第九話 八月のオーギュメント
いよいよです。
ライブハウスの最寄り駅で、律が待ち合わせ時刻より少し前に着いて待っていた。乗客たちが階段を下りてくる。その中に蓮の姿があった。蓮はギターとベースを、改札にぶつけないように気をつけて出てきた。
「よう」
「うん」
律は手を伸ばして蓮からベースケースを受け取り、肩に担いだ。蓮は自分のギターケースを持って、二人でライブハウスへ向かう。
ライブハウスは、繁華街の裏路地にある、雑居ビルの地下だった。ビルの入口には、今日の対バンのフライヤーが何枚も貼り重ねられている。階段の壁は、ステッカーや演者たちのサインで埋め尽くされていた。二人はその階段を降りて、分厚い扉を開けた。中から大音量の音楽と、歓声と、むっとした熱気と、うっすら煙草の匂いが漂ってきた。
ステージの上では、二組目のバンドが演奏をしているところだった。天井から提灯がいくつも吊るされていて、夏祭りライブといった感じだ。フロアには、思ったより多くの客が集まっていた。三十人はいるだろうか。大半は、出演者の知り合いらしい若者たちだった。ドリンクの入った紙コップを手に、それぞれの熱量でステージを見つめている。
律は受付の若い男性に、自分たちが演者であることを告げた。前もって高杉から聞かされていたようで、二人はスムーズに楽屋へ通された。大部屋に入ると、それぞれのバンドメンバーが出番を待っていた。
少しメイクをした高杉が近づいてきた。
「おう、来たな」
「今日はありがとうございます」
高杉は蓮をちらりと見た。
「期待してるよ」
「はい、よろしくお願いします」
律と蓮は、ステージ袖の薄暗い一角で待っているように言われた。狭いスペースに、機材のケースやコード類が乱雑に積み上げられている。汗ばんだシャツが、律の背中に張り付いていた。
「お前、しょっちゅうこういうところで演ってたのか?」
「しょっちゅうでもないよ。たまにね」
「そっか。緊張するな」
「僕もずいぶん久しぶりだからね、緊張するよ」
二人の横をRicochetのメンバーが通っていく。高杉が律の背中を軽く叩いて行った。
フロアの照明が落ち、Ricochetがステージに上がっていく。歓声がフロアから沸き上がった。ドラムのカウントが響き、荒々しいギターリフと太いベースが空気を切り裂く。律の身体にその振動が直接伝わってくる。
Ricochetの演奏は、二十分ほどで終わった。高杉が、汗を拭いながらマイクの前に立つ。
「ありがとう!」
フロアから拍手と歓声が上がった。
「ちょっと、変わったことさせてください。今日は、それぞれのバンドのファンが来てくれてると思うんだけど、その誰もが知らない二人の演奏をお届けしたいと思います」
フロアがざわつく。
高杉は、ステージ袖に視線を送った。律の心臓が、大きく跳ねる。
「もしかしたら覚えてる人もいるかもしれないけど、Ricochetの元ベーシストが、新しい相棒と音楽をやってるんです。俺のかわいい後輩なんで、ぜひ、聴いてやってください」
高杉が、律たちのいる袖に向かって、軽く手招きをした。フロアから拍手が起こる。
律は、ベースのストラップを肩にかけ直した。手のひらに、じんわりと汗が滲んでいる。隣で、蓮がギターを抱え、ふっと息を吐いた。
「行こうか」
「うん」
二人は、薄暗い袖から、照明の眩しいステージへと足を踏み出した。
フロアの視線が、一斉にこちらへ向く。
高杉が、マイクで何か話すよう律に手で合図する。律はマイクスタンドの前に立った。拍手が上がる。高杉は袖へ下がっていった。
「お邪魔して申し訳ありません。一曲、インスト曲なんですけど、聴いてください。よろしくお願いします」
律が、自分の場所に行こうとしたとき、フロアから男性客の声が上がった。
「なんて曲?」
「え、えっと……」
フロアが、静かに律の言葉を待っている。
律が言葉に詰まっていると、隣から伸びてきた手が、ひょいとマイクを奪い取った。
「――八月のオーギュメント、です」
蓮の声がフロアに響いた。フロアから拍手が起こる。
律は、隣に立つ蓮を見た。蓮は、律に向かって、いつものように、片方の口角を上げて笑っている。その笑みを見た瞬間、律の中で、張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩んだ。
「いいぞ!」
誰かが指笛を鳴らして囃し立てる。
蓮が、ギターのペグに手をかけ、チューニングを確かめるように、一音、また一音と、弦を鳴らし始めた。フロアが静まる。
――ポーン、ポーン、ポーン。
蓮の指が、ギターの三本の弦を、一音ずつ確かめるように弾いた。
C、E、G#。
律の指先が、ベースのネックの上で、ぴたりと止まった。
(この音――)
忘れるはずがなかった。八月の初め、蒸し暑い旧校舎の音楽室から聞こえてきたピアノの音。
蓮が、律の方をちらりと見た。
『覚えてるか?』
その視線が、そう問いかけている気がした。律は、小さく頷いた。
『俺にぴったりだろ? 落ち着かない音。どこにも居場所がない感じがさ』
律のベースが、低く、重い一音を鳴らす。ズン、という響きが、フロアの空気を震わせた。それを合図に、蓮のギターが、イントロのフレーズを紡ぎ始める。迷いながらも、前へ進もうとする足取りのような、危うくて、それでいて確かな芯のある旋律。
律は、その音に合わせて、ベースのラインを重ねていく。
――旧校舎の廊下を歩いていたときに聞こえてきた、コン、コン、という鍵盤の音。汗ばんだ蓮の胸元、緩んだネクタイ。三白眼の鋭い目。あのとき感じた、説明のつかない胸の高鳴り。
フロアの視線が、自分たちに吸い寄せられているのが分かった。最初はざわついていた空気が、少しずつ静まっていく。
律の指は、止まらなかった。ベースラインは、ギターの旋律の下で、着実にリズムを刻んでいく。
――夕立の中、鳥居をくぐって駆け込んだ、あの拝殿の軒先。雨に濡れた蓮の横顔。どうしても、目を離すことができなかった、あの困惑。
あの頃は追いつくだけで精いっぱいだった律が、今はしっかりと蓮を支え、二人の音が絡み合っている。
――早朝の音楽室。蓮の腕を、強く掴んだ、あの朝。振り返った蓮の目に浮かんでいた、剥き出しの動揺。互いの呼吸だけが、痛いほどはっきりと聞こえていた、あの静寂。
律の指先が、無意識に、力を込める。ベースの重低音が、フロアの空気を、深く震わせた。
蓮のギターが、サビへ向けて、旋律を高めていく。不安定なコードが、解決を拒みながら、それでも、次の音を激しく求めていく。律のベースが、その足元を、しっかりと支えていた。
フロアは、いつのまにか、静かに耳を澄ませる空気に変わっていた。ノリの良い曲ではない。踊れる曲でもない。それでも、何かに引き込まれるように、客たちの視線が、ステージに縫い付けられている。
ステージ袖では、高杉が、腕を組んだまま、微動だにせず二人を見つめていた。その口元に、真剣な表情が浮かんでいる。
旋律とベースラインが、幾度もずれては、また噛み合う。危うくて、不安定で、それでいて、これ以上ないほど確かな、二人だけの音。
曲は、ラストのフレーズに差し掛かっていた。
蓮のギターが、これまでで最も激しく、それでいて美しく、不協和音を鳴らす。律のベースが、その下で、最後の力を込めるように重低音を響かせる。二つの音が、ぶつかり、絡み合い、解決しないまま、宙に浮いたまま――やがて、静かに、余韻を残して消えていった。
フロアが、しん、と静まり返った。
律の心臓が、大きく音を立てる。誰も何も言わない、その数秒間が、律には、永遠のように長く感じられた。
(届かなかったか……まあ、それでもいい――)
そう思いかけた、その時。
拍手が起こった。
最初はぱらぱらと、それが次第に広がっていく。興奮したようなものではなかったが、その拍手には確かな重みがあった。何かを受け止めた人間だけが出せる、静かな響き。
「……よかった」
誰かの声が、フロアの端から聞こえた。
「よかったぞ!」
拍手が大きくなった。
律は、肩で息をしながら、フロアを見渡した。ステージ袖では、高杉が、腕組みを解いて、大きく頷いている。
律は、隣に立つ蓮を見た。
蓮は、ギターを提げたまま、フロアに向かって小さく頭を下げていた。汗が、顎の先から滴り落ちている。息を切らしながらも、その顔には、律がこれまで見たことのない、晴れやかな表情が浮かんでいた。
律と蓮は、袖に戻った。
「よかったぞ、お前ら」
高杉が、律の肩を強く叩いた。
「マジでよかった。あの曲、誰の?」
「……蓮です」
「へえ。作曲、お前がやったのか」
高杉が、蓮に視線を向ける。蓮は、少し照れくさそうに、頭を掻いた。
「まあ、二人で、少しずつ」
その後も、何人かの出演者やスタッフが、律たちに声をかけてきた。だが、律の目には、その光景がどこか遠くの出来事のように映っていた。
機材の片付けを手伝い、ライブハウスを出る頃には、すでに二十二時を回っていた。律の身体を、涼しい夜風が優しく撫でた。
律が駅へ向かって歩き出す。
「ちょっと歩こうぜ」
蓮は、駅とは逆の方向へ、ゆっくりと歩き出した。律も、ベースケースを担いで、その後を追う。
二人は、当てもなく、夜の街を歩いた。ネオンの光が次第に少なくなり、住宅街の静かな道へと変わっていく。二人とも、黙って歩いた。何も言わなかった。二人の足音だけが、はっきりと聞こえていた。
しばらくすると、街灯もまばらな川があった。大きな川だった。
律も、蓮も、足を止めることができずにいた。まだ、この時間を終わらせたくなくて、二人は川沿いの道を歩いた。
夜風に乗って、川の匂いが、ふわりと運ばれてくる。
「休もうか」
蓮が言った。
二人は堤防の斜面に腰を下ろした。それぞれのケースを堤防の段差に置く。コンクリートブロックの隙間から雑草がたくさん生えていた。黒い川面には、対岸の白い灯りが、細く長く揺れて映り込んでいる。風は涼しく、秋らしい虫の音が聞こえていた。
蓮は、膝を抱えるようにして座り、しばらく黙って川を見つめていた。乱れた前髪が額に張り付いている。ぼんやりとした街灯に照らされた輪郭は、とても柔らかだった。
「ベース、とうとう返す時が来ちゃったな」
律は返事をしたくなくて、視線を川へ移した。真っ黒な川。対岸の灯りが無かったら、きっと何にも見えないだろう、と律は思った。
蓮は手元の草を引きちぎって前に投げた。草はバラバラと散った。
「そのケース、最初に触ったとき、めちゃくちゃ緊張したんだぜ。お前が大事にしてるもんだって、伝わってきたから」
蓮が、小さく笑う。
「今日の演奏、律のおかげだよ。俺一人じゃ、あの曲、絶対、完成させられなかった」
「そんなことないよ」
「いいや。お前がいなかったら、無理だった。途中でやめてたよ」
蓮は、また草をちぎって投げた。
「引っ越したら、また、新しいの作るかな」
「……蓮」
律の胸の奥で、何かが膨らんでいく。もう芽が出ていることには気がついていたけど、ずっと押し殺していた感情。
「お前の音は、不協和音だよ」
蓮が、驚いたように、律の方を向く。
「壊れそうで、落ち着かなくて……でも、世界で一番、綺麗だ」
言い終えて、律は蓮を見た。心臓が暴れて痛いくらいだった。蓮の目は大きく見開かれていた。
沈黙が、二人の間に降りる。虫の音と、川のせせらぎだけが、その静寂を埋めていた。
蓮の手が、ゆっくりと持ち上がった。指先が、律の頬に触れる。汗ばんだ皮膚を、そっとなぞるように。蓮が、顔をゆっくりと近づける。
律は、目を閉じた。
柔らかいものが、律の唇に、そっと触れた。
蓮の手が、律の頬から後頭部へと滑り、そっと引き寄せる。律も、蓮の背中に、そっと腕を回した。鼻息が、互いの頬をくすぐる。蓮の唇の温度が伝わってくる。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
蓮が唇が離した。二人の間に、わずかな距離が戻った。
律は、目を開けた。すぐ目の前に、蓮の顔があった。潤んだ瞳に、川からの反射光が映り込んでいる。
二人は、しばらく何も言わずに、見つめ合っていた。
虫の音と、川のせせらぎだけが、相変わらず聞こえていた。




