第87章:居酒屋「魚光(うおみつ)」での送別会
3月30日(火曜日)。
この日の勤務後、「魚光」という居酒屋で、検査課の飲み会が催された。
今年度で検査課を去る人物が二人。
退職して、実家のある北海道の美瑛に戻る、森川明検査部長と、根岸氏の二人である。
これは、二人を送りだす「送別会」なのだ。
根岸氏は、実はこの年度に行なわれた「国家一種」の公務員試験にめでたく合格し、霞ヶ関にある農水省にご栄転される。
勤勉な彼は、数年に渡る猛勉強の甲斐あって東大卒のエリートたちがゴロゴロひしめく厳しい環境で、4月から新たなスタートを切ることになる。
茂たちが所属する「国家三種」の底辺職場とは、天と地ほどの開きがあった。
そして・・・茂を常に心配し、昼食時に何度もうなぎ屋で「二段重ね」をご馳走してくれた、恩義ある森川部長とも、今日でお別れだ。
飲み会の冒頭、その部長自らの「ご挨拶」があり・・・乾杯の音頭が終わると、にわかに座敷の往来が激しくなった。
茂は、先の「磐石荘」での苦い一夜を経験していたので、この夜はスムーズに「酒の席での常識」をそつなくこなし、部長に日本酒を勧めていた。
「・・・杉山君。元気でいてくれよ。私はね、今でも君が一番気にかかっていて、そして、かわいいんだ。まるで、息子のようにね。でもね・・・私と根岸君がいなくなったあとの、君の行く末が心配で心配で・・・。」
「部長。そんなに心配なさらないでください。僕なら、何が起きても平気です。今まで、何度もつらい『別れ』だって経験してきましたし。」
「そうか。それを聞いて安心したよ。でもね、杉山君。どうしてもつらくて苦しくて、どうしようもなくなったら・・・躊躇せずに・・・ためらわずに、いつでも私に連絡するんだ。どんなことでも、相談に乗るぞ。北海道へ帰っても、私はずっと君の味方だ。・・・それを忘れるな。」
「部長・・・。」
部長の真心のこもった優しい言葉を聞いた茂は・・・思わず宴会の部屋を出て、トイレの個室に。
彼が、ひとしきり泣いた後、個室の鍵を開けようとした、その時。
聞き覚えのある複数の声が、この「魚光」のトイレに、ひそかに響き渡ってきたのである。




