ep.53 アストリッド その3
【前書き】
兄の背中を追いかけていた五歳の頃から三年。
王都で学校へ通うことが当たり前になっても、休みになれば西部へ帰る暮らしは変わりませんでした。
今回は、そんな八歳のアストリッドと、まだ幼い妹ティルダとの、王都での何気ない一日です。
三年も経つと、同じ道でも少し違って見える。
八歳になったアストリッドは、王都の学校へ通うようになっていた。
朝になれば鐘が鳴り、同じ時間に家を出て、同じ教室で授業を受ける。読み書きや計算を習い、昼休みには友達と庭を走り回り、夕方になればまた家へ帰る。西部では季節や天気に合わせて一日が流れていったけれど、王都では鐘の音が一日の区切りになっていて、最初こそ窮屈に感じたその暮らしにも、いつの間にか身体が慣れていた。
それでも、休みになれば父や兄と一緒に西部へ戻る。
川へ出れば網を干す手伝いをし、兄の後ろをついて石を投げ、魚を運ぶ荷車の後ろへ乗せてもらう。王都へ戻る頃には服の裾まで川の匂いが染みついていて、母に苦笑しながら着替えさせられるところまでが、いつもの休みだった。
だからアストリッドにとって、西部と王都は比べるものではなかった。
学校があるのは王都で、遊びたい場所は西部。
それだけの違いでしかない。
王都の家は、西部の家よりずっと大きかった。
大きいといっても豪華な屋敷ではない。表には普通の家と変わらない木戸があり、通りへ面した窓も質素なものだったが、中へ入れば土間が広く取られ、その奥には荷を一時的に置くための倉が続いている。西部から届いた魚を納める樽や木箱、縄や秤が整然と並び、朝早くから人の出入りが絶えなかった。
父は王都へ戻るたび、その土間で誰かと話をしていることが多かった。
西部の漁師が運んできた荷を確認し、王都の店へ卸す段取りを決め、ときには帳面を広げて数字を確かめる。その様子だけ見れば商人そのものだったが、翌日には何事もなかったように西部へ戻り、今度は網を引いているのだから、幼いアストリッドにはどちらが本当の父なのか分からなかった。
兄も同じだった。
十六歳になったベルントは、もう学校へ通う日より父と働く日の方が多い。
西部では漁師たちと一緒に船へ乗り、王都へ来れば魚屋や料理屋へ顔を出して荷を運ぶ。まだ子ども扱いされる年齢ではあるのだろうが、父の隣で話をしている姿はもう立派な働き手に見えた。
「アストリッド」
帰宅したアストリッドへ父が手を振る。
「今日はちゃんと勉強してきたか」
「したよ」
「本当か?」
「ほんと」
父は笑いながら帳面を閉じた。
「じゃあ荷物を置いたら、ティルダの相手をしてやってくれ」
「ティルダ?」
「朝からずっと待ってたぞ」
そう言われて家の奥へ顔を向けると、廊下の角から小さな顔がこちらを覗いていた。目が合った瞬間、慌てて引っ込む。そのまま足音だけがぱたぱたと近付いてきて、勢いよくアストリッドの腰へ抱きついた。
「おかえり、おねえちゃん!」
「ただいま」
頭を撫でると、ティルダは嬉しそうに笑う。五歳になった妹は、会うたびに少しずつ背が伸びている気がするものの、まだアストリッドの胸の辺りまでしかない。淡い色の髪には小さな飾り紐が結ばれていて、母が朝から整えてくれたのだろう。少し動いただけでその紐が揺れるのを、本人はずいぶん気に入っているようだった。
「きょうはね、お花もらったの」
そう言って胸元を見せる。小さな布で作られた花飾りが縫い付けられていて、確かに可愛らしい。
「似合ってる」
その一言だけでティルダは照れたように笑い、今度はアストリッドの手を引いた。
「こっち!」
荷物を置く間も待ちきれないらしい。廊下を歩く足取りまで弾んでいる。
部屋へ入ると、机の上には色の付いた布切れや木で作られた小さな人形が並んでいた。母が少しずつ作ってくれたものなのか、それとも市場で買ったものなのかは分からないが、どれも丁寧に並べられている。ティルダはその一つ一つを大事そうに持ち上げては、「これはね」と説明を始める。
人形には名前があり、小さな布には役目があるらしい。
話はあちこちへ飛ぶが、本人は全部つながっているつもりなのだろう。アストリッドは適当に相槌を打ちながら聞いていた。
ひと通り説明し終えると、ティルダは満足したように息をついた。
「こんどはおねえちゃん」
「私?」
「がっこうのおはなし」
「学校かあ」
そう言われても、今日は特別なことは何もなかった。
授業を受けて、友達と走り回って、教師に少し注意されて、それで終わりだ。
少し考えてから、「庭の木に石を当てた」と正直に言うと、ティルダは目を丸くした。
「なんで?」
「届くかなって」
「とどいた?」
「届いた。」
「おこられた?」
「怒られた。」
そこまで聞くと、ティルダは声を上げて笑った。
その笑い声を聞きつけたのか、母が廊下から顔を覗かせる。
「また石なんて投げたの?」
「ちょっとだけ」
「ちょっとでも駄目です」
呆れたように言われても、アストリッドはあまり反省していなかった。木があれば狙ってみたくなるし、少し高い枝へ当たると妙に嬉しい。それだけのことだった。
「西部でもやってるんでしょう」
「うん」
「だからって王都でやらないの」
母はため息をつきながら笑う。
その様子を見て、父まで肩を揺らしていた。
「まあ、そのうち落ち着くだろ」
「あなたがそう言うから困るんです」
家の中に笑い声が広がる。
アストリッドは少しだけ口を尖らせたが、自分でも悪いことをしたという気持ちは半分しかなかった。次はもっと細い枝を狙えば当たるかもしれない――そんなことを考えていると、ティルダがそっと袖を引いた。
「今度ね」
小さな声で、誰にも聞こえないように囁く。
「わたしもみてみたい」
アストリッドは少し笑って、「母さんには内緒だよ」とだけ答えた。
ティルダは何度も頷いた。
「うん」
「じゃあ少しだけ」
二人は揃って庭へ出た。午後の日差しは朝より柔らかく、庭の木は風に合わせて静かに葉を揺らしている。アストリッドは足元へ目を落とし、転がっている石を一つ拾い上げた。
庭の石は西部の川原ほど多くない。丸すぎるもの、小さすぎるものをいくつか見送り、握ったときにしっくりくる一つを選ぶ。掌の中で軽く転がし、重さを確かめるその仕草は、本人も気付かないうちにすっかり癖になっていた。
少し離れたところでは、ティルダが人形を抱えたまま目を輝かせている。
「どこねらうの?」
「いちばん上」
枝先を見上げる。風で少しだけ揺れる細い枝へ狙いを定め、腕を振った。石は真っ直ぐ飛び、乾いた音と一緒に枝を揺らす。葉が二、三枚、ひらひらと舞い落ちた。
「すごい!」
ティルダは嬉しそうに手を叩いた。自分が当てたわけでもないのに、本当に自分のことみたいに喜んでいる。
「もういっかい!」
アストリッドは笑いながら次の石を拾う。するとティルダは枝を見上げ、小さな指でさっきより細い枝を指差した。
「こんどはもっとほそいの」
「えぇ〜、むずかしいよ」
そう言いながらも、アストリッドはどこか楽しそうだった。
「できる?」
「やってみる」
少しだけ離れた枝を見上げる。さっきより細く、風に揺れてよく動く枝だ。狙いを定めて石を放つ。石は枝のすぐ脇を抜け、葉だけをかすめて庭へ落ちた。
「あっ、おしい」
「おしかった!」
ティルダまで本気で悔しそうな声を上げる。
「もうちょっとだったのに」
「そうなんだよ」
アストリッドは笑いながら肩をすくめた。
「ティルダもやる?」
そう聞くと、ティルダは人形をぎゅっと抱き締めたまま、ぶんぶんと首を横に振る。
「やらない」
「なんで?」
「おねえちゃんがやるの、みてる」
それだけで十分楽しいらしい。アストリッドは少し照れくさくなって笑い、もう一つ石を拾い上げた。
そのときだった。
「――アストリッド」
聞き慣れた声に振り返る。縁側には母が腕を組んで立っていた。いつから見ていたのか分からない。
「庭の木に石を投げないって、さっきも言いましたよね」
「……。」
「返事は?」
「……はい」
素直に返事はしたものの、視線だけはまだ枝の方へ向いている。その様子に母は呆れたようにため息をつき、ティルダは隣で声を押し殺しながら、くすくすと笑っていた。
【後書き】
王都は基本的に「誰もが暮らしていけること」を大切にしている都市です。
そのため極端な貧富の差はありませんが、それでも家業によって暮らしぶりには多少の違いがあります。
アストリッドの家は、西部で漁を行い、その魚を王都へ運んで卸す仕事をしています。漁師であり商人でもあるため、一般的な家庭より少し余裕があり、王都にも広めの家を持っています。
とはいえ、いわゆる貴族のような身分ではありません。
この世界には貴族制度そのものが存在せず、豊かな家でも「少し暮らしに余裕がある家」くらいの立ち位置です。
だから庭が少し広かったり、人形が少し多かったり、その程度の違いしかありません。
……もっとも、その庭で娘が木へ向かって石を投げ始めることまでは、父も母も想像していなかったのではないでしょうか。




