ep.55 アストリッド その5
アストリッドは動けなかった。
ティルダの右手から広がった黒い毛は肘の辺りまで伸び、柔らかな子どもの腕は人のものとは思えない姿へ変わっている。それでもティルダ自身は何が起きているのか分からないらしく、震える右腕を左手で押さえたまま、小さく「いたい」と呟いていた。
「……ティルダ」
思わず名前を呼ぶと、ティルダはゆっくり顔を上げた。右の瞳だけが獣のように細く縦へ伸び、涙で濡れた頬の向こうから不安そうに姉を見つめ返す。その目を見た瞬間、近付こうとしていたアストリッドの足は畳を小さく擦り、気付けば身体はほんの半歩だけ後ろへ退いていた。
「おねえちゃん……」
ティルダは小さく名前を呼び、後退った姉と黒く変わった自分の右腕とを見比べるように視線を揺らしたあと、何かを堪えるように唇を結ぶ。それでも溢れそうになる涙は止められず、右腕を抱き締めるように身体を丸めると、しゃくり上げながら泣き始めた。
その泣き声を聞きつけ、土間から慌ただしい足音が近付いてくる。
最初に部屋へ飛び込んできた父は、泣き続けるティルダの姿を見て一瞬だけ足を止めた。その後ろから現れた母も、黒く変わった右腕と見慣れない瞳を見て息を呑む。しかし次の瞬間にはティルダの傍へ膝をつき、その小さな身体をそっと抱き寄せていた。
「大丈夫。大丈夫だから」
何度もそう繰り返しながら背中を撫でると、ティルダは母の胸へ顔を埋め、苦しそうに息をつきながら泣き続ける。黒い毛に覆われた右腕にも母はためらわず手を添え、その震えを少しでも落ち着かせようとするように、何度も優しく撫でていた。
父は隣へ腰を下ろし、変わってしまった右腕を静かに見つめる。
「ティルダ」
呼び掛けると、ティルダは涙で濡れた顔を上げた。
「父さんの声は聞こえるな」
小さく頷く。
「腕は動かせるか」
恐る恐る右手を開くと、黒い毛並みに覆われた指先はぎこちなく動き、ゆっくりと握り直された。痛むのか、そのたびにティルダは顔をしかめるが、父はそれ以上何も聞かず、指先から肩口までを目で追うように見つめていた。
いつの間にかベルントも部屋へ来ていた。
荷運びの途中だったのだろう。肩にはまだ木屑が付いたままで、戸口に立ったまま何も言えずにいる。その視線は黒く変わった右腕へ向いたまま動かず、やがて父と目が合うと、ようやく我に返ったように小さく息を吐いた。
父は立ち上がり、短く言う。
「ベルント、医者を呼んできてくれ」
「……うん」
返事をすると、ベルントはすぐに踵を返し、玄関から外へ駆け出した。石畳を蹴る足音は夕暮れの通りへ遠ざかり、部屋には再びティルダのすすり泣きだけが残る。
アストリッドは部屋の隅に立ったまま、その様子を見つめていた。母の腕の中で泣き続けるティルダは、もう一度だけこちらを見た気がしたが、その視線を受け止めることができず、アストリッドは小さく俯いた。
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数日が過ぎた。
あの日から家の中は慌ただしいままだった。呼ばれた医者はティルダの右腕を何度も診察し、熱を測り、脈を確かめ、黒く変わった毛並みへも恐る恐る手を伸ばしたが、最後まで原因は分からないままだった。教会から神官も訪れ、祈りを捧げて様子を見たものの、右腕は元へ戻ることもなく、獣のように変わった右の瞳も変化はなかった。
結局、医者の判断で王都騎士団へ報告が上がり、その日のうちに二人の騎士が家を訪れた。二人も同じようにティルダの様子を確かめたあと、互いに小さく頷き合い、その場で何かを書き留めると、父へ静かに告げた。
「術の塔へ報告します」
それだけ言い残し、騎士は帰っていった。
アストリッドは「術の塔」という言葉を、そのとき初めて聞いた。
何をする場所なのかも、誰がいるのかも分からない。ただ父も母も詳しく尋ねなかったところを見ると、名前くらいは知っている場所なのだろうと思った。
翌日の昼過ぎ、一人の男が家を訪れた。
騎士ではなかった。
深い紅色の法衣をまとい、肩から胸にかけて細かな銀糸の刺繍が施されている。腰に剣はなく、代わりに一本の細い杖を携えたその姿は、王都で見掛ける誰とも違っていた。
父が玄関先で深く頭を下げる。
「お待ちしておりました」
男も静かに一礼した。
「術の塔より参りました」
それだけ名乗ると、余計な言葉は口にせず家へ上がる。
ティルダは居間で母の隣へ座っていた。右腕は相変わらず黒い毛に覆われたままで、母が縫った長袖の服では隠しきれず、袖口から毛先が少しだけ覗いている。
男はティルダの前へしゃがみ込むと、目線を合わせて穏やかに微笑んだ。
「こんにちは」
ティルダは母の袖を握ったまま、小さく頭を下げる。
「少しだけ見せてもらってもいいですか」
母が頷き、ゆっくりと袖を捲る。
黒い毛並みに覆われた右腕が現れると、男はしばらく黙ったまま見つめていた。指先へ触れ、手首を返し、肘の辺りまで静かに確かめていく。その間、部屋には誰も声を出さず、聞こえるのは窓の外を通る荷車の音だけだった。
やがて男は小さく息をつき、右の瞳を覗き込む。
ティルダも言われるまま顔を上げ、その視線を受け止めていた。
「……獣化の魔術、ですか」
その呟きに、父が顔を上げる。
「ご存じなのですか」
男は頷いた。
「術の塔には過去の記録が残っています。非常に珍しい魔術ですが、前例がないわけではありません」
部屋の空気がわずかに緩む。
誰も知らないものではなかった。その事実だけで、父も母も少しだけ肩の力を抜いたようだった。
「ただ……」
男は言葉を続ける。
「私自身が実際に診るのは初めてです。記録では数例確認されていますが、そのどれもが術の塔で保護され、魔術の制御を学んでいます」
「魔術……」
アストリッドは思わず小さく呟いた。
その声を聞いたベルントが、妹の隣へ腰を下ろす。
「魔術士っていうのは、術の塔で術を学ぶ人たちだよ」
「騎士みたいな人?」
「少し違うかな」
ベルントも首を傾げる。
「俺も詳しくは知らないけど、騎士団と一緒に戦うこともあるって聞いたことがある」
「強いの?」
「……強いらしい」
それは噂でしかなかった。
王都で暮らしていても、魔術士を見る機会はほとんどない。術の塔の外へ出ること自体が珍しく、一生会わないまま終わる人も少なくないと聞いていた。
だからこそ、目の前にいる男も、アストリッドにはどこか現実の人には見えなかった。
父は静かに口を開く。
「あの」
男が顔を向ける。
「この子は……治るのでしょうか」
その問いに、男はすぐには答えなかった。
ティルダの右腕へもう一度目を向け、静かに考えるような間を置いてから、穏やかな声で言う。
「申し訳ありません。現時点では、私にも分かりません」
父も母も黙ってその続きを待っていた。
「獣化の魔術は、制御を身につけることで元の姿へ戻れる例もあります。一方で、身体の一部に変化が残る例も記録されています。この子がどちらになるのかは、まだ判断できません」
母の手が、そっとティルダの肩へ添えられる。
ティルダは難しい話は分からないのだろう。ただ、不安そうな顔で母の横顔を見上げていた。
男はその小さな様子を見つめ、少しだけ声を柔らかくする。
「ですが、一つだけ確かなことがあります」
部屋にいた全員が、その言葉へ耳を傾けた。
「この力は、きちんと学ばなければなりません。制御できなければ、この子自身も、周囲の人も傷付けてしまう可能性があります」
そこで一度言葉を切り、父と母をまっすぐ見つめる。
「術の塔で、この子を預からせていただけないでしょうか」




