ep.57 エミリアとエリク その1
今回は少し時間を遡ります。
まだ符術が騎士団の戦術として確立されておらず、騎士と符術士がそれぞれの役割を手探りで担っていた頃の話です。
そして、この頃はエミリア\(とエリク\)はまだ生まれていません。
彼女の物語を語るには、その少し前にあった一つの出会いから始める必要がありました。
符術が研究されるようになって数年が経っていた。
騎士団では試験的に、各小隊へ二、三名の符術士を帯同させている。剣を振るう騎士と、呪符で術を起こす符術士。役割は分かれており、戦場でどう噛み合わせるかはまだ現場に委ねられていた。
カリンもその試みに加わる符術士の一人だった。十八歳と若いが実戦経験は多く、術の威力よりも、どこで使うべきかを見極める判断力に長けている。青い髪を短いボブに整え、細身の身体には符術士として最低限の装備をまとっていた。
その日、カリンの小隊は急報を受け、東部穀倉地帯の外れへ馬を走らせていた。付近で十体を超える獣人の群れが確認されたという。単体なら騎士でも対処できるが、群れとなれば話は別だ。数で押し込み、防衛線の綻びから集落へ入り込むため、これほどの規模になれば常駐戦力だけでは抑えきれない。
「急報からどれくらいだ」
小隊長が前を向いたまま問う。
「半刻ほどです。集落には常駐騎士が六名とのこと」
「六人か……」
小隊長の声が低くなる。騎士だけで十体を超える獣人を抑えながら住民を守るには心許ない。集落の男たちが加わったとしても、どこまで持ちこたえられるか分からなかった。
馬蹄が乾いた街道を叩く。王都から離れるほど人の気配は薄れ、畑の向こうに木立が増えていく。カリンは揺れる馬上で一度だけ符袋に手を添えた。
「魔術士がいればな……」
誰かが呟いた。
かつてなら、この規模の襲撃に魔術士が派遣されることもあった。だが今は人手が足りない。符術がその穴を埋め始めているとはいえ、まだ十分とは言えなかった。
「余計なことは考えるな。間に合わせるぞ」
小隊長の声に、騎士たちが短く応じる。
カリンも前を見据えた。遠くに集落の屋根が見える。その向こうから、風に乗ってかすかな怒号が届いていた。一行はさらに馬を速め、集落へ駆け込む。
集落の入口では、六人の騎士と五人ほどの男たちが獣人の群れを食い止めていた。簡素な柵を背に騎士たちが並び、その隙間を埋めるように集落の男たちが槍や剣を構えている。男たちは普段から武器を扱っているのだろう。動きに素人らしさはなかったが、それでも獣人の群れを相手にするには数が足りなかった。
獣人たちは低い姿勢で駆け込み、鋭い爪を振り上げて騎士へ食らいつく。盾で受け止められればすぐに身を引き、別の個体が横から飛び込んでくる。正面から力任せに押し潰そうとはせず、絶えず相手の隙を探しながら数で防衛線を削っていた。騎士の一人が肩を裂かれて後退し、代わった男が槍を突き出して一体を退ける。その横では別の騎士が二体を相手にしており、じわじわと後ろへ押し込まれていた。
「下がるな! ここを抜かれたら集落まで入られるぞ」
常駐騎士の隊長が声を張る。返事をする余裕のない者も多く、荒い息遣いと金属のぶつかる音ばかりが返ってきた。すでに何人かが負傷し、集落の男たちも腕を押さえながら、それでも武器を手放さずに戦い続けている。
そこへ、遠くから馬蹄の音が重なった。獣人たちの唸り声に混じって次第に大きくなり、やがて街道の向こうから騎士たちの一団が姿を現す。
「応援だ!」
誰かが叫んだ。
小隊は集落へ入るとすぐに馬を降り、前線へ駆け込んだ。負傷した騎士と入れ替わるように新たな騎士たちが前へ出て、獣人を押し返していく。その後ろでは三人の符術士がそれぞれ呪符を取り出していた。カリンも腰の符袋から一枚を抜き、目の前の獣人へ狙いを定める。
「『炎よ』」
呪符から生じた火球が獣人の足元へ飛び、土を巻き上げて弾けた。怯んだ獣人へ騎士が踏み込み、そのまま剣を振り抜く。同じ頃、別の場所でも火球が放たれ、さらに後方では土壁符が展開して獣人の進路を塞いだ。
三人の符術士は、それぞれ戦場を見ながら術を選んでいた。誰かが術の順番を指示することもなければ、騎士が符術士へ合図を送ることもない。それでも術が加わったことで押し込まれていた前線には余裕が生まれ、騎士たちはその隙を使って一体ずつ獣人を削っていく。まだ形の定まらない戦い方ではあったが、符術が戦場に加わった意味は大きかった。
「今だ、押し返せ!」
小隊長の声に合わせて騎士たちが踏み込む。火球に怯んだ獣人の隙を別の騎士が突き、その横からさらに一人が斬り込んだ。カリンも間近の獣人へ呪符を向けたが、味方の騎士が入り込んだため、すぐに狙いを別の獣人へ移す。
「『炎よ』」
火球が獣人の肩口へ命中し、身体が大きく傾く。そこへ別の符術士が放った火球が重なり、獣人は地面へ転がった。
戦況は少しずつ持ち直していた。倒された個体を踏み越えるようにして次の獣人が前へ出てくるため、前線の騎士たちに休む暇はない。負傷者も増え始め、疲労の色が濃くなっていく。それでも符術による援護が加わったことで、押し込まれていた防衛線は少しずつ前へ戻り始めていた。
やがて一体の獣人が、正面で騎士たちが押し合っている隙を見つけた。低く身を屈めて人の間をすり抜け、そのまま小隊の後方へ走る。カリンは気配に気づいて振り返った。獣人はすでに目前まで迫っている。
(だめ、近すぎる)
呪符を構えながら距離を測る。火球を放てば自分まで巻き込まれる。別の術を選んでいる暇もない。
(まずい……)
獣人が牙を剥き、地面を蹴った。
獣人の爪が、空気を裂いた。
カリンは咄嗟に身を引いた。けれど、距離が近すぎる。腕を上げて身を庇おうとした、その瞬間、横から伸びた手が獣人の手首を掴んだ。
獣人の勢いが、そのまま横へ流れる。男は一歩だけ踏み込み、掴んだ腕を引いた。獣人の身体が大きく傾き、地面へ転がる。起き上がろうとしたところへ男が腕を取り、さらに身体を捻ると、そのまま獣人を地面へ押さえ込んだ。男の腕が首元へ回る。次の瞬間、獣人の身体から力が抜けた。
カリンは息を呑んだ。
男は立ち上がると、倒れた獣人にはもう目も向けず、次の気配へ視線を向けた。
「危ない!」
別の獣人が男へ飛び掛かる。
男は身をかわし、爪を避けながら伸びてきた腕を掴んだ。そのまま引き寄せると獣人の身体が大きく崩れ、男は足を払って地面へ転がし、その首元を踏み抜く。さらにもう一体が迫ると、今度は正面から受け止めることなく横へ回り込み、その背後へ回った。
獣人が振り返るより早く、男の腕がその身体を引いた。獣人が重心を崩すと同時に、鋭い踏み込みからその背へ自分の身体をぶつける。柵まで飛ばされた獣人はそれきり動かなくなった。
カリンは呪符を握ったまま、その一連の動きを見ていた。
力任せに押し切っているわけではない。獣人が爪を振るうたび、その動きを外し、掴み、崩す。まるで相手がどう動くのか、最初から分かっているようだった。
(何、この人……)
そう思ったところで、小隊長の声が飛んだ。
「カリン!」
はっとして前を向く。前線ではまだ獣人たちが騎士とぶつかり合っていた。
「はい!」
カリンは呪符を握り直した。
「『炎よ』」
火球が群れの中央へ飛び、獣人たちの足元で弾ける。数体が怯んだところへ騎士たちが踏み込んだ。
別の符術士も呪符を掲げ、少し離れた場所ではもう一人が術を放つ。三人の符術士がそれぞれの判断で術を使い、騎士たちはその隙を逃さず前へ出る。まだ互いの術を組み合わせるような戦い方ではない。それでも、三人の術が加わったことで戦況は確実に変わっていた。
獣人の群れは次第に数を減らし、前線を押していた勢いも失っていく。最後まで踏みとどまっていた一体が騎士の剣を受けて倒れると、ようやく集落に静けさが戻った。張り詰めていた空気が緩み、残されたのは荒い呼吸と、誰かが落とした武器の乾いた音だけだった。
「負傷者を集めろ! 周囲警戒!」
小隊長の声に騎士たちが動き始める。カリンも負傷者の確認に加わろうとしたが、その前にふと、先ほど自分を助けた男の姿が目に入った。少し離れた場所に立っている。騎士たちも男の存在に気づいたらしく、何人かが警戒するように視線を向け、剣の柄へ手をかけた。
男はその気配に気づいたのか、ゆっくりとこちらへ振り返る。しかし、何かを言うより先に身体がわずかに揺れた。
「おい、大丈夫か?」
近くにいた騎士が声をかける。
男は答えなかった。足元がふらつき、何とか踏みとどまろうとするものの、身体を支える力が抜けていく。カリンが異変に気づいて駆け寄った時には、すでに身体が大きく傾いていた。
「ちょっと!」
咄嗟に腕を伸ばしたものの、完全には支えきれない。男はそのまま地面へ崩れ落ち、カリンも肩を支えたまま膝をついた。
「おい!」
周囲の騎士たちが集まってくる。
カリンは男の肩へ手を添え、顔を覗き込んだ。意識はあるらしい。呼吸も乱れてはいない。ただ、身体からすっかり力が抜けている。獣人との戦いで負った傷があるのかと確認しようとしたが、目立った外傷は見当たらなかった。
「聞こえる? 大丈夫?」
男の瞼がわずかに動く。
「怪我か?」
「分かりません。獣人の攻撃は受けていないはずですけど……」
カリンがさらに様子を見ようと身を寄せた、その時だった。
静まり返った集落に、ぐう、と妙に大きな音が響いた。
カリンの手が止まり、周囲の騎士たちも一斉に男へ視線を向ける。男自身も腹へ目を落とし、しばらく何かを考えるように黙っていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……腹減った」
カリンは目を瞬いた。
「……え?」
男はそれ以上何も言わなかった。再び瞼が閉じ、今度こそ意識を失ったらしい。身体から完全に力が抜けたため、カリンは慌てて肩を支え直す。
「ちょっと、待って!」
騎士たちは互いに顔を見合わせた。先ほどまで獣人の群れを相手にしていた男が、戦いが終わった途端に空腹で倒れたという事実を、誰もすぐには飲み込めないらしい。
「……腹が減って倒れたのか?」
「いや、そんなことあるか?」
「でも本人がそう言ったぞ」
誰かが呟く。
小隊長は倒れた男をしばらく見下ろしていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……とりあえず運べ。起きたら飯を食わせてやれ」
「分かりました」
カリンは男の身体を支えながら、改めてその顔を見た。素手で獣人を相手にし、こちらの窮地を救った男が、今は騎士たちに担がれて集落の建物へ運ばれていく。そのあまりの落差に、カリンは思わず首を傾げた。
(本当に、何なのこの人……)




