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ep.52 アストリッド その2

昼休みの雑談の中で、アストリッドは少しだけ昔のことを思い出していた。


まだ西部と王都を行き来していた頃。


特別教室も騎士になる話もずっと先で、朝になれば兄の背中を追いかけて川へと行っていた頃。


幼い日々の話。

西部の朝は早い。夜と朝の境目がまだ曖昧なうちから家の外では人の気配が動き、戸の開け閉めや濡れた縄を引く音、重い木箱を運ぶ低い掛け声が風に乗って村へ広がっていく。窓の隙間からは水と湿った土、それから魚の匂いが入り込み、アストリッドにとって朝は静かな時間ではなく、もう誰かが働き始めている時間だった。


目を開けると家の中は思ったより静かで、台所の方から鍋の蓋が触れ合う小さな音だけが聞こえてくる。


布団を抜け出してそちらを見ると祖母が火を見ていて、気配に気付いた祖母は手を止めるでもなく一度だけ振り返った。


「川行くなら何か羽織りなさい」


父も母も祖父も、もう外なのだろう。


アストリッドは返事だけすると急いで上着を引っ掛け、そのまま家を飛び出した。戸口を出た勢いのまま石段を二段飛ばしで降り、まだ眠そうな鶏の横をすり抜ける。朝の空気は思ったより冷たかったが、そんなことより先に川へ行きたくて、土の上を小さな足でぱたぱたと走った。


家々の間を抜けるあいだにも、村はもう動いていた。魚籠を並べる家、眠そうな顔で水を運ぶ子ども、先へ先へと川へ向かう大人たち。アストリッドはその列に混ざりたくて、何度も振り返りながら駆けた。


西部の大河は家から近い。


岸辺は近いのに、対岸はいつ見ても遠い。


岸辺へ出れば水の流れも、朝日を受けて揺れる波も見えるのに、途中から先は空気の色に溶けるみたいに曖昧になって、その先に何があるのかはよく分からなくなる。


大人たちは向こうを湿地と呼んで、亜人が住んでいるとも言った。けれど誰も詳しくは説明しない。船は途中までしか出ないし、当然向こうへは行かない。


理由は知らないが、父も兄も祖父も同じことを言うので、アストリッドの中では空が高いことや川が流れていることと同じくらい、最初からそういうものだった。


岸辺にはもう人が集まっていた。


船を押す者、網を確かめる者、荷を数える者、終わった仕事の話をする者。それぞれ違うことをしているのに、誰かが声を掛ければ自然と動きが繋がっていき、特別急いでいるわけでもないのに川の仕事全体が少しずつ進んでいく。


父はその少し後ろで人と話していた。


魚の量なのか、今日運ぶ荷の話なのかは分からない。ただ、誰かが父のところへ来て何か話し、父が頷くとまた別の方向へ散っていく。その様子は指示を出しているというより、流れの途中に父がいるように見えた。


兄はその仕事の手を少し止めて、浅瀬の近くで遊んでいた。


アストリッドより八つ上で、十三歳だった。学校へ通う年頃でも、朝のうちは大人たちの仕事に混じって川へ出ることがあったが、そのときの兄は、そういう年頃の子どもらしさよりも、もう少しだけ大人の側にいるように見えた。


しゃがみ込み、足元を見ながら石を拾っている。


近付くと、兄は返事の代わりのように手の中の石を見せた。


特別な石には見えなかった。少し丸く、握ればちゃんと重さがありそうで、川辺にいくらでも転がっている石と何が違うのか、アストリッドにはよく分からない。


それでも兄は他にも石がある中で拾っては戻し、拾っては戻しながら、その中から一つだけを選んでいる。大きすぎれば投げにくいのか、小さすぎれば軽すぎるのか、指先で重さを確かめ、掌の中で軽く転がし、何度か握り直してから、ようやく納得したみたいに持ち替えた。その顔は楽しそうで、子どもみたいに少しだけ口元が上がっている。


「なにしてるの?」


聞くと、兄は水面を見たまま短く答えた。


「魚獲り」


そう言って立ち上がる。


浅瀬の底には銀色の魚影がちらついていて、アストリッドにはそれがいると分かるだけだったが、兄はしばらく動かなかった。ただ魚を見るというより、水の流れごと見ているように視線を動かし、身体を少しだけ捻ると、大きく振りかぶることもなく石を放した。


石は低く飛び、水面で乾いた音と細い飛沫が散ったあと、少し離れた場所で銀色のものがひっくり返るように跳ねる。


兄はすぐに浅瀬へ入った。


逃げる前に魚を拾い上げ、片手で持ち直して戻ってくると、そのまま桶へ放り込む。魚の身体には少し傷が付いていたが、兄はそれを見て困るでもなく少し笑って、


「こっちは家用」


と言いながら、また次の石を探し始めた。


兄は魚が跳ねるたびに少しだけ目を細めた。うまくいったという顔はするのに慌てる様子はなく、次はどこだろうと探すみたいにすぐ水面へ視線を戻している。その横顔は仕事をしているというより、朝の時間そのものを楽しんでいるようにも見えた。


魚が跳ねれば少し笑い、外れても悔しそうにするより先に次を探し、浅瀬へ入って魚を拾って戻ると桶へ入れ、また石を選ぶ。その動きは手慣れているのに仕事みたいな堅さはなく、朝の時間を少しだけ面白くする遊びのようにも見えた。


「見えてた?」


兄はしゃがみ込みながら聞いてきた。


「向きを変えるところ」


正直、分からない。


魚はずっと泳いでいるようにしか見えなかったし、どれも同じように動いているように見えたけれど、兄には違ったらしい。その兄はもう次の石を探している。聞いても多分分からない気がして、アストリッドは黙って隣へしゃがみ込んだ。


兄が選んだような石を探した。丸くて、握りやすくて、少し重そうなやつを拾っては持ち、違う気がして戻し、もう一つ拾って兄の石と並べてみると、今度は似ている気がした。兄はそれを一瞬だけ見る。


「やってみる?」


笑いながら言われて、アストリッドは頷いた。金の髪が少し揺れる。


「うん」


兄は嬉しそうに頷き、少し浅い方を顎で示すと、自分はまた川を見る。


兄が石を投げるたび、少し離れた場所で魚が跳ね、その魚を兄は浅瀬へ入って拾い、桶へ放り込みながらまた水面へ目を戻していた。


アストリッドも石を握り、兄の真似をして投げてみるが、思ったより飛ばない。もう一度投げると今度は少し遠くへ行ったものの、魚のいる場所とは全然違うところへ落ちて、水面だけが小さく揺れた。


兄はそれを見て笑い、また仕留めた魚を拾う。


笑われたと思ったアストリッドは、口を尖らせながらもう一度石を探し、今度は少しだけ遠くを狙って腕を振った。

後書き


水切り遊びはしたことがあります。


平たい石を探して、なるべく遠くまで跳ねるように投げるやつです。うまくいくと少し嬉しいし、失敗しても次はもう少し良い石がある気がして、結局また足元を見て探し始める。今思うと、石選びの時間の方が長かった気もします。


ただ、魚を狙ったことはありません。


そもそも狙ったところで当たらなかったでしょうし、仮に当たってもその先どうするのか分かりません。


とはいえ、石を手に取って、重さを確かめて、少し投げ方を変えてみて、もう一回やる、という流れ自体は何となく覚えがあります。


アストリッドの兄もたぶんそんな感じだったのだと思います。


仕事の真似なのか遊びなのか、本人もそんなに分けていないような時間です。

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