第74章:ナンクセ男、武村
7月に入った、ある日のこと。
この日も、直属の上司の武村から、タバコいぶしやら、仕事上の嫌味やらの悪徳の数々を受けた茂は、もう、うんざりして、この職場を今日、いますぐにでも辞したい気持ちになっていた。
昼間の、武村の「部下いびり」は、茂の想像を超えていた。
よく、「箸のアゲサゲまで・・・」という言い回しがあるが、ちょうどそんな感じであったのだ。
この日の朝、茂が心を込めて淹れた緑茶に、夕方になって武村が、ナンクセをつけてきた。
「杉山さん! 今朝の『お茶汲み』、何だ!?」
「はい・・・?」
「『はい?』じゃないよ。あの『お茶汲み』、あれは何だって訊いてるんだよ!!」
「ですから・・・何が、ですか??」
「じゃ、おせーてやっから。急須にお茶入れて、もっぺんやってみろ!」
「・・・はぁ。」
茂がシブシブ、自分の湯飲みに茶を注ぐと、武村は、乱暴に彼のうしろに回り、『はがいじめ』の格好で茂の両手首をつかみ、手を無理やり『交差』させた。
「持ち方がおかしいんだよ! 持ち方が!!」
(いってえ! オイ、武村! そんなに強く握るんじゃねえ! くーっ、それに、酒クセェッ!!)
武村は、茂が「お茶汲み」を強要されている間、ずっと酒臭い息を吹きかけていたのだ。
もともとの、「悪臭」ともいえる口臭に、タバコのヤニのニオイと、夕べしこたま飲んだものと思われる酒のニオイが混じり合って、もはや「公害レベル」としか思えないような強烈な『拷問』であった。
(なんで右利きの俺が、左手で『取っ手』を持って、フタを右手で押さえるんだ?? フツー、逆だろ。それに、片手で淹れるやり方だって、正式にあるんだぜ・・・。おかしいよ、コイツ。)
茂は正しかった。
普通、両手で急須を扱う場合、湯飲みなどに茶を注ぐ場合、右利きの人なら、右手で取っ手を握り、左手でフタを押さえるのが、正しい作法なのだ。
片手なら、「人差し指と中指で挟むスタイル」となる。
・・・それが、人間の体の構造にも合致した、理にかなったやり方でもあるのだ。
実際にやってみれば、武村の主張する「作法」とやらが、いかにいいかげんで、おかしな動きを強いられるシロモノかは、体感できる。
気になる読者の方は、『お茶のある暮らし/茶屋すずわ 渥美慶祐』というブログの中の、『急須の取手(柄)の持ち方』という記事を参照されたい。
この事例は、全体のうちの、ごくごく一部である。
仕事でも、出張でも、武村は、このように生活全般に至るまで、事細かく口を挟み、理不尽なほど「おかしな注文」「ナンクセ」をつけてきた。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
この日の勤務が終わり、茂が事務所の玄関を出てしばらくのこと。
うしろから声をかけてきた人物がいる。
「杉山君、待ってくれ。たまには僕と帰らないか・・・?」
「根岸さん・・・。」
二人は、茂が食糧事務所に入所して以来、はじめていっしょに駅に向かって歩いた。
「・・・杉山君。疲れてるようだね。つらいかい?」
「いえ、疲れてるのは、ここに入所して以来、毎日のことですから。もう、いいかげん慣れましたよ。」
「強がりを言うなよ。しんどいのは分かってる。僕たちは、あの『磐石荘』で、ともに、『関谷一味』にひどい目に遭わされた仲じゃないか。そうだろ・・・?」
「ええ。自分も、根岸さんのことは信じてますし、尊敬しています。でも・・・ここのところ、極端に『人間不信』に陥ってしまって・・・。もう、誰を信用していいのか、分からないんですよ。」
「・・・杉山君。ずいぶん、さびしいこと言うじゃないか。僕は・・・そんなに信用できない人間かい??」
「そうは言ってませんよ。でもですね、根岸さん・・・」
「あの『うわさ』だろ?」
「はい・・・?」
「杉山君を苦しめているのは、連中がまき散らしている、君についての『悪いうわさ』なんだろ・・・? それにともなう、連中の態度、ふるまい。」
「・・・・・・。」
「僕も、それは聞いたよ。君が、風俗店に入り浸っている、という『うわさ』だよね。あの桑川が垂れ流しまわっている・・・。」
「桑川、がですか・・・?」
「そうだよ。彼以外にいないじゃないか。どうやら君は、桑川に、そうとう恨みを買っているようだね。 ・・・いや、『ねたみ』の方が正確かな。」
ここで根岸氏は、肩でひとつ大きく息をすると、話を続けた。
「僕が小耳に挟んだところではね、特に女性職員に、あることないこと、言いたい放題らしいんだ。本当に、好き勝手、言いふらしているらしい。 ・・・用心しろよ。」
(・・・そうだったのか。この一連の騒動の元凶は、やはりあの男だったのか。そして、もちろん、その情報をあいつに吹き込んだのは・・・。)
それは茂も、うすうす気づいてはいた。
・・・しかし、客観的な第三者である根岸氏の口から直接『真相』を聞き、「正式に」そこまで状況を悟るに及ぶと、今さながら背筋がゾッとするような戦慄をおぼえたのである。
いくら自分が、なりゆきから風俗店に通うようになったとはいえ、あれほど忌み嫌っていた桑川と簡単に「打ち解け」、ごったがえす車内の衆目の中、堂々と抱き合い、挙句の果てには、熱いキスまでおやりになる・・・「彼女」のその「神経」に、あきれるとともに、ヒヤリとする寒気を感じたのだった。
(・・・人は、そんなにコロコロ自分の信念を変えられるものなのか? 昨日、蛇蝎のように嫌っていた異性に、そうもやすやすと心とカラダを許せてしまうものなのだろうか・・・? あの誠実で最後まで俺に優しかった、美絵子ちゃんや理沙ちゃん、それに里香ちゃんたちとは、まるで正反対のひどい女だ。・・・わからない。俺には、さっぱり理解できないよ。武村が、いまだに俺を『さんづけ』なのも、なんだか薄気味悪いしな・・・。)




