ep.45 アルフレッド その5
東部集落襲撃事件から、およそ十年。
王都では今も外敵との戦いが続き、騎士団は壁の外へ赴き、符術は少しずつ発展を重ねていた。
失われた命が忘れられることはない。けれど人は立ち止まり続けることもできず、それぞれの形で日々を積み重ねていく。
これは、ある符術士の家族が「あの日」の先で選び取った現在の話。
あれから十年ほどの時間が過ぎていた。
王都は変わらず外敵に晒され、騎士団は変わらず壁の外へ出ていく。失われる命も、帰らない者の名も、王都では珍しいものではない。
その一方で、符術は発展を続けている。
近年発見された補助紋の研究は、術式そのものの在り方を変えつつあった。主要となる紋様に対し、新たな補助紋を組み合わせることで、術の性質そのものを変化させる構成。まだ研究段階にありながらも、それはすでに実用の域へ踏み込み始めている。
符術はより複雑に、より精密になった。
そして、それを扱う符術士という存在もまた、以前とは異なる重みを持ち始めていた。
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その日のエリーナ教室では、乾いた紙の匂いと微かな燐光が漂っていた。
石造りの室内に並ぶ机。その上には呪符が広げられ、共鳴を終えたもの、途中のもの、分類された研究資料までが雑然と積まれている。
「また増えてる……」
アストリッドが呆れたように言った。
視線の先では、アルフレッドが机に向かったまま紙をめくっている。周囲には同じ主要紋を使った呪符が何枚も並んでいた。違うのは、その周囲に添えられた補助紋の構成だけだ。
「比較用」
顔も上げずに答える。
「いや、量がおかしいって言ってるの」
「必要なんだよ。使ってみないと分かんないし」
エミリアが後ろから紙束を覗き込み、眉を寄せた。
「全部同じに見えるんだけど」
「違うよ」
答えたのはソフィアだった。
小柄な少女は紙を一枚取り上げ、指先で補助紋を示す。
「こっちは的を分散させてて、こっちは弾速を速くしてる。たぶん」
「うん。あとこっちは射程を伸ばしてる」
アルフレッドは軽く頷きながら別の呪符を取り上げる。
「その代わり、ちょっと威力落ちるけど」
「全部強くはできないの?」
エミリアが不満そうに言う。
「できたらみんなそうしてるよ」
アルフレッドは苦笑した。
「結局どっか削らないと駄目なんだよね」
エミリアは「ふーん」と唸りながら呪符を裏返した。
「でも、そこまで分けて使うものなの?」
「使うよ」
アルフレッドは呪符を並べ替える。
「遠いなら速い方がいいし、数いるなら散らした方がいいし」
「うーん……」
エミリアは首を傾げた。
「結局、近づかれたら終わりじゃない?」
「だからエミリアがいるんでしょ?」
アルフレッドはあっさり言った。
エミリアは数秒黙り込み、それから微妙な顔をする。
「……なんか誤魔化された気がする」
横でアストリッドが吹き出した。
「いやでも間違ってないでしょ、それ」
「褒められてるのか雑に扱われてるのか分かんないんだけど」
「両方じゃない?」
「そうかなぁ……」
憮然とするエミリアに、教室の空気が少しだけ緩む。
少し離れた場所では、ルーカスが黙々と槍を手入れしていた。騒ぎには加わらないが、ときおりこちらへ視線だけ向けている。
騎士団というより、研究室に近い空気だった。
実際、アルフレッドの立場は学生だけではない。認定符術士として補助紋研究にも参加し、王都の研究機関にも出入りしている。
それに加えて、特別教室としての訓練。ソフィアへの指導。
忙しくない日など、ほとんど存在しなかった。
それでもアルフレッドは机に向かい続ける。
紙を並べ、構成を変え、結果を確かめる。
失敗した呪符が積み重なっていく。
だが、その手は止まらない。
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その日の夕暮れ、王都の教会には薄い霧が降りていた。
丘陵地を覆う白い靄は、沈みかけた陽光を曖昧に拡散し、墓地全体をぼやけた輪郭の中へ沈めている。湿った石畳には昼間の冷気が残り、並ぶ墓標の隙間では名も知らぬ草が風に揺れていた。遠くで鐘の音が一度だけ鳴る。低く、長い音だった。
アルフレッドはその中を歩いていた。
隣にはラティシアがいる。十年前、中等部へ上がったばかりだった姉は、今では教会付属図書館の司書として働いていた。柔らかな物腰は昔から変わらないが、その静けさは年月によって磨かれたものだった。感情を見せないのではなく、見せ方を知っている静けさだと、アルフレッドは時々思う。
二人は墓地の奥、大きな慰霊碑の前で足を止めた。
騎士団殉職者慰霊碑。
王都を守る中で命を落とした騎士や符術士、その協力者たちの名が刻まれている。古い名前は風雨によって輪郭を削られ、新しい名前だけがまだ鋭い。十年という時間は長いようで短く、石碑の中ではアルヴィンの名も、すでに周囲へ馴染み始めていた。
アルフレッドはゆっくりと手を伸ばし、その文字を指先でなぞる。
石は冷たかった。
それ以上の感触は返ってこない。ただ、その冷たさだけが妙に現実的で、指先に静かに残る。
しばらく誰も口を開かなかった。風が吹くたび霧が形を変え、墓標の影が現れては消えていく。王都の喧騒はここまでは届かず、聞こえるのは遠い鐘の余韻と、草を揺らす風の音だけだった。
「母さんは?」
アルフレッドが石碑を見たまま訊く。
「今日は来ないの?」
ラティシアは少しだけ考えるような間を置いてから答えた。
「自室よ。研究室。朝から篭もってるわ。補助紋の資料整理だって」
その言葉に、アルフレッドは小さく苦笑する。
「あー……いつもの」
「昔の同僚も来るらしいしね」
ラティシアもわずかに笑った。
「たぶん、ああしてる方が落ち着くのよ」
アルフレッドは何も言わなかった。その意味を説明される必要はない。ラヴィニアは昔からそういう人だった。感情を外へ逃がす代わりに、紙を揃え、記録を書き残し、術式を整理する。手を動かし続けることで、自分を支えている人だ。
十年前、父の死を告げられたあの日も、ラヴィニアは泣き崩れなかった。机の上の書類を整え、最後まで話を聞き、騎士を見送ってから、ようやく誰にも届かない声でアルヴィンの名を呼んだ。その光景をアルフレッドは知らない。だが今なら、何となく想像できる気がしていた。
アルフレッドはもう一度、父の名前を指でなぞった。
自分の手は、あの頃よりずっと大きくなっている。新聞を読む姉の横で、机につま先立ちしていた九歳の子供ではない。認定符術士として研究機関へ出入りし、補助紋の研究にも関わっている。特別学級ではソフィアの指導役まで任されるようになった。
それでも、ここへ来ると自分の中の何かは十年前のままだった。
「……もっと、できること増えると思うんだ」
ぽつりと零した声は、霧の中へ静かに溶けていく。
「補助紋もまだ研究途中だし。符術、これからもっと変わるよ」
アルフレッドは視線を石碑へ向けたまま続けた。
「俺もさ、ちゃんと使えるようになりたい」
少しだけ言葉を探すような間が空く。
「誰か守れるくらいには」
ラティシアはすぐには返事をしなかった。ただ隣で静かに息を吐き、その白さが冷えた空気に溶けていく。
「でも――」
やがて落ちた声は穏やかだった。
責めるようでも、否定するようでもない。ただ、姉として自然に零れた願いのような響きだった。
「死んではだめよ」
アルフレッドは答えない。
父は誰かを守って死んだ。その事実を誇らしいと思う自分がいる。同時に、どうして死ななければならなかったのかと納得できない自分もいる。どちらか片方だけではなく、その両方を抱えたまま、ここまで来てしまった。
だから返す言葉が見つからなかった。
ただ石碑に触れたまま、小さく頷く。
遠くで再び鐘が鳴った。
霧に包まれた墓地は静かだった。だが王都は今も動き続けている。誰かが外へ出て、誰かが帰らず、誰かがその名前を書き残す。そしてまた別の誰かが、その続きを選び取っていく。
そうやって、この都市は続いてきたのだ。
大きな都市であっても、小さな集落であっても、誰かにとって人生が変わるような出来事のあとに、翌朝は普通にやってきます。店が開き、人が働き、子供たちは学校へ行く。
世界の側は、案外あっさりと昨日の続きを始めてしまう。
けれど、その「変わらなさ」の中で、人の方は少しずつ変わっていくのだと思います。
同じ景色を見ていても、昨日までとは少し違う選択をするようになる。違う道へ進む。あるいは、何かを受け継いでいく。
王都という都市もまた、そういう場所です。




