ep.59 エミリアとエリク その3
トーマがカリンとラディクスの家で暮らすようになって、しばらくが経った。
その頃になると、騎士団の中ではトーマの噂が少しずつ広がっていた。
最初は、亜人を素手で倒した男がいる――その程度の話だった。それが人の口を渡るうちに、自分の倍はあろうかという亜人を投げ飛ばした、数十を相手にして傷ひとつ負わなかった、と尾鰭がつき、しまいには一人で小隊を相手にしただの、怒らせれば村一つを壊滅させるだの、月を見ると獣に変わるらしいだの、もはやどこまでが本当なのか分からない話まで出始めている。
ラディクスはその噂を聞くたび、苦笑するしかなかった。
「流石にそこまでじゃないさ」
昼休みの食堂でそう言っても、向かいの騎士たちは面白そうに顔を見合わせる。
「でも、亜人を素手で倒したのは本当なんだろ?」
「そこは本当らしい」
「じゃあ、投げ飛ばしたっていうのも?」
「……まあ、投げたという話は聞いた」
「ほらな」
「いや、だからって話を変な方向に持っていくなよ。あいつだって普通の人間だぞ」
そう言いながら、ラディクスは自分で言った言葉に少しだけ引っかかった。
普通の人間――と言うには、確かにあの男は少々規格外だった。
「それで、実際のところどうなんだ?」
「何が?」
「お前、あいつと一緒に暮らしてるんだろ。家でもやっぱり、そんなに強そうな感じなのか?」
「そんなに強そうな感じって何だよ」
「ほら、こう……飯を食ってるだけで威圧感があるとか」
ラディクスは吹き出した。
「寝るし、飯も食うし、腹が減れば腹が減ったって言う。お前らが勝手に怪物にしてるだけだよ」
「でも一度くらい、手合わせしてみたいよな」
誰かがそう言うと、別の騎士がすぐに乗った。
「俺も見てみたい」
「だったら模擬戦をやらせてみよう」
「誰が相手する?」
「そりゃラディクスだろ」
「なんで俺なんだよ」
「預かってるんだから、そのくらい面倒見ろよ」
「お前ら、面白がってるだけじゃないか」
笑い声が起こった。だが、笑いながらも騎士たちの目は本気だった。誰もが噂の男の実力を確かめたいらしい。ここまで来れば、ラディクス一人が断ったところで収まりそうにない。
ラディクスは頭を掻き、深く息を吐いた。
(こりゃ、一度くらい顔を出さなきゃ収まらんな……)
夕方、騎士団を出たラディクスは、まだ昼間の騒ぎを引きずったまま家路についた。
家に戻ると、台所から鍋をかき混ぜる音が聞こえてきた。覗いてみれば、トーマが袖をまくり、夕食の支度をしている。まだ仕事の決まっていない身ではあるが、こうして家のことを手伝うのも、すっかり日常になっていた。
「トーマ、明日、騎士団に来られないか?」
「明日?」
トーマは鍋から顔を上げた。
「何かあったのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだ。ただ、どうもみんなお前に興味があるらしくてな」
「俺の扱いが決まったのかと思った」
「そっちじゃないよ」
ラディクスは椅子に腰を下ろし、騎士団で聞いた噂を話して聞かせた。話せば話すほど、自分でも呆れてくる。トーマは途中で何度か首を傾げたものの、黙って聞いていた。
そこへカリンが顔を出した。
「ずいぶん大袈裟な話になってるわね」
「だろ?」
ラディクスが肩をすくめる。
「まあ、俺も興味はあるんだがな。こいつが実際どれくらい強いのか、一度くらい見てみたい」
その言葉に、カリンが少し嬉しそうな顔をした。
「強いなんてもんじゃないわよ。武器も持たずに亜人を相手にして、それだけでも十分すごいのに、あっという間に三体もやっつけちゃったんだから」
「その時のこと、まだ覚えてるのか?」
「忘れるわけないじゃない」
カリンはそう言ってから、トーマを見る。
「本当にすごかったもの」
ラディクスは妹の顔を見て、苦笑した。
「お前もすっかり向こう側の人間だな」
当のトーマは、二人の会話を聞きながら首を傾げていた。
「そんなに珍しいことなのか?」
「……普通は亜人相手に素手で無事に済むわけがないんだよ」
「そうなのか」
「爪も牙もあるんだからね」
カリンまで言うと、トーマは少し考えてから頷いた。
「なるほど。そう言われれば、確かに危ないな」
「今さら気づくことかよ」
ラディクスが笑う。
トーマもつられて笑い、それから鍋を軽くかき混ぜた。
「それで、明日は何をするんだ?」
「模擬戦だ。騎士団の連中が、お前と一度手合わせしてみたいらしい」
「別に構わないけど、俺、騎士団の剣術は知らないぞ」
「それも含めて見たいんだろ。別に試験じゃないんだ、気楽にやればいい」
「兄さんが相手するの?」
カリンが尋ねる。
「そういうことになった。俺も相手する」
「兄さん、負けないでよ」
「おい。カリン、俺を誰だと思ってるんだ。第四騎士団の上級騎士だぞ」
「だって、トーマが強いのも知ってるもの」
「それはまあ、俺も気になってるところだ。家で飯食ってる姿だけじゃ、強さなんて分からんからな」
ラディクスは苦笑しながらトーマを見る。
「とはいえ、簡単に負けるつもりはないから安心しろ」
「うん。期待してる」
カリンは素直に頷いた。
「そう素直に言われると……なんとも調子が狂うな」
ラディクスが苦笑すると、トーマが鍋の蓋を閉めた。
「じゃあ、飯にしよう。せっかく作ったんだから、冷める前に食おう」
「ああ、それがいい」
明日の模擬戦の話をしていたはずなのに、三人の関心はいつの間にか夕食へ移っていた。
翌日、模擬戦の会場となったのは騎士団の訓練場だった。立ち合いを希望しているのはラディクスだけではない。訓練の手を止めて見物に来た騎士も多く、いつもの訓練場には、ちょっとした見世物のような空気が漂っていた。
「一番手はラディクスだな」
第三騎士団の副長が名簿を確認する。
「はいよー、っと。よりにもよって俺が一番手とはね」
ラディクスは肩をすくめた。
「もう少し後ろで見てからにしたかったんだがな。相手の手の内も分からないまま出ていくってのは、どうにもくじ運が悪い」
「そう言うけど、結局お前が一番楽しみにしてたんじゃないのか?」
「……まあ、そいつは否定しない」
周囲から笑いが起こる。ラディクスも笑っていたが、視線だけはすでに訓練場の中央へ向いていた。
「兄さん、頑張ってね」
程近い場所に集まった騎士たちの中からカリンが声をかける。ラディクスはそちらを振り返り、片手をひらりと上げた。
「おう」
それだけ返すと、ラディクスは訓練場の中央へ向き直り、壁際に立てかけられていた木剣と盾を手に取った。
何度も使われてきたものらしく、剣身には細かな傷が刻まれている。柄を握って軽く振り、具合を確かめてから、もう一本をトーマへ放った。
トーマは飛んできた木剣を受け止めると、柄を両手で握り直した。それから何度か素振りをする。二度、三度と振るううち、わずかに眉を寄せた。
「扱いにくいな……」
トーマは木剣を持ち替え、手の内を確かめるようにもう一度振った。王都で使われる木剣は、騎士が普段扱う剣を基準に作られた訓練用のもので、形も重さも特別なものではない。それを手にしてなお扱いにくいと言うのだから、周囲の騎士たちには妙に映った。
しかもトーマは片手で振るのが当然のような剣を、両手でしっかりと握っている。その姿だけを見れば、剣の扱いを知らない素人と受け取られても仕方がなかった。
「なんだ、あいつ。剣の使い方も知らないのか?」
観客の一人が笑った。
「妙な構えだな」
別の声が飛ぶ中、ラディクスは答えずにトーマを眺めていた。
騎士団で身につけた剣術とは明らかに違っていた。ラディクスの知る構えに比べれば、肩も腕も力が抜けすぎている。木剣の扱いにも不慣れなところがある。それでも、素人の動きには見えなかった。
やがて副長が手を上げると、訓練場のざわめきが静まった。
トーマは木剣を下ろし、ラディクスへ深く頭を下げる。
騎士団では見慣れない動きだったが、ラディクスは気に留めなかった。目の前に立つ相手から、ほんの一瞬でも意識を逸らすつもりはない。
「始め」
声が落ちるより早く、ラディクスが踏み込んだ。上段から鋭く斬り込むが、トーマは受けずに半身を引いてかわし、その勢いのまま腰を落として木剣を斬り上げる。ラディクスは盾を差し込み、打ち込まれた一撃を受け止めた。
木剣が盾を叩き、乾いた音が訓練場に響く。
(扱いにくいなんて言ってる奴の剣筋じゃないだろ)
予想以上だった。だが、まだ崩されたわけではない。
ラディクスは間合いを取り直すと、今度は上段からの斬り込みを途中で引き、突きへ変えた。トーマは木剣の腹を合わせてその軌道を外へ流す。そのまま踏み込んできた切先を、ラディクスは身体を引いてかわした。
木剣が目の前を抜ける。
次の瞬間には、ラディクスも踏み込んでいた。
盾を前へ押し出し、逃げ道を塞ぎながら剣を繰り出す。上段から横薙ぎへ、そこからさらに切り返す。先ほどまでの探りを捨て、手数と間合いで押し込んでいく。
だが、それでも届かない。
トーマは剣が振られるより先に身体を動かしていた。肩がわずかに動いたと思った次の瞬間には、もう半身になっている。木剣が頬のすぐ脇を通り抜けても、顔を逸らすだけでかわしてしまった。
観客から、思わず息を呑む声が漏れた。
「今の入っただろ!」
「いや、避けてるぞ」
ラディクスには、それがよく分かっていた。観客からすれば今度こそ当たったと思う一撃も、実際には紙一重で外されている。狙いも剣筋も悪くない。それでも、最後の一瞬だけが噛み合わない。まるでトーマには、木剣の届く場所が最初から分かっているようだった。
再び間合いへ踏み込む。今度は剣だけでなく盾も使い、トーマの動ける範囲を少しずつ狭めていった。上段からの斬り下ろしを横薙ぎへ繋ぎ、かわされた先へ盾を差し出す。逃げれば追い、受ければそのまま押し込み、剣を引いたかと思えば今度は突きへ変える。
それでも、届かなかった。
トーマは大きく逃げているわけではない。ラディクスが振り抜いた木剣の先から、ほんのわずかに身体を外しているだけだ。次の一撃を読んだように見えることもあれば、ただそこに剣が来ないと知っているかのように立っていることもある。
ラディクスは一度、足を止めかけた。
だが、すぐに踏み込む。
上段。横薙ぎ。突き。切り返し。
何度打ち込んでも、木剣は空を切った。
トーマの剣もまた、ラディクスには届かない。避けた直後に踏み込まれても、盾で受ける余裕がある。互いに決定打を欠いたまま、木剣の音だけが訓練場に響き続けた。
そして、また一度。
ラディクスの木剣が空を切った。
「……当たらん!」
思わず声が漏れた。
ラディクスはとうとう木剣を下ろした。
「もういい。引き分けだ」
張り詰めていた訓練場に、一瞬の静寂が落ちた。
次いで、あちこちから歓声が上がる。
ラディクスは肩で息をしながら木剣を下ろし、トーマも構えを解いた。息は乱れているものの、ラディクスほどではない。
「まだやれるけど?」
「俺もやれるよ。だから困ってるんだ」
ラディクスは苦笑しながら肩を回した。
「これ以上やっても、たぶん同じだ。お前には当たらないし、そっちの剣も俺には当たらない」
再び歓声が上がった。
勝敗がつかなかったことを惜しむ声よりも、互いの健闘を称える声のほうが多い。中には口笛を吹く者までいて、訓練場はすっかり試合の余韻に包まれていた。




