ep.46 ルーカス その1
王都北部に広がる寒冷な高原地帯。
牧畜によって支えられるその土地では、子供たちもまた幼い頃から働き、学び、生きていた。
後に王都でも屈指の騎士となるルーカスも、その一人である。
これは、まだ彼が八歳だった頃。
世界の果てと呼ばれる山脈の麓で、人ならざる者たちを遠くに見ていた時代の話。
王都と呼ばれるこの都市の北部には、広大な高原が広がっていた。
その先には遥かなる山脈が連なり、人々はそこを世界の果てと呼んでいる。
高原から見上げてもなお、山々は空の果てまで続いているように見えた。晴れた日には白く染まった峰々が陽光を弾いて輝き、時折、そのさらに上空を横切る影が見えることもある。
だから人々は語るのだ。
山の向こうには、鳥たちの国があるのだろう――と。
北部高原は寒冷な土地だった。
冬になれば雪が積もり、春先でも朝には霜が降りる。痩せた土地は穀物栽培には向かず、王都周辺のような豊かな農地は存在しない。
その代わり、この地では古くから牧畜が盛んだった。
羊や山羊、そして馬。
特に高原で育つ馬は足腰が強く、騎士団にも多く買い上げられている。
朝早くから家畜の鳴き声が響き、人々は草を食む群れを追う。子供たちもまた、幼い頃から家の仕事を手伝いながら育っていく。
ここではそれが当たり前だった。
「ルーカス! そっち頼むぞ!」
「うん」
短く返事をして、少年は柵へ体を預けた。
まだ八歳になったばかりだが、ルーカスは同年代の子供より頭一つ大きかった。日に焼けた肌に、癖の少ない焦げ茶色の髪。厚手の服の上からでも分かるほど体つきはしっかりしている。
逃げようとしていた若い馬の首を押さえ込み、ぐい、と向きを変える。
暴れた拍子に泥が跳ねたが、ルーカスは気にした様子もない。
「相変わらず力あるな、お前」
近くにいた大人が感心したように笑った。
「……このくらいなら普通」
「普通じゃねえよ」
そう言われても、ルーカスにはよく分からなかった。
家では父も兄も同じように働いている。だから自分もできて当然だと思っていたのだ。
馬を囲いへ戻し終える頃には、空気も少し明るくなってきていた。
遠くの山脈は今日も白い。
冷たい風が高原を吹き抜け、草を揺らしていく。
「学校遅れるぞー!」
家の方から母の声が飛んできた。
「今行く!」
ルーカスは柵に掛けてあった鞄を掴み、小走りで家へ向かう。
朝の仕事を終えてから幼年学校へ通うのも、この辺りでは珍しいことではない。
学校には牧畜農家の子供が多かった。
皆、朝は仕事をしてから来るし、季節によっては休む者もいる。冬場になると逆に出席する子供が増えることさえあった。
幼年学校では読み書きや算学の他に、剣術や符術も教えられている。
この土地では、生きるために必要だからだ。
亜人による被害は王都東部ほど多くない。
だが、その代わり一度何かが起きれば被害は大きかった。
人が少ない。
助けが来るまで時間が掛かる。
だからこそ、自分の家は自分で守るしかないのである。
ルーカスは家の扉を開け、乱暴に顔を洗った。
冷水が刺すように冷たい。
「ちゃんと拭け。風邪ひくぞ」
「大丈夫」
パンを咥え、厚手の外套を羽織る。
そのまま外へ出ると、既に近所の子供たちが道を歩いていた。
皆、長靴を履き、手には木剣や筆記板を抱えている。
「ルーカス!」
「今日は符術あるらしいぞ!」
「マジか」
少しだけ、ルーカスの足が速くなった。
幼年学校は村の中央近くに建っている。
石造りというほど立派なものではないが、北風を避けられるよう厚い木材で組まれた建物で、子供たちはそこで読み書きや算学を学んでいた。
剣術や符術の授業がある日は、皆どこか落ち着きがない。
特に符術は人気だった。
紙に描いた紋様が光り、目に見えて力を発する様子は、子供たちにとって単純に格好良かったのである。
そして午後の授業が終わる頃には、空は薄く茜色に染まり始めていた。
北部高原の日暮れは早い。
特に山脈へ近いこの辺りでは、陽が傾くと急激に冷え込む。昼間に解けた霜が、夕方にはまた凍り始めることさえあった。
「今日は剣術きつかったなあ……」
「お前サボってただろ」
「バレた?」
笑いながら、子供たちが土の道を歩いていく。
木剣を肩に担ぎ、筆記板を抱え、明日の宿題がどうだの、どこの家の仔馬が逃げただの、そんな話をしながら帰るのがいつものことだった。
道の両脇には短い草が広がっている。
その先には、広く切り拓かれた草地が続いていた。
さらに向こう。
林と森が、山脈の方角まで黒く連なっている。
北部高原では、森をそのまま放置することは少ない。
亜人が人里へ近付きすぎないよう、村や牧場の周囲は広く木々を切り払ってあるのだ。
五百メートルほどはあるだろうか。
草地だけが続くその空間は、人間たちにとって境界線のようなものだった。
その時だった。
「あ」
前を歩いていた子供が足を止める。
皆の視線が同じ方向へ向く。
緩衝地帯の向こう。
林の影に、何かが立っていた。
最初は岩かと思った。
だが、それはゆっくりと動く。
「……亜人だ」
誰かが小さく呟いた。
大きかった。
人間の倍以上はある。
灰色がかった長い体毛が全身を覆い、肩には獣皮のようなものを掛けている。太い腕は木の幹のようで、立っているだけで妙な圧迫感があった。
その隣には、一回り小さな影もいる。
子供だ。
「親子か?」
「多分……」
ざわ、と空気が揺れる。
だが、逃げ出す者はいなかった。
この辺りでは珍しくはないからだ。
亜人は時折こうして森の縁まで現れる。
人間の村や牧場を遠くから眺め、しばらくするとまた森へ帰っていく。
もちろん、それだけで終わらないこともある。
家畜が襲われたこともあるし、冬場には村そのものが壊滅した話だって聞いたことがあった。
だから大人たちは警戒を怠らない。
子供だけで森へ近付くな、と何度も言われている。
けれど今、向こうの亜人は何をするでもなかった。
ただ静かにこちらを見ている。
子供の亜人が、小さく喉を鳴らした。
低く、唸るような声。
親らしき大柄な亜人が短く返す。
言葉なのかどうか、ルーカスには分からなかった。
「今日は近いな……」
「父ちゃん呼んだ方がいいか?」
不安そうに話す友人たちの横で、ルーカスは少しだけ前へ出る。
別に理由はない。
ただ、見ていたかった。
亜人は嫌いではなかった。
もちろん怖くないわけではない。
もし暴れれば、大人でも敵わないことくらい知っている。
実際、冬に襲われた牧場の話も聞いたことがある。
だが、こうして遠くから見ている分には、巨大な獣のようでもあり、どこか人間にも似ているように思えた。
特に子供の方だ。
親の後ろに半分隠れながら、こちらを見ている。
その様子は、初めて学校へ来た頃の小さな子供たちと、あまり変わらない気がした。
不意に、子供の亜人と目が合った。
向こうが少しだけ身を引く。
ルーカスは何となく、手を上げかけ――
「おい、ルーカス!」
後ろから強く腕を引かれた。
「前出んなって!」
友人が顔を青くしている。
ルーカスは「ああ」とだけ返し、再び森へ目を向けた。
その間に、亜人の親は森の方へ体を向けていた。
長い体毛が風に揺れる。
子供の亜人もそれに続き、二つの大きな影は静かに林の奥へ消えていった。
しばらく誰も喋らなかった。
冷たい風だけが、高原を吹き抜けていく。
「……帰るか」
誰かがそう言って、ようやく子供たちは歩き出す。
ルーカスは最後にもう一度だけ森の方を見た。
黒い林の向こうには、さらに北へ続く山脈がある。
世界の果てと呼ばれる場所。
そして、その麓には人ではない者たちが暮らしている。
ルーカスは、まだそのことをよく知らなかった。
北部高原のさらに先に連なる山脈は、人々から世界の果てと呼ばれています。
実際、高原から見上げてもなお遥か高く、近付くほど寒さと険しさを増していくその姿は、まるで人を拒む壁のようです。
だから、この時代の人々にとって山脈とは越えるものではありません。
遠くから眺めるものです。
その向こうに神々の国がある。
鳥たちの国がある。
そんな話はされていますが、「では確かめに行こう」と考える者はほとんどいません。
危険だからです。
帰ってこられないかもしれないからです。
ですが、それでも時折現れるのでしょう。
危険だと分かっていてなお、先へ進もうとする者が。
山の向こうを見たいと思ってしまう者が。
この世界ではまだそんな余裕はないでしょうが、人という種族は案外、そういう者たちによって世界を広げていくのかもしれません。




