ep.48 ルーカス その3
北部高原で亜人の親子を見かけてから、しばらくの時間が過ぎていました。
牧場ではいつものように馬が逃げ、学校では剣術や符術の授業があり、夕方になれば家族で食卓を囲む。
寒く、広く、少し不便で――けれど確かに穏やかな日々でした。
夕暮れの高原には、冷え始めた風が吹いていた。
陽はまだ沈み切っていない。西の空は赤く染まり、長く伸びた影が草原を覆っている。遠くでは白い山脈が夕陽を受けてぼんやりと赤く染まり、その麓へ続く森は黒い帯のように広がっていた。
牧場では、そろそろ家畜を囲いへ戻す時間だった。馬たちも普段なら落ち着き始める頃なのだが、その日はどこか様子がおかしかった。鼻を鳴らし、落ち着きなく首を振る馬が多い。柵際を意味もなく歩き回るものまでいる。
「……なんだ?」
ルーカスは干草束を抱えたまま眉をひそめた。
その時、甲高い嘶きが響く。
振り向けば、西側の囲いが半端に開き、栗毛の仔馬が飛び出していくところだった。
「あ、おい!」
まだ若い馬だった。最近ようやく人へ慣れ始めたばかりで、妙に臆病なところがある。少し驚くだけですぐ走り出す厄介な奴だった。
家の方から母の声が飛んでくる。
「今度は何ー!?」
「栗毛逃げた!」
「あー、またかい!」
呆れ半分の声だった。
父が戸口から顔を出す。
「西か?」
「うん!」
「なら追え」
それだけだった。
兄のエドガーが肩を竦める。
「今日は遠くまで行くなよ」
「兄貴じゃないんだから」
「生意気だな」
母は笑いながら手を振った。
「暗くなる前に戻ってきな!」
ルーカスは柵に掛かっていた手綱を掴み、そのまま高原へ駆け出した。
別に珍しいことではない。牧場では時々あることだったし、家族もルーカスなら追い付けると思っている。実際、ルーカスは馬の扱いに慣れていた。
だが、その日の仔馬は妙に落ち着きがなかった。
何度呼び掛けても止まらず、振り返ってはまた距離を離していく。まるで何かを恐れているようだった。
草を踏み分けながら進むうちに、気付けば牧場はかなり遠くなっていた。家々はもう小さな影にしか見えない。風の音ばかりが耳へ入る。
仔馬はようやく緩やかな斜面の辺りで足を止めた。白い息を荒く吐きながら、何度も耳を動かして周囲を気にしている。
「……いい加減にしろよ」
ルーカスは息を整え、ゆっくり近付いた。
こういう時に無理をすると余計逃げる。だから急がない。少しずつ距離を詰め、首筋へ手を伸ばす。仔馬が身を引く。だが逃げはしなかった。
低く声を掛けながら、慎重に手綱を通す。
捕まえ終わる頃には、空はかなり赤く染まっていた。
「遠すぎだろ……」
仔馬の首を軽く叩いた、その時だった。
遠くから馬の蹄の音が響いてくる。
ルーカスは顔を上げた。
数騎の騎馬が高原を横切っていく。騎士団だった。外套を翻し、長槍を背負ったまま、凄まじい速度で牧場地帯の方角へ走っていく。
ただ事ではない。
ルーカスが眉を寄せた直後、風に混じって低い咆哮のような音が聞こえた。
仔馬がびくりと震える。
胸の奥が妙にざわついた。
嫌な感じがする。
理由は分からない。
だが次の瞬間、牧場の方角で火が上がった。
夕焼けとは違う赤だった。
「……え?」
遅れて、人の叫び声が聞こえる。
馬の悲鳴。
何かが壊れる音。
そして再び響く、人ではない怒声。
ルーカスは反射的に走り出した。
仔馬を引いたまま、全力で高原を駆ける。冷たい風が肺へ刺さり、呼吸が焼けるように苦しい。それでも止まれなかった。
近付くほど音が増えていく。
木の砕ける音。暴れる馬の嘶き。怒鳴り声。咆哮。
牧場へ辿り着いた時には、既に騎士団が到着していた。
厩舎の一部が崩れている。逃げ惑った馬が柵を壊し、火の粉が夜になりかけた空へ舞っていた。
その中心で、巨大な灰色の影が暴れている。
長い体毛に覆われた大柄な亜人だった。
腕を振るうたびに木柵が砕ける。倒れた馬を踏み潰し、咆哮を上げながら厩舎そのものへ体当たりしていた。乾いた木材が割れ、屋根が崩れ、火の粉が吹き上がる。
まるで目に映るもの全てを憎んでいるようだった。
騎士たちが包囲している。
槍を突き込み、距離を取り、再び囲む。だが完全には止め切れていない。突き込まれた穂先が体毛へ沈み込んでも、亜人は怯むどころか怒声を上げて暴れ回っていた。
その時、地面に転がる槍が目に入った。
見慣れた槍だった。
擦り切れた握り。
長年使い込まれた黒い柄。
父の槍だった。
その少し先には、倒れた祖父の姿が見える。血に濡れた外套が土の上へ広がっていた。
「父さん!!」
ルーカスは駆け出そうとする。
だが、その瞬間、背後から強い力で身体を抱え込まれた。
「行くな!!」
騎士だった。
腕を胴へ回され、そのまま強引に引き倒される。
「離せ!!」
ルーカスは暴れた。地面を蹴り、腕を振り、無理やり前へ進もうとする。だが騎士は離さない。鎧越しの腕がさらに強く締まり、呼吸が詰まりそうになる。
「まだ危険だ!」
「離せって!!」
声が掠れる。
視界の向こうでは、亜人が再び咆哮を上げていた。
崩れた厩舎の下には別の人影も見える。
エドだった。
その近くには母の外套も落ちていた。
「エド!! 母さん!!」
喉が裂けるほど叫んでも、返事はない。
「見るな!」
騎士が怒鳴る。
だがルーカスはなおも暴れた。腕を振りほどこうとし、地面を蹴り、爪が割れそうになるほど土を掴む。それでも騎士の力はびくともしない。
仔馬が後ろで不安そうに鼻を鳴らしている。だから今は、ルーカスの方がよほど激しく暴れていた。押さえ込まれたまま、燃える牧場を見ることしかできない。
やがて騎士たちの槍が一斉に突き出される。
血飛沫が火の粉の中へ散った。巨体が揺れる。それでも亜人は止まらなかった。怒りだけで動いているようだった。
最後に大きく咆哮し、その巨体が崩れるように地面へ倒れ伏す。
重い音が響いた。
静かになった頃には、空はすっかり夜へ変わっていた。冷たい高原の風だけが、焼けた牧場を吹き抜けていた。
この世界では、亜人による被害そのものは決して珍しいものではありません。
村が襲われたとか、牧場が潰れたとか、そういう話自体は昔から各地にあります。
けれど、では皆が常に怯えて暮らしているのかというと、多分そうでもないのでしょう。
「どこかでは起きている」
「でも自分たちは大丈夫だろう」
そう思いながら、人は普段通りに生活しているのだと思います。
実際、そうでなければ毎日など過ごせませんしね。
遠くの災害や争いの話を聞きながら、それでも明日の仕事や食事のことを考えて生きていく。
案外、人間というのは昔からそういうものなのかもしれません。




