↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

229/246

第229章:帰郷への長い道のり(2)

 真っ暗な『甲州街道(こうしゅううかいどう)』を東へ進む茂。


 大月駅を出た彼は、ときおり車のヘッドライトが自分の背後に迫るのを感じながら、また、カーブで対向車にまともにライト光を、目に顔に、体全体に浴びせられながら、無言で街道をゆく。


 (・・・また俺は、『おかしな場所』へ向かっていくのか・・・。)


 『猿橋駅(さるはしえき)』を過ぎ、やがて国道は、線路をまたぐ立体交差となってクロスし、道路と線路の南北の位置関係が南北さかさまになった。


 大月駅は、国道の北側にあったが・・・猿橋駅以降は、駅の位置が、国道の南側に位置する構図となるのだ。


 この「猿橋(さるはし)」というところは・・・このサファイアの涙が調べてみたところ、茂が当時ここを徒歩で通過した時分には、まったく知らなかったものの、非常に有名な観光スポットがあるらしい。


 またまた物語とは関係のない「脱線」ではあるのだが、せっかくの機会なので、それをさりげなく(?)皆様に紹介して、この章を閉じたいと思う。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆


 【日本三奇橋(にほんさんだいききょう) 猿橋(さるはし)】


 桂川(かつらがわ)の深く美しい渓谷(けいこく)に架かる猿橋は、珍しい構造から「岩国(いわくに)の錦帯橋(きんたいきょう)」、「木曽(きそ)の桟(かけはし)」とともに日本三奇橋と呼ばれています。

 四季折々(しきおりおり)に変化する美しい渓谷(けいこく)に架(か)かる奇橋の景観(けいかん)は、甲州街道きっての名勝(めいしょう)とうたわれ、多くの文人(ぶんじん)・墨客(ぼっかく)が訪れました。中でも歌川(うたがわ)(安藤(あんどう))広重(ひろしげ)は猿橋の美しさに非常に感動し、『甲陽猿橋之図(こうようさるはしのず)』を世に残しました。


 (※)「墨客(ぼっかく)」は、書画や詩文(しぶん)などの風雅な芸術を愛好し、たしなむ人を指す言葉です。

 「墨(ぼく)」は書画(しょが)を意味し、「客」は「かく」と読んで「ある分野に長じた人物」を表します。つまり「書画に優れた人」という意味になるのです。単独で使われることは少なく、「文人墨客(ぶんじんぼっかく)」や「騒人墨客(そうじんぼっかく)」といった四字熟語として用いられることが一般的です。例えば、島崎藤村(しまざきとうそん)や与謝野夫妻(よさのふさい)のような文学者や芸術家を「文人墨客(もんじんぼっかく)」と呼び、彼らが集まるサロンや愛した場所について表現する際に使われます。


 猿橋の珍しい構造

 長さ30.9m、幅3.3m、水面までの高さ31mの猿橋は、橋脚(きょうきゃく)をまったく使わず、鋭くそびえ立つ両岸から張り出した四層のはね木によって支えられています。

 猿橋の珍しい構造の起源は定かではありませんが、推古天皇(すいこてんのう)の時代(西暦600年頃)、百済(くだら)からやってきた造園博士の志羅呼(しらこ)が深い渓谷に何度も阻まれてきた橋の建設を引き受けましたが、いろいろな方法を試みてもうまくいかずあきらめかけていたところ、たくさんの猿がつながりあって対岸へと渡っていく姿から発想を得て作られたという伝説が残っています。

 現在の猿橋は昭和59年に、嘉永(かえい)4(1851)年の資料を基に忠実に復元された橋です。明治以降になると、猿橋を挟んで次々に新しい橋が架かり、険しくも美しい渓谷とともに歴史ある橋を一挙に眺めることができます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。