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ep.56 アストリッド その6

男の言葉を聞いたあとも、部屋ではしばらく誰も口を開かなかった。窓の外では荷車が石畳をゆっくりと進み、夕暮れを知らせる鐘が遠くで鳴っている。いつもと変わらない王都の音だけが静かに流れ、その中で父は膝へ置いた両手を見つめ、母はティルダの肩へ添えた手をそっと撫で続けていた。


やがて父はゆっくりと顔を上げる。


「……お願いします」


それだけだった。


迷いがなかったわけではない。それでも、自分たちにはどうすることもできないのだと、父はもう理解していた。


男は深く一礼する。


「責任を持ってお預かりします」


「いつになりますか」


「できれば早いうちに」


父の問いに男は静かに答えた。


「魔術は発現したばかりの時期が最も不安定です。今は右腕だけで済んでいますが、この先どのような形で現れるかは誰にも分かりません。制御を覚えれば落ち着く可能性は高いでしょう。しかし、それまではこの子自身も苦しい思いをするはずです」


母はティルダを抱き寄せる腕へ、わずかに力を込めた。


「……家族は、会えますか」


男は頷く。


「もちろんです。術の塔は罪人を預かる場所ではありません。ご家族であれば面会もできます。ただ、塔の外で暮らしながら学ぶことはできませんので、生活は塔の中になります」


その言葉に、母は小さく「そうですか」とだけ返した。


男が帰ると、家の中には静かな時間だけが残った。


夕食はいつものように食卓へ並び、父も母も普段と変わらないように振る舞っていたが、誰も話を切り出そうとはしなかった。そんな空気には気付きもしないティルダだけが、煮込み料理を口いっぱいに頬張っては「おいしい」と笑い、黒く変わった右腕を不思議そうに眺めて首を傾げている。その姿を見て母は笑顔を返したものの、目元だけは少し赤くなっていた。


翌朝、母はまだ薄暗いうちから起きて小さな布袋へ着替えを畳み、父は術の塔へ渡す書類を何度も見返していた。ベルントは黙って荷物をまとめ、アストリッドは落ち着かないまま部屋と土間を何度も行き来していたが、自分にできることは何も見つからなかった。


「ティルダ」


母が棚の上から一体の人形を下ろす。


「これも持っていきなさい」


「いいの?」


「向こうでも寂しくないようにね」


ティルダは嬉しそうに人形を受け取ると、大事そうに胸へ抱き締めた。少し前まで何度も結び直そうとしていた布の服も、今は新しい紐でしっかり結び直されている。それを見たアストリッドは、あの日、裂けた布を握ったまま泣いていたティルダの姿を思い出し、小さく唇を結んだ。


やがて玄関先へ馬車の止まる音が聞こえ、昨日の男が迎えに来た。


父は荷物を持ち上げ、母はティルダの髪を整えながら何度も前髪を撫でる。


「向こうの人の言うことをちゃんと聞くのよ」


「うん」


「ご飯もしっかり食べるの」


「うん」


「困ったことがあったら、一人で我慢しちゃ駄目だからね」


ティルダは素直に頷く。その返事はいつもと何も変わらず、少し遠くへ出掛けるくらいにしか思っていないのだろう。母は笑顔を崩さないまま、その小さな頭を最後にもう一度だけ抱き寄せた。


男は布袋を受け取り、ティルダへ穏やかに微笑む。


「行きましょうか」


「うん」


小さな手が母の手を離れ、父の横を通り、男と並んで玄関を出ていく。途中で一度だけ振り返ったティルダは、人形を抱えたまま嬉しそうに手を振った。


「いってきます」


母は笑顔で手を振り返し、父も静かに頷く。ベルントは照れくさそうに片手を上げ、少し遅れてアストリッドも小さく手を振った。


ティルダはその笑顔のまま馬車へ乗り込み、車輪はゆっくりと石畳を転がり始めた。窓から何度も振られる小さな手は角を曲がるまで見えていて、その姿がようやく見えなくなると、母は静かに目を閉じ、父は何も言わず空を見上げる。ベルントも玄関先に立ったまま馬車が消えた通りを見つめ続けていたが、アストリッドだけは誰より長くその角から目を離すことができなかった。


あの日、ティルダへ伸ばしかけた手より先に、自分の足は半歩だけ後ろへ下がった。その小さな後退を責めた者は誰もいない。きっとティルダも、もう覚えてはいない。それでもアストリッドの中では、夕暮れの畳を擦ったあの小さな音だけが、今も終わらずに残り続けていた。


その日からだった。


剣を握る理由を考えるようになったのは。


誰かより強くなりたいわけではない。ただ、大切な人が手を伸ばしてきたとき、今度こそ迷わずその手を掴める自分でありたい。


幼い胸へ静かに残ったその願いは、誰にも語られることのないまま、やがてアストリッドを騎士の道へと歩かせることになる。


----------


それから九年の時間が過ぎた。


王都の朝は、あの日から何も変わらないように始まっていた。鐘が鳴れば人々はそれぞれの暮らしへ向かい、店を開く者は通りへ出て、学校へ通う子どもたちは眠気の残る顔のまま家を後にする。東から届く穀物、西から運ばれる魚、北から下りてくる家畜や毛皮。それぞれの場所から集まったものが街を巡り、多くの人々にとって王都での一日は、昨日の続きとして始まり、明日のために終わっていくものだった。


アストリッドもまた、その流れの中にいた。


十七歳になった今、彼女は騎士を目指す学生の一人として訓練場に立っている。幼い頃から変わらない活発さは今も残っており、休憩時間になれば誰かの会話へ自然に混ざり、訓練が始まれば冗談を言っていた顔から一転して真剣に武器を振るう。周囲から見れば、少し落ち着きがなく、けれど誰に対しても壁を作らない、ごく普通の少女だった。


ただ、彼女が剣を握る理由だけは、誰も知らなかった。


騎士になりたいと思ったきっかけを、アストリッドはこれまで誰かへ話したことがない。


話す必要もないと思っていた。


それは誰かに理解してもらうための理由ではなく、自分の中に残り続けている小さな約束のようなものだったからだ。


あの日、黒く変わった右腕を抱え、怯えたように自分を見上げていた小さな少女は、もう九年前の姿のままではない。ティルダは術の塔で魔術士として学び、自分の力と向き合いながら少しずつ成長している。家族が訪ねれば昔と変わらない笑顔を見せ、今では自分の足で歩き、自分の居場所を作っている。


それでも、アストリッドの中からあの日の記憶が消えることはなかった。


夕暮れの光を受けて揺れていた、縦に細く裂けた瞳。小さな身体を震わせながら伸ばされた視線。そして、手を伸ばそうとした自分より先に、ほんの半歩だけ後ろへ下がってしまった感覚。


その記憶は、今でも胸の奥に残っている。


けれど、それはただの後悔ではなかった。


もしもう一度、ティルダが自分の力に苦しむ日が来たとしても。もしその力を理由に、誰かが彼女を恐れることがあったとしても、その時は迷わず隣に立てる自分でありたいと思う。


魔術士だからでも、特別な力を持っているからでもない。


ただ、ティルダが大切な妹だからだ。


それだけの理由で、アストリッドは剣を握り続けている。


夕方の訓練を終え、武器を片付けたアストリッドは、校舎を出たところでふと足を止めた。遠くに見える術の塔は、九年前と変わらず王都の景色の一部としてそこに建っている。


幼い頃の彼女にとって、あの塔は家族から離れていく妹を連れていく、遠くて不安な場所だった。けれど今では、そこにはティルダが暮らしていて、そこで過ごしてきた時間もまた、妹自身が選んだ人生の一部なのだと分かっている。


アストリッドはしばらく塔を眺めたあと、小さく息を吐いて視線を戻した。


翌日になれば、また訓練がある。まだ足りないものは多く、届かない相手もいる。それでも、今日と同じように剣を握るのだろう。九年前に動けなかった半歩を、今度は迷わず踏み出せるように。

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