第66章:氷のような手の感触
「・・・それでね、あやちゃん。根岸さんったら、もうおっかしいのなんのって。普段の彼は・・・」
あやに、磐石荘での一夜について話すと、あやもときどき、吹きだしながら興味しんしんといった様子で聞いていた。
「でも、茂さん。カラダは大丈夫なの・・・? 殴られちゃったんでしょう? 怪我はなかったの・・・?」
「うん。軽い打撲はあったけど、二・三日で痛みは引いたから。でもね・・・その『磐石荘』だけどね、会議に使う分にはいいんだけど、旅館からクレーム来ちゃってね。泊まりの飲み会は、次回からNGになったよ。隣の部屋あたりの一般のお客さんから、苦情が殺到したらしいからね・・・。」
「そうなんだ。でも、茂さん・・・今いる職場って、最低ね。とても公務員とは思えないわ。」
「でしょ・・・? あやちゃんも、そう思うっしょ? 僕もね、本当は、他に受かってるところあったんだけどね・・・。『公務員』で安定してるって判断して、こっちを選んじゃったんだよ。失敗したなぁ・・・。こんなひどい、幼稚な環境だって事前に知ってたら、絶対に、そっちの民間企業に行ってたと思うんだ。」
「そうね。行ってみなければ、実際には分からないけど・・・。」
あやは、優しかった。
茂のグチも悩みも、親身になって聞いてくれた。
仕事柄、「客商売」だから、といえばそれはそうなのであるが・・・それでも、他人の語る「マイナスの話」を長々と聞かされるのは、たとえ「接客のプロ」でも、しんどいにはちがいない。
このときのあやの心中は分からなかったが・・・ともかく彼は、これまで自分を支え続けてくれた、「三人の天使たち」以来の心のよりどころを得て、毎週のように、給料をはたいて、あやに会い続けた。
月によっては、連日連夜通い、一回40分のワンセットを延長につぐ延長で何セットもこなし・・・ほぼ給料のほとんどをつぎ込んでしまうこともしばしばだった。
こうして、「あや」という、いわば、「美絵子の再来」にドップリとハマる彼であったが・・・実は、大きな不満が二つあった。
かつて、彼がこのうえなく愛し、今も、日々思い出しては涙し、いまだ、その面影を追い続ける「峯岸美絵子」には、魅力的な『匂い』というものがあった。
ところが・・・この「あや」という女性には、『匂い』『体臭』というものが、まったくといっていいほど感じられなかったのだ。
美絵子に備わっていた、あの「サクランボのような甘い香り」も、「バイオレットのような妖艶な香り」もなかった。
・・・まるで、「アンドロイド」のように、まったくの『無臭』だったのである。
もうひとつ。
茂は、生前の美絵子とは、小学校の時分、毎日、仲良く手をつないで下校したものだった。
二人は愛し合い・・・互いの「愛」「体温」「優しさ」、そして、「握力」・・・
こうした、さまざまな形での、お互いを想う「あかし」というものを感じながら、日々、距離を縮め、やがて、「生涯のパートナー」として、認め合う仲になっていったのだ。
この店で、あやと知り合った茂は、美絵子そっくりの「彼女」にも、同じ「握力」を、自然の成り行きとして求めていた。
しかしながら、しばしの「逢瀬」の幸せなひとときが終わり、席から出口ドアにたどりつくまでのさなか・・・手をつないだ、あやの左手からは、「握力」が返ってこなかった。
彼女は・・・茂の右手を、まったく握り返してこなかったのである。
そして、彼女の手は・・・いつも「氷」のように冷たかった。
初めて彼が、この店内で彼女と会い、初めてその手を握ったとき・・・なぜか初回のそのときだけは、確かに「美絵子の体温」「美絵子のぬくもり」が、しっかりとあったはずなのに・・・。
(いったい、どうして、その次からは、急に洋子ちゃんの手は冷たくなってしまったのだろうか・・・?)
彼女自身は、「冷え性」だと説明はしていたものの・・・彼はそこに、美絵子とは決定的に違う「何か」を、無意識に感じ取っていたのであった・・・。




