ep.47 ルーカス その2
北部高原で暮らす少年ルーカス。
牧場の仕事を手伝いながら幼年学校へ通う彼の日常は、寒さと家畜と風の匂いに満ちていました。
学校帰りには森の向こうに亜人の親子を見かけ、不思議そうに見つめ合ったその日の夜。
今回は、そんなルーカスと家族の食卓の話です。
夕食の頃には、外はすっかり暗くなっていた。
北部高原の夜は早い。
窓の外では風が鳴り、時折、壁を叩くような音が響いている。昼間の冷気がそのまま夜へ流れ込み、暖炉の火がなければ家の中でも指先が痛くなるほどだった。
ルーカスが家へ戻ると、扉を開けた瞬間に温かな空気が顔へ当たった。
豆を煮る匂い。干し肉の塩気。焼いた黒パンの香ばしい匂い。暖炉の上では大鍋がぐつぐつと音を立てている。
「遅かったじゃない」
母が鍋を掻き回しながら言った。
「また誰か木剣で殴り合いでもしてた?」
「違う」
「じゃあ帰り道で馬でも追いかけてた?」
「追いかけてない」
外套を脱ぎながら答える。
暖炉の熱で、冷えた頬が少しだけ熱くなった。
父は暖炉の横で槍の穂先を布で磨いている。長槍は壁に立て掛けられていた。使い込まれた木の柄は黒ずみ、握る位置だけが擦れて色を失っている。
祖父は既に席に着き、無言で黒パンを齧っていた。
兄は母の横で木椀を並べている。
「今日は肉入れてるからね。文句言わないの」
「誰も言ってないって」
「あんたは言う前の顔するのよ」
兄が笑う。
父は特に口を挟まない。だが、少しだけ口元が動いた気がした。
食卓へ並んだのは、固い黒パンと豆の煮込みだった。
豆と芋、それに少しの干し肉。肉の量は多くないが、その分だけ匂いは強い。冬前の食事らしい内容だった。
「そういえば灰色の仔馬、また暴れたんだって?」
母が椀へスープを注ぎながら言う。
「ああ」
兄が苦笑する。
「朝から機嫌悪くてさ。親父の長靴蹴り飛ばしてた」
「ほらやっぱり危ないじゃない」
「当たってねえ」
父が短く返す。
「当たってなくても危ないのよ。あの馬、人見るとすぐ脚上げるんだから」
「耳見りゃ分かる」
祖父がぼそりと言った。
「ああ、後ろ向く前に耳動くな」
兄が頷く。
ルーカスは黙ってスープを飲んでいた。
灰色の若馬は牧場でも特に気性が荒かった。
人が近付けば威嚇するし、気に入らなければすぐ蹴る。父ですら油断せずに扱うほどだ。
だが、何故かルーカスにはあまり暴れない。
朝も囲いから逃げかけた時、首を押さえて向きを変えたのはルーカスだった。
「でもルーカスには大人しいのよねえ」
母が呆れたように言う。
「お前基準は当てにならん」
兄が笑う。
「今日も普通に首触ってたし」
「機嫌良かった」
「お前の『機嫌良かった』は信用ならないのよ」
母がため息をつく。
父は特に何も言わなかった。
だが否定もしない。
暖炉の火がぱちりと爆ぜる。
外では風が強くなっていた。
「西の牧場んとこ、また柵壊れたんだって」
母はそのまま別の話を始める。
「昨日の風で倒れたらしいわよ。斜面側の古いやつ」
「またか」
兄がパンを千切った。
「去年も壊れてなかった?」
「壊れてた。あそこの旦那、毎回『まだ大丈夫』って言うんだけど結局壊れるのよねえ」
「直すの面倒なんだろ」
「馬逃げた方が面倒でしょうに」
父も祖父も黙ったままだ。だが聞いていないわけではない。
母も返事が少ないことなど気にしていなかった。
「あと南側の放牧地で仔羊産まれたんだって。まだ雪降る前で良かったわよねえ」
「今年ちょっと寒いしな」
「そうなのよ。今年絶対冬早いわよ。風がもう違うもの」
兄が適度に相槌を打つ。
母は気分良さそうに話し続ける。その間、父は静かにスープを飲み、祖父は無言でパンを千切っていた。ルーカスも同じように食べる。
この家では、それが普通だった。
しばらくして、ルーカスがぽつりと言った。
「……今日、帰りに亜人見た」
母の手が止まる。
「近かった?」
「緩衝地帯の向こう」
「どこの辺だ」
父が顔を上げた。
短い問いだった。
「北の牧場の外れ。古い柵あるだろ」
「ああ」
「その北東側。森の手前」
「数は」
「二体。大きいのと小さいの。親子だと思う」
父は少し考えるように黙る。
祖父が低い声で言った。
「五百は離れてたか」
「そのくらい」
兄がパンを千切りながら口を挟む。
「じゃあ見張り台からも見えてるんじゃない?」
「見えてるだろうな」
父が頷く。
「他にも子供いたなら、誰かしら詰め所には話してる」
「明日巡回増えるかもねえ……」
母がため息混じりに言った。
「冬前って増えるのよねえ。去年もそうだったし」
外では風が強く唸っていた。壁の向こうを、高原の夜気が吹き抜けていく。
「で、ルーカス」
兄が少し笑いながら言う。
「前出たんだろ」
「……ちょっと」
「やっぱりな」
母がすぐに口を挟んだ。
「やっぱりな、じゃないのよ。危ないでしょあんた」
「近付いてない」
「そういう問題じゃないの」
兄が笑いを堪える。
父は黙ったままスープを飲んでいたが、不意にぽつりと言った。
「まあ、見る歳だ」
母が呆れたように肩を落とす。
「男ってほんとそう……」
祖父が小さく鼻を鳴らした。
その音だけで、少し笑ったのだと分かる。
ルーカスは黒パンを齧りながら、暖炉の火を見ていた。
亜人の子供は、最後までこちらを見ていた。
灰色の長い毛並み。低い唸り声。親の後ろへ半分隠れる姿。
「何してた」
祖父が不意に聞く。
「え?」
「亜人だ」
ルーカスは少し考える。
窓の外では風が鳴っていた。高原の夜の音だった。
「……見てた」
それだけだった。
威嚇するでもなく、近付くでもなく。ただ、森の縁に立ち、人間たちを見ていた。
祖父はそれ以上何も言わなかった。父も黙っている。
暖炉の薪が崩れ、赤い火の粉がふわりと舞った。
母だけが、小さく息を吐く。
「何もなきゃいいけどねえ……」
誰も返事はしなかった。
外では風が吹き続けている。
世界の果てへ続く高原を、冷たい夜風が静かに渡っていた。
牧場の馬というのは、案外気性に差があるものらしいです。
大人しく人に従う馬もいれば、やたら噛むもの、蹴るもの、落ち着きなく暴れるものもいるのだとか。
特に若い馬は力も強く、まだ周囲との距離感が上手く掴めていないので、人間側もかなり気を遣うそうです。
北部高原のような土地では、馬はただの家畜ではありません。
生活の一部であり、仕事道具であり、家族の財産でもあります。
だからこそ、人と馬は毎日のように関わり続けるのでしょう。
……もっとも、毎日顔を合わせていても、結局最後まで分かり合えない生き物というのはいるのかもしれませんが。




