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ep.58 エミリアとエリク その2

獣人の群れとの戦いが終わったあと、集落には慌ただしい時間が残された。


負傷者の手当て、被害の確認、周囲の警戒。そして王都への報告。応援に駆けつけた騎士たちも、それぞれの仕事を終えれば王都へ戻らなければならない。


そんな中、あの戦いでカリンを助けた男だけは、しばらく目を覚まさなかった。


結局、男が次に目を開けたのは、それから三日ほど経った頃だった。

あの襲撃のあと、男は三日ほど眠り続けた。集落に残っていた騎士たちは負傷者の治療や被害の確認を進めながら、王都への報告をまとめていた。獣人の群れが退けられた以上、応援に来た騎士たちをいつまでも留めておくことはできない。仕事を終えた者から順に王都へ戻り、現地に残ったのは周辺の警戒と事後処理を担当する者だけになった。


カリンもその一人だった。


男が目を覚ましたのは、ちょうどそんな頃だった。


「起きた?」


寝台のそばで書類を整理していたカリンが顔を上げる。


男はゆっくりと目を開け、しばらく天井を見ていた。それから身体を起こし、自分の腕や肩を確かめるように動かした。


「ここは……あの集落か?」


「そうよ。戦いのあと、ここへ運んだの。覚えている?」


「獣人と戦ったところまでは覚えている。その後は、どうも記憶がないな」


「三日も寝ていたもの。途中で何度か起こそうとしたけど、全然起きなかったわ」


「三日?」


「ええ。だから、目を覚ましてくれて少し安心した。あれだけ戦って、何日も眠ったままだったから」


「心配をかけたようだな」


「まあね。でも、こうして話せるなら大丈夫そう」


カリンが立ち上がる。


「身体はどう? 痛むところはない?」


「特にないな。少し腹が減っているくらいだ」


「それなら、かなり元気そうね」


「なにか食べる物はあるのか?」


「起きて最初にそれを聞くの?」


「しばらく何も食べてない」


「そうだけど……分かったわ。ちょっと待って」


用意してあった食事を運ぶと、男は礼を言って食べ始めた。


カリンはしばらく黙って見ていたが、やがて空になった皿に目を落とした。


「……全部食べたのね」


「できれば、もう少し欲しい」


「本当に元気みたいね」


呆れたように笑いながら、カリンは残っていた料理を皿に分けた。


「でも、いきなり食べすぎるのはよくないかもしれないから、これくらいにしておいて」


「分かった。十分だ」


「そう。ならよかった」


食事を終えた男が椅子に座り直す。カリンは食器を片付けながら、ふと思い出したように振り返った。


「そういえば、まだ名前を聞いてなかったわね」


「名前?」


「そう。いつまでも『あなた』って呼ぶわけにもいかないでしょう」


男は少し考えてから答えた。


「トーマだ」


「トーマさんね」


カリンは一度頷いた。


「私はカリン。あのとき一緒に戦っていた符術士よ。覚えてる?」


「ああ。覚えている」


「なら話は早いわ。しばらくは私たちがあなたのことを調べることになると思うから、いくつか教えて」


「分かった」


「さっそく一つ確認したいことがあるの」


カリンは椅子を引き、寝台の近くへ腰を下ろした。


「あなたの身元についてだけど、出身地は?」


「東の方だ」


「東部のどこか、ということ?」


「そういうことになるな」


「集落の名前は分かる?」


「……」


「ご家族は?」


「……」


「覚えてないの?」


無言の男にカリンは少し困った顔をした。


「……それだけだと、かなり探すのが大変ね」


「そうだろうな」


「騎士団には東部の住民について記録があるから、調べてみるわ。ただ、名前だけだと同じ名前の人がいる可能性もあるし、出身地まで分からないとなると時間はかかると思う」


「すまない、手間をかけるな」


「放っておくわけにもいかないでしょう。あの集落で保護した以上、騎士団にも責任があるもの」


「そうか」


「だから、気にしなくていいわ。何か思い出したら、そのとき教えてくれればいいから」


「ああ。そうする」


それから数日かけて調査が行われた。


東部の集落へ問い合わせ、住民の記録を照合し、該当しそうな人物がいないかを確認する。しかし、トーマという名前に一致する者は見つからなかった。家族についても手掛かりはなく、本人から得られた情報だけでは出身地を特定することもできない。


一方で、騎士団の仕事は次々と入ってくる。


戦闘が終われば次の警戒があり、別の場所から報告が届けば人員を割かなければならない。集落に残っていた騎士たちも、必要な処理を終えると順番に王都へ戻っていった。


やがて、トーマを現地に残しておく理由もなくなった。


身元が分からない以上、騎士団の管理下には置く必要がある。しかし、王都で暮らすための住居をすぐに用意できるわけでもない。


そこで、王都での住居が決まるまでの間、トーマを預かることになったのが、カリンと兄が暮らしている家だった。


王都へ戻った翌日、その家へトーマを連れて帰った。


王都の東側に広がる住宅街は、昼を過ぎても人の往来が絶えない。商店へ向かう住民や仕事帰りの騎士が行き交う通りを、カリンはトーマの少し前を歩いていた。トーマは辺りを見回しながらも、特に口を挟むことはない。


「この先が私の家よ」


角を曲がり、何軒かの家が並ぶ通りへ入る。カリンが一軒の扉の前で足を止めると、トーマも立ち止まった。


「兄さん、いるかな」


扉を開ける。


「ただいま」


返事はなかった。


「まだ帰ってないみたい」


カリンが扉を開けると、中からは誰の気配もしなかった。


「ここが私たちの家。しばらくは私もここにいるから、何かあったら言って」


「分かった。世話になる間は、なるべく迷惑をかけないようにするよ」


「そんなに気を遣わなくてもいいけど」


「いや、そういう意味じゃない。こうして住む場所を用意してもらえるだけでも十分ありがたいんだ」


「そう言われると、こっちも預かる甲斐があるわね」


カリンが笑う。


「それと、勝手に出歩いてもいいけど、騎士団から何か言われるまでは遠くへ行かないでね。まだ手続きが終わってないから」


「王都の中なら、ある程度は歩いてもいいのか?」


「近所くらいならね。でも、迷子にならないでよ」


「さすがにそれは大丈夫だと思う。道を覚えるまでは、目印を確認しながら歩くことにするよ」


「よろしくね。私、仕事中にあなたを探しに行くのは嫌だから」


「それは俺も避けたいな。見つけてもらうまで帰れないのは困る」


トーマが苦笑すると、カリンも笑った。


その日の夕方、ひとりの男が帰ってきた。


扉が開き、外套を脱ぎながら入ってきた男は、居間にいるトーマを見て足を止める。


「……誰だ?」


「兄さん。話してたでしょう」


「ああ……あの男か」


カリンと同じ髪色の男はトーマを見たまま、しばらく黙っていた。


「実際に見るのは初めてだな」


「そうね。今日から、しばらくここで暮らすことになったの」


「騎士団から聞いてる。身元が分からないんだったな」


「うん。住居が決まるまでの間だけ」


男はトーマへ視線を戻した。


「俺はラディクス・フェイルル。カリンの兄だ。急に知らない家へ連れてこられて落ち着かないだろうが、住む場所が決まるまでは好きにしてくれて構わない」


「ありがとう。俺も、いつまでも世話になるつもりはないから、それまでよろしく頼む」


「そうしてくれると助かる。とはいえ、騎士団から預かった以上、こっちも変に気を遣わせるつもりはない」


「それなら安心した。ずっと客扱いされる方が、かえって落ち着かないからな」


「なるほど。じゃあ普通にしていればいい」


「そうさせてもらうよ」


ラディクスは小さく頷き、外套を掛けた。


「何か困ったことがあれば、カリンに言ってくれ。あいつの方が家のことは詳しい」


「兄さん、私に全部任せるつもり?」


「俺よりお前の方が家にいる時間は長いだろ」


「それはそうだけど……」


「俺にもできることなら手伝う。仕事で家を空けることが多いから、その辺は分かっておいてくれ」


「分かった。俺もできることは自分でするよ」


「それなら話は早い」


ラディクスはようやく表情を緩めた。


「夕飯は?」


「もう少しでできるわ」


「なら、着替えてくる。今日は腹が減った」


「兄さんまでそれ?」


「何だよ」


「トーマさんも起きて最初に同じこと言ってたの」


トーマが横から口を挟む。


「三日寝ていたんだ。あれくらいは許してほしい」


「三日?」


ラディクスがトーマを見る。


「それは……確かに腹も減るな」


「でしょう?」


カリンが言うと、ラディクスは苦笑した。


「なるほど。そこは納得した」


それからの暮らしは、思っていたよりも早く形になっていった。


最初のうちは、カリンもトーマのことを気にかけていた。食事の時間を伝え、買い物に行くときには必要なものを確認し、王都の中で用事があるときには場所を教える。トーマもそれに素直に従った。


「トーマ、今日は私が帰るの遅くなるから、夕飯はこれを温めて食べて」


「分かった。カリンは夕飯を食べて帰ってくるのか?」


「たぶん帰ってから食べると思う」


「それなら、帰ってきてから温めればいい。先に食べずに待っておこうか?」


「待たなくていいわよ。お腹が空いたなら先に食べてて」


「そうか。じゃあ、そうする。帰ってきたら、残っている分を温めればいいんだな」


「そうそう」


「それなら、冷めないように蓋をしておくよ」


「うん。それでお願い」


「分かった。気をつけて帰ってこいよ」


「はいはい。トーマに心配されるほど遅くならないわよ」


そんなやり取りを繰り返しているうちに、カリンもいちいち説明することに慣れていった。


トーマは教えられたことをよく覚えていた。使った食器は流しへ運ぶし、洗濯物が乾いていれば取り込んでおく。何も言われなくても、手が空いていれば家の中の仕事を手伝うようになった。


ある日の夕方、カリンが仕事から戻ると、台所から包丁の音が聞こえてきた。


「ただいま……トーマ?」


「おかえり。今、夕飯を作ってるところだ」


振り返ったトーマの前には、切り分けられた野菜が並んでいた。


「何してるの?」


「夕飯の準備。今日は俺が作っておこうと思ってな」


「私、頼んでないけど」


「頼まれてはいないよ。ただ、今日は早く帰れそうだったから、何か作っておこうと思ったんだ」


「それなら自分の分だけでいいでしょう」


「そうすると、二人が帰ってからまた作ることになるだろ。それなら三人分まとめて作った方が楽じゃないか?」


「……まあ、それはそうだけど」


「それに、いつも世話になってるからな。食事くらいは俺も用意したい」


カリンは鍋を覗き込んだ。


「味は大丈夫?」


「まだ見てない。ちょうど今から味見するところだ」


「じゃあ、ちょっと貸して」


カリンが味を確かめる。


「うん。大丈夫そう」


「本当か?」


「うん。ちゃんと食べられる」


「それならよかった」


「最初の頃より、ずいぶん上手くなったわね」


「最初は勝手が分からなかったからな。道具の場所も、何をどれくらい使うのかも知らなかったし」


「今は?」


「だいたい分かる。分からないものがあれば、その都度聞けばいいしな」


「そういうところは覚えるの早いのよね」


「覚えておいた方が楽だからな。毎回カリンに聞くのも悪いだろ」


「別に聞いてくれていいのに」


「そう言ってもらえるのは助かるよ」


カリンが少し笑った。


「じゃあ、これからも分からないことがあったら聞いて」


「ああ。その代わり、俺にもできることは任せてくれ」


「それならお願いしようかな」


カリンが椅子を引く。


「私、着替えてくるから。兄さんが帰ってきたら呼んで」


「分かった。帰ってくる頃には盛り付けまで終わらせておく」


「じゃあ、お願い」


「任せてくれ」


カリンが自分の部屋へ向かう。


トーマはその背中を見送り、それから再び鍋へ向き直った。


帰れば誰かがいる。


いつの間にか、それは二人にとって当たり前になり始めていた。

今回、ラディクス・フェイルルという名前が出てきました。


実はこれまで、王都の登場人物には姓をほとんど付けていません。アルフレッドもエミリアもエリクも、これまでずっと名前だけで呼んできました。


もちろん、王都に姓がないわけではありません。家族や公的な場ではきちんと姓があります。ただ、特別教室のような普段の付き合いでは名前だけで呼び合うことが多く、これまでの話ではわざわざ出す機会がありませんでした。


今回、騎士団から身元不明のトーマを預かることになり、そこで初めて「ラディクス・フェイルル」という正式な名前が出てきます。そして当然ながら、妹のカリンも同じフェイルル姓です。


こうして考えると、これまで名前だけで登場していた人物たちにも、それぞれ家の名前があるわけですね。


……まあ、これを書いている時点で、こちらもまだ全員分を決めているわけではありません。


必要になった人から、少しずつ考えていこうと思います。

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