ep.54 アストリッド その4
王都へ移ってから三年。
アストリッドの暮らしは、学校と家を中心に回っていた。
朝になれば学校へ向かい、夕方になれば家へ帰る。父は仕事から戻り、母は夕食の支度をし、ティルダはその日あったことを嬉しそうに話す。
そんな家族の時間の中で、アストリッドは妹と過ごすことも多くなっていた。
数日が過ぎた。
王都での暮らしは相変わらず規則正しく、朝になれば鐘が鳴り、人々は同じ時間に家を出る。学校へ向かう子どもたちも、荷を運ぶ大人たちも、その流れへ自然と溶け込み、一日は昨日の続きみたいに始まっていく。
アストリッドも、その流れの中にいた。
学校へ通うようになって三年。読み書きや計算にも慣れ、昼休みになれば友達と庭を走り回る。教師に注意されることも相変わらず多かったが、それでも以前より少しだけ落ち着いたと母は言っていた。
本人には、その自覚はあまりない。
校庭の隅に転がる手頃な石を見つければ、つい拾ってしまう癖も直っていなかった。握った重さを確かめてしまうのは、西部で兄と過ごした時間が身体へ染みついているからなのだろう。もっとも、王都で投げればまた母に叱られる。それくらいは分かっていたので、拾って眺めるだけで終わることも増えていた。
夕方、家へ戻る。
土間では父が帳面を広げ、店へ卸す魚の数を商人と確かめていた。西部から運ばれてきた木箱はもう半分ほどが運び出され、残った荷の間をベルントが行き来している。
「おかえり。」
父は帳面から目を離さないまま声だけを掛けた。
「ただいま。」
短く返事をして家へ上がる。
この時間になると、家の中には夕食の支度をする音が満ちていた。包丁がまな板へ当たる音。鍋の蓋が小さく鳴る音。煮込み料理の匂いが廊下まで流れてきて、外の魚の匂いとは違う温かさを家の中へ広げている。
「おねえちゃん。」
奥の部屋からティルダが顔を出した。
今日も人形を抱えている。
最近は一日のほとんどを、その人形たちと過ごしているようだった。
「きょうね、おようふくつくったの。」
嬉しそうに見せてくる。
布を巻いただけの簡単な服だったが、小さな紐がきちんと結ばれていて、前より少しだけ上手になっている。
「上手じゃん。」
そう言うと、ティルダは照れくさそうに笑った。
「おかあさんがおしえてくれた。」
その声を聞いた母が台所から顔だけ覗かせる。
「最後はほとんど一人でやってたのよ。」
「ほんと?」
「うん。」
褒められたのが嬉しかったのか、ティルダは人形を抱き締めて何度も頷いていた。
夕食が出来るまで少し時間があった。
父は土間で帳面を開いたまま商人と言葉を交わし、ベルントもまだ荷運びの途中だった。台所では夕食の支度に追われる母が鍋へ火を掛けていて、家の中で手の空いているのは、いつの間にかアストリッドとティルダだけになっていた。
窓は少しだけ開いていて、夕方の風が薄いカーテンを静かに揺らしている。通りからは荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえ、その向こうでは子どもたちの笑い声が少しずつ遠ざかっていった。
ティルダは床へぺたりと座り込み、人形を一体ずつ大事そうに並べ始めた。布の服を着たもの、木を削って作られたもの、大きさも形も少しずつ違う人形たちを、本人にしか分からない決まりでもあるように並べ替えていく。少し置いては首を傾げ、気に入らなければまた並べ直す。その横顔は遊びというより、小さな仕事に夢中になっている職人みたいだった。
「これは、おねえちゃん。」
一番端へ置く。
「これは、おにいちゃん。」
その隣。
「これは、おとうさん。」
「母さんは?」
アストリッドが聞くと、ティルダは少しだけ考え込んでから、真ん中の人形をそっと持ち上げた。
「ここ。」
「真ん中なんだ。」
「みんな、ここ。」
そう言って満足そうに笑う。
難しいことは分からない。
けれどティルダの中では、それが一番しっくりくる並びなのだろう。
アストリッドはその様子を眺めながら、何となく床へ寝転がった。
梁の高い天井を見上げながら、アストリッドはゆっくり息を吐く。窓から入り込む風は西部の川とは違う街の匂いを運び、遠くでは教会の鐘が夕暮れを知らせていた。こういう時間も、もう特別ではない。王都で暮らす毎日が、いつの間にか当たり前になっている。
ぼんやりとそんなことを考え、まぶたを閉じかけた、そのときだった。
「……あれ。」
ティルダの小さな声が聞こえた。
見ると、人形へ巻いた布がほどけている。
結び直そうとして、小さな指が何度も布を摘まむ。
人形へ巻いた細い布紐がうまく結べないらしい。小さな指で何度も端を摘まみ、片方を回して引っ張るたびに、結び目はするりとほどけてしまう。もう一度やり直す。また外れる。
ティルダは誰も呼ばなかった。困ったように唇を結ぶだけで、黙ったまま何度も同じことを繰り返している。
「貸して。」
アストリッドは寝転がっていた身体を起こし、ティルダの隣へ腰を下ろした。
人形へ巻かれた細い布紐は、また途中までほどけて床へ垂れている。ティルダはその端を小さな指で摘まんだまま首を横へ振り、人形を胸へ抱き寄せた。
「だいじょうぶ。」
そう言うと、もう一度布を持ち直す。
輪を作り、もう片方を通そうとする。途中まではうまくいくのに、最後で指が外れ、結び目はするりとほどけてしまった。
「あ……。」
あと少しだった。
結び目は形になりかけていたのに、小さな指がほんの少しずれただけで布はするりと抜け、人形の胸元から頼りなく垂れ下がる。ティルダは慌てるでもなく、その布を見つめたまま首を傾げた。
何が違ったのだろう、と考えているようだった。
やがて小さく息をつくと、もう一度だけ布を持ち直す。今度はさっきよりずっと慎重だった。指先はゆっくり動き、結び目も少しずつ形になっていく。けれど最後の最後で布が指の間を滑り、出来かけていた輪はまた静かにほどけてしまう。
その一生懸命な横顔を見ていると、アストリッドは笑わずにはいられなかった。
五歳になったティルダは、少し前から何でも自分でやりたがるようになっていた。服を畳むことも、靴を揃えることも、母の真似をして布を結ぶことも、時間は掛かっても最後まで自分でやろうとする。
アストリッドは声を掛けなかった。手を貸せばすぐ終わる。それでも黙って見ているのは、出来るようになるまで待ってあげなさい、と母がよく言っていたからだ。
ティルダは何でも一人でやりたがる年頃で、出来たときに褒められるのが何より嬉しい。だからもう少し待てばきっと結べるだろうと、アストリッドは小さな指先を眺めながら思っていた。
居間には夕方の柔らかな光が差し込み、窓から入る風が人形の服をかすかに揺らしていた。
土間では父の声が聞こえ、時折ベルントが木箱を動かす重い音が響く。台所からは鍋の蓋が触れ合う小さな音と、煮込み料理の匂いが流れてきて、この家のいつもの夕方が静かに過ぎていた。
その穏やかな時間の真ん中で、ティルダだけが小さな布紐と格闘している。
ティルダは唇をきゅっと結び、もう一度布を摘まみ直した。小さな指先で輪を作り、慎重に端を通していく。あと少しというところで布がするりと抜け、結び目はまた形を失った。それでも諦める様子はない。悔しそうに少しだけ眉を寄せると、黙ったまま布を持ち直し、もう一度最初からやり直す。
「そんなに急がなくてもいいのに。」
アストリッドが笑う。
「ゆっくりやれば、そのうちできるよ。」
ティルダは返事の代わりに小さく頷き、もう一度だけ布を持ち直した。輪を作り、端を通し、ゆっくりと引く。その瞬間、ぶつり、と乾いた音が響く。
二人は同時に手元を見た。結び目は出来ていない。布紐は途中から裂け、切れ端だけがティルダの小さな手に残っていた。ティルダは目を丸くしたまま動かず、自分の手と裂けた布を交互に見つめている。
アストリッドは布を受け取った。古くなっていたのかと思ったが、裂け目は妙だった。擦り切れたというより、強い力で無理に引き裂かれたような跡が残っている。
「……変なの。」
思わずそう呟いたアストリッドは、返事がないことに気付いてティルダを見る。けれどティルダは裂けた布ではなく、自分の右手をじっと見つめたまま動かなかった。
その小さな手は、よく見るとかすかに震えている。
「ティルダ?」
呼びかけても返事はなかった。
代わりに肩が小さく震え、浅くなった呼吸だけが静かな居間に聞こえる。何かを我慢しているようにも、何かに怯えているようにも見えて、アストリッドはようやく笑みを消した。その顔を覗き込むと、ティルダはまだ自分の右手だけを見つめ続けていた。
「どうしたの?」
その問い掛けに答える代わりに、ティルダは小さく唇を震わせた。
「……いたい」
か細い声だった。
それと同時に、ティルダの右腕がびくりと大きく跳ねる。小さな肩まで揺れるほどの震えに、アストリッドは思わず息を呑んだ。
まるで腕の中で、別の何かが目を覚ましたような、不自然な動きだった。
ティルダ自身も何が起きているのか分からないのだろう。怯えたように目を見開き、自分の右腕を見つめたまま動けずにいる。
次の瞬間。
小さな指先から黒い毛が一気に広がった。
手の甲を覆い、指を包み、細い腕へと這うように伸びていく。柔らかな子どもの肌は瞬く間に黒い毛並みに覆われ、細かった腕の輪郭がゆっくりと別の形へ変わっていった。
アストリッドは声を失った。
それが何なのか、どうして起きているのか、何一つ分からない。
ただ、目の前にいる妹の右腕だけが、人のものではない何かへ変わっていた。
子どもの頃、何でも自分でやってみたくなる時期があります。
大人から見れば、少し手を貸せばすぐに終わることでも、本人にとっては自分の力で出来るようになることが大きな意味を持っている。
服の紐を結ぶことや、靴を揃えること、簡単な作業を最後まで自分でやり遂げること。
そうした小さな積み重ねの中で、子どもは少しずつ成長していきます。
今回のティルダの場面も、特別なことではない、そんな日常の一つとして描きました。
上手くできなくても、何度も挑戦する。
そして、それを見守る側にも、すぐに手を出さず待つという役割がある。
アストリッドにとっても、ティルダにとっても、そんな何気ない時間の一つでした。




