話さないことにも、ラディクスはもう慣れていた。それでも、鍛冶職人だったという話は初めて聞く。
「……そういうことは、もっと早く言ってくれよ」
「聞かれなかったからな」
「そうだけどさ」
ラディクスは苦笑しながら椅子にもたれた。
「鍛冶屋なら、騎士団で聞いてみるよ。武器を扱うところには伝手があるからな」
「頼めるか?」
「ああ。そのくらい任せろ」
翌日、ラディクスが騎士団で話をすると、思ったより早く話は進んだ。
王都には騎士団の武具を扱う大きな工房がいくつもある。職人が何人も働き、それぞれ決まった仕事を抱えているような場所だ。一方で、個人で小さく仕事をしている鍛冶屋は少ないらしい。
それでも、話を聞いた騎士の一人が思い出したように言った。
「そういえば、使われてない工房があったな」
「使われてない?」
「ああ。昔は個人でやってたところだ。今はもう誰も使ってないはずだが、炉も金床も残ってると思う」
「場所は?」
「そう遠くないぞ」
それなら一度見てみる価値はある。
ラディクスから話を聞いたトーマは、すぐに見てみたいと言った。
案内された工房は、通りから少し外れた場所にあった。
大きな工房のように何人もの職人が行き交うこともなく、建物そのものもこぢんまりとしている。扉を開けると、長いこと使われていなかったらしい空気が残っていた。炉には灰が溜まり、作業台には薄く埃が積もっている。それでも、鍛冶場として必要なものが失われているわけではない。
トーマは中へ入ると、まず炉を覗き込んだ。
火床の状態を確かめ、次に金床へ近づく。表面に手を置き、傷の具合を見る。それから壁に掛けられていた道具を一つ手に取った。
「……これなら、使えるな」
「分かるのか?」
「分かるよ。鍛冶屋だったんだから」
トーマは道具を元の場所へ戻し、工房の中を見回した。
「少し掃除は必要だけど、炉も直せそうだ。道具も足りないものを揃えればいい」
「気に入ったか?」
ラディクスが尋ねる。
トーマはもう一度、炉を見た。
使われなくなってからどれくらい経つのかは分からない。それでも、ここには鍛冶場として必要なものが残っている。火を入れれば、また仕事ができる。
「うん」
トーマは振り返って笑った。
「ここでやりたい」
工房を借りる話がまとまると、ラディクスはさっそく使用の許可を取ってきた。
それを聞いたトーマは、翌日から工房へ通い始めた。
まずは掃除だった。
長いこと使われていなかった工房には、時間がそのまま積もっているようだった。炉の周りには灰が残り、床には煤と細かな鉄屑が散らばっている。壁際には使われなくなった道具がいくつか置かれていたが、錆が浮いているものもあれば、埃を払えばまだ使えそうなものもあった。
トーマは一つずつ手に取って確かめていった。
使えるものと使えないものを分け、壊れているものは脇へ寄せる。炉の中を空にして、固まった灰を掻き出し、金床の表面にこびりついた汚れを落とす。作業そのものは地味だったが、トーマは急ぐ様子もなく、気になったところを見つけるたびに手を入れていった。
足りない道具もあった。
ラディクスが騎士団で話をしてくれたおかげで、付き合いのある工房から、使わなくなった槌や火箸、古い作業道具などを譲ってもらうことができた。新品ではないが、手入れをすればまだ十分使えるものも多い。
「これ、もらっていいのか?」
「置いてあっても使わないからな。持っていけってさ」
「助かるな。買うと結構するんだよ」
トーマは受け取った道具を一本ずつ眺めた。
槌を握れば柄の具合を確かめ、火箸は開閉してみる。使い慣れたものとは形が違うらしく、ときどき首を傾げることもあった。それでも、使いにくいからと放り出すようなことはない。自分の手に馴染むよう、柄を削ったり、金具を調整したりしながら使える形にしていった。
カリンも時々、工房へ顔を出した。
「まだ終わらないの?」
「もう少し。そこの箱、空いたら隅に寄せてくれる?」
「これ?」
「そう、それ」
カリンが箱を抱えて運ぶ横で、トーマは炉の周りに溜まった灰を掻き出していた。
工房の中は埃っぽく、外へ出る頃には二人とも服に薄く煤が付いていることもあった。それでも、カリンは特に嫌がる様子もなく、手の空いたところを見つけては片付けを手伝った。
「お昼、持ってきたわよ」
「ありがとう。ちょうど腹減ってた」
「毎日そればっかりね」
「仕事してると腹が減るんだよ」
「まだ仕事してないじゃない」
「準備も仕事だろ」
「それはそうだけど」
そんなやり取りをしながら、少しずつ工房が形になっていった。
炉を整え、金床を磨き、必要な道具を揃える。棚を片付ければ道具を置く場所ができ、床を掃けば作業するための空間が広がる。何もなかった頃にはただ古びて見えた工房も、手を入れていくにつれて、少しずつ鍛冶場らしい姿を取り戻していった。
仕事を始めるだけなら、もっと早くてもよかったのかもしれない。
けれどトーマは、急いで始めようとはしなかった。
自分がこれから毎日使う場所なのだ。道具をどこに置くか、炉の周りをどう使うか、作業したものをどこへ置くか。そういう細かなところまで決めてしまったほうが、結局は仕事がしやすい。
そうして、二週間が過ぎた。
ようやく、いつでも仕事を始められる状態になった。
炉には火を入れられる。金床も問題ない。槌も火箸も揃った。足りないものがないわけではないが、今あるものでできる仕事から始めればいい。
とはいえ、客が来なければ仕事にはならない。
トーマは工房の入口から通りを眺めることが増えた。
誰かが立ち寄るたびに顔を上げるが、鍛冶の仕事を頼みに来る者はいない。まだ工房の存在を知っている人間そのものが少ないのだから、当然と言えば当然だった。
最初の客が訪れたのは、それから数日後のことだった。
昼を少し過ぎた頃、工房の入口から声がした。
「ここで合ってるか?」
トーマは作業台に置いていた道具から顔を上げた。
入口に立っていたのは、騎士団の男だった。腰には剣を提げている。鍛冶屋を訪ねてきた客にしては、その身なりには見覚えがあった。
「そうだけど。何か?」
男は工房の中へ一歩入ると、腰の剣へ手を伸ばした。
「剣を見てもらいたい」
差し出された剣を受け取る。
トーマは反射的に鞘と柄を確かめ、それから男の顔へ目を戻した。そこでようやく、以前どこで会ったのかを思い出した。
「……ああ、この前の」
模擬戦で手合わせをした騎士だった。
木剣を交えたのは一度だけだったが、何度も踏み込んでくる相手だった。トーマ自身、あのときは王都の騎士がどんな剣を使うのかを見るのに夢中になっていたから、顔も動きも覚えている。
「覚えてたか」
「そりゃ覚えてるよ。結構強かったからな」
「それはどうも」
男は少し照れたように笑った。
「普段なら、団の武具を扱ってるところに頼むんだがな」
そう言いながら、男は剣の刃へ目を落とした。
「お前が鍛冶を始めたって聞いてな。せっかくだから、一度頼んでみようと思った」
「なるほど」
トーマは頷き、剣を鞘から抜いた。
刃の途中に小さな欠けがある。深くはないが、放っておけば使うたびに引っ掛かるだろう。トーマは剣を持ち上げ、刃を光にかざした。欠けた部分だけでなく、その周囲まで目を動かしていく。
傷の具合を確かめ、指先で刃の状態を探る。
「これなら直せるよ」
「本当か?」
「うん。少し時間をもらえれば」
「じゃあ、頼む」
男が剣を手放すと、トーマはそれを受け取って作業台へ運び、改めて刃の状態を確かめた。自分で借りた工房に、初めて客から預かった品が置かれている。トーマはしばらくその剣を眺めてから顔を上げ、男へ笑いかけた。
「よし。ちゃんと直すよ」
「頼んだ」
男が帰っていくと、扉の閉まる音を最後に工房は静かになった。トーマは作業台の上の剣をしばらく眺め、それから炉へ目を向ける。
久しぶりの仕事だった。




