ep.42 アルフレッド その1
この話は、後に「符術」と呼ばれるものが、まだ名前すら持たなかった頃の記録である。
始まりは、ごく些細な出来事だった。
誰もそれが何であるか分からず、
ただ一つだけ確かなのは――それが、魔術ではなかったということ。
これは、その“最初の一歩”に関わった人々の、断片的な記録である。
魔獣の襲撃は、王都に大きな爪痕を残した。
南の城壁は崩れ、幾重にも張り巡らされていた防衛線は破られた。王都圏内の防衛を担っていた騎士団は半壊し、強大な力を持つ魔術士たちもまた、その多くが帰らなかった。
問題は被害の規模ではない。
それが「もう一度起きた時にどうなるか」が、誰にも分からないことだった。
辛うじて生き延びた王都は、混乱の中にあった。失われた戦力、空白となった防衛、そして何より――「次に来た時、どうするのか」。その答えを、誰も持っていなかった。
そんな折のことだった。
王都の外れ、復旧もままならない一角で、小さな騒ぎが起きる。
「燃えた……?」
駆けつけた者たちの前には、焼け焦げた机と紙の残骸。
火は既に消えていたが、床と壁には慌てて叩き消した跡が残っている。
燃え広がらなかったのは、運が良かったからか。
あるいは、燃え方が妙だったのか。
どちらにしても、“普通の火事”ではなかった。
「絵を、描いてただけなんだ」
震えた声で、年嵩の少年が言う。
「弟が……絵の具で、いつもみたいに落書きをしてて。そしたら、一瞬だけ光って……なんだろうって思って見てるうちに、急に燃え出したんだ」
説明としては曖昧だが、妙に余計な部分がない。
理解していない人間の言葉は、往々にしてこういう形になる。
両親もまた動揺していたが、すぐに一つの可能性が浮かぶ――魔術。
この王都において、それは決して珍しいものではない。だが同時に、誰にでも起こるものでもなかった。
報告は術の塔へと上げられる。
「……違うな」
呼び出された魔術士は焼け跡を一瞥し、そう言った。
「この子は魔術士ではない」
理由は説明されなかった。ただ、魔術士にはそれが分かるのだという。
あるいは――分かると“されている”。
どちらでも、扱いは変わらない。
では、これは何だったのか。
ただの事故として処理することもできた。混乱の最中に起きた、ありふれた不運の一つとして。
実際、そういうものの大半は記録にも残らない。
だが――
「……面白いな」
その報告に、興味を示した者が一人いた。術の塔に属しながら、魔術の運用ではなく管理と記録を担っていた男である。
彼は焼け残った紙片を指でつまみ、光にかざす。
線がある。
意味は分からないが、形はある。
「魔術ではない現象、か」
紙片を裏返す。
裏には何もない。ただの紙だ。
「それで、燃える」
小さく言う。
理解ではなく、確認だった。
「……説明できる形になるか?」
誰に向けたものでもない問いが、その場に落ちる。
その時点で、これはもう“見過ごす対象”ではなくなっていた。
その一言が、すべての始まりだった。
後に「符術」と呼ばれることになる技術は、こうして名もない一件の事故から、研究対象へと変わる。
⸻
それから間もなくして、術の塔の一角に、小さな部屋が一つ用意された。
研究室と呼ぶにはあまりに簡素で、仮置きの机と椅子が並べられているだけの空間だったが、それでも人は集まった。
場所が用意された時点で、それは“やるべきこと”になる。
中身が分からなくても、人はそこに理由を作る。
行き場を失った者。呼び出された者。興味だけで足を踏み入れた者。
理由は様々だったが、共通しているのは一つだけ――
「魔術ではない何か」
それを確かめるためだった。
⸻
アルヴィンがその部屋に入ったのは、三日目のことだった。
「ここか」
扉を軽く叩き、そのまま中へ入る。
すでに何人かが机を占領していたが、互いに名乗るような空気はない。
紙をめくる音と、筆の擦れる音だけがある。
共有されている前提がない。
つまり、まだ誰も何も掴んでいない。
「新入り?」
声をかけてきたのは、窓際の机に座っていた女だった。
視線は紙に落ちたまま、顔も上げない。
「ああ。呼ばれてな」
「そう」
それだけ言って、興味を失ったように筆を動かし続ける。
アルヴィンは少しだけ眉をひそめ、それから近くの机に荷物を置いた。
「随分静かだな」
「話すことがないもの」
間を置かず返ってくる。
「分かってることが、ほとんどないんだから」
淡々とした声だった。
事実を並べただけの言葉は、反論の余地がない分だけ雑に聞こえる。
アルヴィンは肩をすくめ、室内を見渡す。机の上には似たような紙が並び、どれもこれも意味の分からない線の集まりだった。
「で、これは何をしてるんだ」
「見れば分かるでしょ」
「分からないから聞いてる」
そこでようやく、女が顔を上げた。
年は自分とそう変わらないか、少し下か。だがその目だけは妙に落ち着いている。
「写してるのよ」
短く言う。
「焼け残ったものと、証言を元に」
「それで再現できるのか?」
「できてないから、まだ続いてるの」
即答だった。
アルヴィンは一枚の紙を手に取る。線が重なり合い、何かの形をしているようで、結局は分からない。
「……落書きだな」
「そうね」
女はあっさり頷いた。
「少なくとも最初は」
「最初は?」
「描いた本人は、ただの落書きのつもりだったはずだから」
そこまで言ってから、ほんのわずかに視線を細める。
「でも、それで“起きた”」
偶然で済ませるには、結果がはっきりしすぎている。
アルヴィンは紙を戻し、腕を組む。
「で、それを真似してるわけか」
「ええ。でも――」
女は机の上の紙を軽く指で揃える。
「同じにはならない」
「当たり前だろ」
「そうね。当たり前」
その“当たり前”の中から、何かを拾おうとしている。
やっていることは単純だが、やっている側は単純ではない。
「……でも、全部が外れとも思えないのよね」
ぽつりと呟く。
アルヴィンはその言葉にだけ反応した。
「外れじゃない、ってのは?」
「さっきから見てるでしょ」
女は紙の束を軽く押し出す。
「整ってるものと、そうじゃないものがある」
「整ってる?」
「ええ。上手いとかじゃなくて……」
少しだけ考える間があって、
「……形が落ち着いてるもの」
そう言い直した。
アルヴィンは改めて紙を見比べる。違いがあるような、ないような――
だが、いくつかは視線が止まる。
理由は分からない。
だが、無視もしづらい。
「それが当たりか?」
「分からないわ」
即答。
「でも、近い可能性はある」
迷いのない声だった。
アルヴィンはもう一度、紙を見た。
「……なら、それを基準にするしかないな」
ぼそりと言う。
「形が落ち着いてるもの。そこから崩して、何が変わるかを見る」
独り言のようでいて、手順になっている。
女は一瞬だけ手を止めた。
「……話、通じるのね」
「最低限はな」
短く返す。
「でないと、説明が面倒だ」
その言葉に、女はほんの少しだけ口元を緩めた。
皮肉とも違う、ごく薄い笑みだった。
「ラヴィニアよ」
遅れて名乗る。
アルヴィンは一瞬だけ間を置いてから、
「アルヴィンだ」
短く返した。
それだけだった。
だが、その日を境に、二人は同じ机に紙を並べるようになる。
特別に言葉を交わしたわけでもない。
ただ、「魔術ではない何かを確かめる」という目的だけは、ここにいる誰とも同じだった。
その中で――
ラヴィニアは形を見て、
アルヴィンはそれを現実の中に繋げようとした。
やり方が違っただけの二人は、気づけば同じ机に紙を並べていた。
それが効率的だったのか。
あるいは、単に話が早かったのか。
理由は分からないが、少なくとも――
別々にやる理由は、もうなかった
自分が生まれる前の両親のこと、というのは少し不思議なものです。
確かにそこにいたはずで、こうして自分がいる以上、無関係であるはずもないのに、その時間について自分は何も知らない。
話として聞いたことはあります。
断片的な出来事や、誰かが見た光景や、残されたものから推測できることもある。
けれど、それらはどれも自分の記憶ではなく、ただ「そういうものらしい」と知っているだけの話です。
どこまでが正しくて、どこからが思い違いなのかも分からない。
そもそも、語っている本人がどこまで覚えているのかも怪しいものです。
それでも、不思議なことに、そうした曖昧なものの積み重ねでしか辿れない時間というものが、確かにあるのだと思います。
今回の出来事も、その一つなのでしょう。




