ep.43 アルフレッド その2
塔の研究室ではなく、自宅の一室で研究を続けるラヴィニア。
描かれた模様――やがて紋様と呼ばれるそれは、すでに数知れず。
だが、その多くは、いまだ成果に結びついてはいない。
それでも、ほんのわずかな発見と、わずかな希望を手に、彼女は今日も描き続ける。
のちに符術と呼ばれることになるこの技術は、いま、こうした黎明の中にあった。
王都のとあるアパートの一室――今は研究室として使われているその部屋に、紙を擦る乾いた音が響く。
静かな部屋では、その程度の音でも妙に主張してくる。隠れる気がないのか、単に隠れきれないだけなのかは分からないが、少なくとも遠慮はしていない音だった。
机の上には、同じような紙が何枚も並べられている。
描かれているのは、どれも似ているようで微妙に異なる模様。
似ている、という認識自体がどこまで正しいのかはさておき、少なくとも“同じものではない”という点だけは確かだった。
そしてその違いが、意味のある差なのか、ただの誤差なのかは――まだ誰にも分からない。
ラヴィニアは一枚を手に取り、一気に模様――彼らが紋様と呼ぶようになったそれ――を描き上げる。
線に迷いはない。迷った線は、それだけで外れになる可能性が高いからだ。
正確さと正解が一致する保証はないが、少なくとも不正確さは遠回りになる。
描き終え、静かに息を整える。
整えたところで結果が変わるわけではないが、やらない理由もない。
意味があるかどうかと、やるかどうかは、必ずしも一致しない。
わずかな間。
紙に描かれた紋様を、ラヴィニアは静かに見つめていた。
経過を見守る瞳には、諦観と、そして微かな期待。
この二つは両立しないようでいて、こういう場面では妙に馴染む。
どちらかが欠けたとき、それはたぶん「やめるとき」だ。
だが――何も起こらない。
共鳴の兆しはない。
光らない。それだけで十分だった。
「……だめ、ね」
小さく呟き、紙を脇へと避ける。
言葉にしても結果は変わらないが、言わずに済ませるほど軽くもない。
同じように“共鳴しなかった”紙は、すでに何百枚と積み重なっていた。
積み上がる速度だけ見れば順調だが、内容が伴っているかどうかは別問題だ。
数というのは、時々、成果のふりをする。
机の端には記録用の紙。
紋様の形状、出典、試行時刻、結果――几帳面な字が隙間なく並んでいる。
ここだけ見れば、すべてが順調に進んでいるようにも見える。見えるだけだが。
ラヴィニアはペンを取り、淡々と書き加えた。
「水の祠由来の紋様……共鳴せず」
わずかに思案し、ペン先が止まる。
書くことは決まっているのに、書き終えたあとの余白の方が気になる、そんな止まり方だった。
三ヶ月前に見つかった、あの古い祠。
崩れかけてはいたが、刻まれていた紋様は比較的形を保っていた。
少なくとも、写し取る際に“想像で補う”必要がない程度には。
――だからこそ、期待していた。
根拠のある期待は、外れたときに音を立てる。
今回は、わりとしっかり響いている方だった。
静かに息を吐く。
「……どこかが違うのかしら」
紙に描かれた紋様へと視線を落とす。
線の重なり、折り返し、配置。
写しは正確なはずだが――それでも、共鳴しない。
正確であることと、正しいことは、どうやら別の概念らしい。
「それとも……これは、そもそも外れ?」
小さく呟く。
可能性としては十分にあるが、認めるには少し早い気もする。根拠は特にない。
机の端に積まれた紙へと手を伸ばす。
これまでに共鳴した、数少ない紋様。
片手で足りる程度のそれらを並べ、見比べる。
少ないという事実は変わらないが、ゼロではない、という一点だけが支えになっている。
人間は案外、その一点で粘れる。
「……何か、共通点があるはず」
線の流れを目でなぞる。
意識して探すと見つからず、何気なく見たときに限って見える――そういう類のものかもしれない。
厄介だが、否定もできない。
「ほんの少しでも、手掛かりが――」
――コン、コン。
控えめな音がして、扉が開いた。
思考の流れに、妙に都合よく割り込んでくる音だった。狙ってできるものではない。
「おかあさん」
顔を上げると、扉の隙間から小さな影が覗いている。
「ラティシア。どうしたの?」
「……ううん」
小さく首を振る。
用があるのかないのか、本人にもまだ決まっていない様子だ。
けれどすぐには入ってこない。
扉のところで少しだけ立ち止まり、部屋の中を見回している。
見慣れているはずの光景でも、入る理由が曖昧だと距離ができる。そういうものだ。
ラヴィニアは手を止め、やわらかく声をかけた。
「どうぞ、入っていいわよ」
その言葉に手を引かれたように、ラティシアはとことこと中へ入ってくる。
きっかけさえあれば動ける、というのは年齢の問題だけでもない。
机の上を覗き込み、並べられた紙や道具をしばらく黙って見つめる。
何かを考えているようで、でも、ただそこにいるだけのようでもあった。
どちらでもいいのだろう、とラヴィニアは思う。
やがて、ラヴィニアのそばまで来て――
少しだけ間を置いてから、顔を上げる。
言葉を選んでいる、というより、言う理由を探しているような間だった。
「おなか、さわってもいい?」
ラヴィニアはふっと笑みを浮かべ、手を止めた。
なるほど、と内心で一つ納得する。そこに落ち着いたか、という意味で。
「ええ、いいわよ」
ラティシアがそっと彼女の腹に手を当てる。
まだ大きくはないが、そこに確かに命がある。
分かるかどうかと、あるかどうかは、別の話だ。
「うごくの?」
「まだね。もう少ししたら、分かるようになるわ」
「ふうん……」
しばらく、じっとしたまま動かない。
触れているというより、確かめているような静けさだった。
やがて顔を上げて、ふと思い出したように言った。
「おとうさんは、おしごと?」
ラヴィニアの手が、ほんのわずかに止まる。
止まったこと自体は、たぶん誰にも分からない程度のものだった。
すぐに、何事もなかったように微笑んだ。
「ええ。お仕事よ」
「どこ?」
「少し遠くでね」
遠い、という言葉は便利だ。距離にも、時間にも、状況にも使える。
便利な言葉は、大抵あまり良くない場面でよく使われる。
ラティシアはそれ以上深くは聞かず、こくりと頷いた。
納得したというより、納得することにした、という頷き方だった。
「すごいおしごと?」
「……ええ、そうね」
ほんの一瞬だけ言葉を選び、ラヴィニアは答える。
正確さよりも、適切さを優先した選び方だった。
「大事なお仕事よ」
ラティシアは満足したようにもう一度頷き、手を離した。
「はやくかえってくるといいね」
「……そうね」
柔らかく返しながら、ラヴィニアは机の上の紙へと視線を戻す。
並べられた紋様の列。
その一つ一つが、まだ完全ではない証のようにそこにある。
あるいは――まだ終わっていない、というだけのことかもしれない。
ラティシアは、この時点ではまだ子どもですが、現在は図書館の司書として働いています。
符術への理解は決して低くなかったものの、彼女自身は符術士としての道を選びませんでした。
覚えていることと、それを使い続けることは、やはり少し違うのでしょう。
とはいえ、この頃からすでに、彼女の在り方はあまり変わっていないように思います。
相手を受け入れて、きちんと見て、必要な距離で関わる。
派手ではありませんが、そういう関係を自然に保てる人は、案外少ないものです。
たぶんこれからも、彼女は変わらず“姉”であり続けるのだろうと思います。




