第八話 真夏の疾走
八月二十六日。夏期講習が終わり、残るは八月末の校内模試だけとなった。
高杉が紹介してくれた格安のリハーサルスタジオは、駅から少し歩いた雑居ビルの地下にあった。薄暗い階段には、壁一面にバンドのステッカーが貼られている。それを下りて防音扉を開けると、受付の窓口があった。中年の男性が座っていた。
律が予約している旨を告げる。料金を支払うと、「Aスタジオ」と言われ、二人は窓ガラスに『A』とシールの貼られた部屋に入った。
蓮は物珍しそうに機材を見ていた。律はベースの準備を始める。最安値のこの部屋には、アンプとスピーカーがあった。他の部屋にはドラムなどがあるとのことだった。蓮はしばらくあちこちを見ていたが、やがて腰を下ろし、ギターのチューニングを始める。それから譜面を床に広げた。
「ここ、もう一回やろう」
蓮がフレーズを弾き始めた。変更したばかりの箇所だ。フレーズを弾き直しては、首を傾げ、また弾き直す。
律はその横で、ベースの弦に指を這わせながら、蓮の横顔を盗み見た。窓のないスタジオの中で、剥き出しの照明が蓮の顔を照らしている。いつもよりずっと、輪郭がはっきりして見えた。
「なあ、律」
二時間ほど弾き通した後、蓮はギターを膝に置いた。
「引っ越しの日、決まった」
「……いつ」
「来月の頭」
蓮はそれだけ言うと、ペットボトルの水を一口飲んだ。
「だから、このライブが、お前との最後の合わせになる」
蓮は、律の顔をまっすぐに見た。口元には笑みを浮かべている。その笑みは、静かに澄んでいた。
「悔いのないようにしような」
「……うん」
「よし、もう一回、ラストのところやろうか」
蓮の指が旋律を奏でる。
律は、ベースのストラップを握りしめたまま、しばらく蓮を見つめていた。指板を優しく這う左手の指、弦を鋭く爪弾く右手の指、リズムに合わせて前後する頭。見慣れた光景が、いつもと違って遠くに感じた。
「おい、ベース弾いてくれよ」
「あ、ごめん」
律は我に返ると、ベースの弦に指を戻した。だが、頭のどこかで、蓮の言葉が、ずっと反響し続けていた。
(最後の、合わせ――)
「おい、ベースのリズム悪いぞ」
「ごめんごめん……ちょっと指が痛くなってきた」
「あ、そっか。今日はここまでにするか」
時計を見ると、十九時になっていた。
「ここのスイッチ切ればいいのか?」
「うん、そう」
蓮がアンプの電源を落とす。律も、のろのろとベースをケースにしまい始めた。
「なあ、お前、調子悪いのか?」
「……別に、大丈夫だよ」
「そうか。なんか今日は上の空って感じだったから」
「そんなことないよ」
「そういえば、また模試があるんだろ。ちゃんと勉強してるか? って、俺が言うのも変だけど」
蓮が小さく笑う。
律は、ケースのジッパーを閉める手を止めた。
「別にいいよ、今は」
「ん? よくないだろ」
「どうせ模試だよ。一度くらいどうってことない」
「ダメだ!」
律はビクッとして固まり、ゆっくりと蓮の顔を見上げた。蓮は、険しい顔をしている。
「それじゃダメだ。中途半端になる」
「今はこっちに全力なんだ。ライブが終わったら、また――」
「俺のために、勉強をおろそかにしないでくれ。俺はさ、このライブのために、本気でやってる。お前がせっかく用意してくれたんだ。だから、悔い残さないように、全力でやる。だから律は、模試、ちゃんとやってくれよ。もし練習のせいで勉強ができないっていうなら、お前は当日だけ来てくれればいい」
「……分かった……分かったよ」
蓮はそれを見て、ふっと表情を緩めた。
「お前に負担かけてるのは分かってるんだ。悪いと思ってる。言い過ぎた。俺だって、律と音を合わせる時間が最高に楽しいんだ」
「蓮……」
蓮は、律の肩を軽く叩くと、ギターケースを担いだ。
「帰ろうぜ」
スタジオを出て、地上へと続く階段を上がる間、律はずっと、蓮の言葉を反芻していた。
『最高に楽しいんだ』
律は、階段の途中で一度足を止め、大きく息を吐いた。それから、決意を固めるように、駅への道を歩き出した。
翌日、律は夏期講習があったとき同じように、朝から自室にこもって勉強していた。
(蓮と出会って、惹かれて、蓮を支えて……そして今は、蓮が僕を支えてくれている)
午後まで勉強すると、学校のカバンを持って部屋を出る。
「気分を変えるために、図書館に行ってくるよ」
家を飛び出してスタジオへ行く。二人の演奏が仕上がっていく。この最高に幸せな時間が永遠に続けばいいのに、と律は思った。蓮はそんなことまったく考えてもいないように、晴れやかな顔で練習をしている。律は、自分の湿っぽい感情を押し殺して弦を叩く。
(今は、この一瞬に集中するんだ!)
勉強とスタジオの日が数日続いて、模試当日となった。
試験開始直前の教室には、殺気立つような緊張感が充満していた。試験監督の教師が腕時計と壁の時計をチェックする。もうすぐ九時ちょうどになる。
「始めてください」
紙をめくる音が一斉にする。律は落ち着いて答案用紙に名前を書き入れた。それから問題用紙をめくっていく。現代文、近代文語文、そして古文。律は、まず古文から解き始めた――。
周囲のシャープペンシルの音が、次第に耳に入らなくなっていく。頭が熱くなり、解答を書き入れる手の動きが早くなっていく。
一通り終えたところで顔を上げると、試験時間は残り十三分だった。すぐに顔を試験問題に戻して、飛ばしたところに戻る。首をひねりながらなんとか解答欄を埋める。それから答案の見直しをする。
チャイムが鳴る。
「はい、それまで。筆記具を置いてください」
午前は数学、英語と続き、昼休みに入ってカフェテリアへ向かう。山城が見回りに来る。
「終わった科目の話はしないこと。してもしょうがないからな。午後に向けて、よく頭を休めておきなさい」
律は一人でサンドイッチを食べていた。周りでもほとんど会話はない。みな黙々と食べ、食べ終わると教室に戻っていく。
食べ終わって教室へ戻る途中、廊下には数人の生徒たちがそれぞれに集まって、次の科目について話をしていた。教室へ入ると、そこはまた静かな緊張感が漂っていた。
律は席へ座り、カバンから地理のテキストを取り出して開いた。この模試に全力を尽くすことが、蓮のライブへの本気と繋がっている気がした。これまで感じたことのない、奇妙な意地のようなものが、律の胸に芽生えていた。
教室に続々と生徒たちが戻ってくる。しばらくして、紙の束を持った教師が入ってくる。静まり返る中、問題と答案用紙が配られる。
そして、午後の試験が始まり、すべて終了した。
(終わった――)
チャイムが鳴り響く中、教室に、ため息とささやきが満ちていく。
律は、これまでの模試とは違って、澄んだ疲労感を覚えていた。すべてを出し切ったという実感。
答案用紙が回収されていく。教師が枚数を確認する。
「はい、じゃあ終了です。お疲れさま」
安堵の声が広がる中、律はカバンを掴んで教室を出た。
廊下を、エレベーターとは反対方向に足早に抜けて階段を駆け下りる。校舎を出ると、校庭の木々で鳴くヒグラシの声が広がっていた。
駅までの坂道を、律は駆け下りた。
(蓮、待ってろよ!)
肺が痛くなってくる。喉の奥が焼けるように熱い。それでも、律は足を止めなかった。あの夕立の日を思い出す。夕立の中、蓮と二人で走って神社まで行ったときのこと。それと比べれば今はカバン一つだけ。身軽なものだ。律の顔に笑みが広がる。
改札を駆け抜ける。電車の発車を知らせるメロディが聞こえ始める。律は階段を駆け上がって電車に飛び乗った。と同時に背中でドアが閉まる。電車が動き出すと、律はそのままドアに背中を預けた。冷房が心地良い。律は息を整えながら、まばらな車内を見回した。あの大学生らしき男の人はどこへ行くのだろう。家に帰るところだろうか、それとも遊びに行くのだろうか。あの主婦らしい女性はきっと家に帰って夕食の支度をするのだろう。スーツを脱いで手に持っているサラリーマンは、きっと営業の帰りなんだろう。律はそんなことを考えた。自分は、これからスタジオに行く。それと同じように、誰にもそれぞれの予定がある。
電車を降りると、律はまた走り出す。繁華街の雑踏を縫うように進む。夕方の商店街、揚げ物の匂い、行き交う自転車――そのすべてが、律の視界の端を、風のように流れていく。急ぐ必要などないことは分かっている。だけど、今は走りたい。
雑居ビルの階段を、壁に手を突きながら下りていく。息が上がりすぎて、目の前が一瞬、白くかすむ。
防音扉を開く。受付のいつもの男性が、律の勢いに驚いて顔を上げた。
「はぁ……はぁ……、あの、Aスタですか」
「うん、もう来てるよ」
男性が微笑んだ。
スタジオの窓から中を覗くと、蓮がギターを弾いていた。ドアを開けて中に入る。蓮は律の姿を見ると、すぐに口角を上げた。
「模試、どうだった?」
「はぁ、はぁ……やれるだけ、やってきた」
「走ってきたのかよ」
蓮は笑って、ペットボトルを差し出した。律はそれを受け取り、一気に半分ほど飲み干す。
「だってさ、もう、明日だもん」
蓮が微笑んで頷く。
(やっと、ここまで来た)
律はペットボトルを握りしめたまま、蓮の顔を見つめた。喜びと、安堵と、そして――もうすぐこの時間が終わってしまうという切なさが、律の胸の中で一緒くたになって渦を巻いていた。
(このライブが終わったら――)
「よし、やるぞ」
蓮の声に、律は頷いた。カバンを置き、ベースを構える。
蓮がイントロを弾き始めた。




