第七話 白紙のチケット
さあ、終盤に向けて、盛り上がっていきます
『明日、アンプ持ってくよ』
『わかった。俺も持ってく』
翌日、夏期講習を終えて旧校舎の音楽室へ行くと、蓮がギターを弾いて待っていた。二人は少しぎこちなく挨拶を交わし、すぐに音合わせを始めた。律と蓮の間には、これまでとは違う空気が流れている。何かが変わったことは二人とも分かっている。
蓮は次々と楽譜に変更を加えていく。何かが吹っ切れたように、勢いよく書き換えていく。迷いながらも芯のある旋律はそのままに、コードや構成を変え、そして律のベースラインが際立つパートを足し、甘やかな緊張感が漂う曲に仕上がっていく。
「かなり変えたけど、大丈夫だよな?」
「うん」
律はストラップを肩から外し、ベースを壁に立てかけた。
「ねえ、蓮」
「ん?」
「蓮の曲、一緒に、人前で演ってみない?」
蓮のシャープペンシルを持つ手が、ぴたりと止まった。
「……は?」
「この曲、ライブで演ってみない?」
蓮はしばらく黙っていたが、やがて力なく笑った。
「やめとけよ。こんな曲、人に聴かせるようなもんじゃない」
「僕は毎日聴いてるよ」
「そりゃそうだけどさ。付き合わせて悪いと思ってるよ」
「悪くなんかないよ。この曲、いいよ」
蓮は、ギターを膝の上に置いたまま、窓の外に視線を逃がした。
「ライブやるったって……俺、もう、引っ越すんだぞ」
蓮は、寂しそうに言った。
「だからだよ」
「……は?」
「だからこそ、やるんだよ」
律は蓮の前に回り込んで、蓮の目をまっすぐに見た。
「いなくなるんだから、なおさら、今しかないだろ」
「本気で言ってんのか、お前」
「本気だよ」
律は迷わず答えた。
蓮は、しばらく律の顔をじっと見つめていた。それから、ふっと息を吐き、ギターの弦に指を這わせる。ぽつり、ぽつりと、あの不安定な三音が鳴った。
「……お前がそこまで言うなら」
蓮は、まだ少し戸惑いを残した表情のまま、小さく頷いた。
「でも、どうすんだ?」
「僕が探してみる」
その夜、律は自室で、パソコンとスマホを両方使い、近隣のライブハウスを片っ端から調べ始めた。
時刻はすでに二十二時を回っている。検索窓に「ライブハウス」「対バン」「出演者募集」といった言葉を打ち込んでいく。
夏休みが終わるまで、あと一週間もない。
(頼む……どこか空いててくれ)
律は、市内のライブハウスのホームページを、一つ、また一つと開いていく。どこも、今週分のスケジュールはすでに埋まっていた。飛び入り枠や、オーディションによる出演者募集も探してみたが、応募締切はとうに過ぎているものばかりだった。
(やっぱり、無理なのか……)
弱気になりながらも画面を見る。まだ調べていない会場が、いくつか残っていた。
深夜零時を過ぎた頃、あるライブハウスのスケジュールページで手が止まった。
今週末、土曜日。四組の対バン形式。出演者の欄に並ぶバンド名の中に見知った名前があった。
――「Ricochet」。
律は、画面を凝視した。見間違いではない。それは、律が去年の冬まで、ベースを弾いていたバンド名だった。
律の鼓動が早くなる。震える指で、そのページをスクロールし、詳細を確認する。
間違いなく、あのメンバーたちだった。初めて見る顔は、おそらく律の代わりに入ったベーシストだろう。
律は、しばらく画面を見つめていた。眼鏡のレンズに画面の光が反射している。少し充血して乾いた目をぎゅっとつむる。
(ここに賭けるしかない!)
スマホを手に取り、トーク履歴を開いた。最後は、クリスマスライブのあとのやり取りだった。
『ご迷惑をおかけしてすいません。一年間、とても楽しかったです』
『受験勉強に飽きたら声かけてよ。音合わせしよう』
律は迷わず、メッセージを打ち始めた。
『お久しぶりです、律です。今度の土曜、Ricochetのライブがあると知りました。その件について、少しお願いしたいことがあります。お返事お待ちしています』
送信してから、律は画面を見つめたまま、しばらく身動きが取れなかった。深夜に突然届いた後輩からの唐突な連絡だ。既読すらつかないかもしれない。そう思っていた矢先、画面に「既読」の文字が表示された。
『久しぶりじゃん。どうした?』
『ライブのことでお願いがあります。会って話を聞いてもらえませんか』
すぐに既読になったが、返事が来るには間があった。
『いいけど。なんか怖いな』
『詳しくは会って話させてください。まだ島村楽器で働いてらっしゃいますか?』
『まだ働いてますよー。六月からバイトリーダーですよー』
『では、明日の夕方頃に伺います』
それから蓮にメッセージを送る。
『明日は練習休むよ。ライブのことで人に会ってくる』
翌日、律は午後の講習が終わると急いで荷物を片付け、他の生徒達と一緒にエレベーターに乗りこんだ。早足で駅への坂道を下っていく。残暑の西日が、律の顔を照らしている。額に汗が滲み始める。街路樹の葉は、盛夏を過ぎて心なしかくたびれているようだった。
電車から降り、リーダーの高杉が働く島村楽器へと向かった。店の奥、修理カウンターの中に、見慣れた茶髪の後ろ姿があった。
「高杉さん」
「おう、久しぶりだな、律」
高杉は、驚いた顔も見せず、いつも通りの軽い調子で律を迎えた。相変わらずの無精髭とゆるいTシャツ。律は深く頭を下げた。
「急に、すみません」
「で、用件は何かな?」
「土曜のライブ、一曲だけ、一曲だけでいいんで、混ぜてほしいんです。僕と、もう一人の、二人で演奏する時間を分けてもらえないでしょうか」
「ほう、そう来たか」
律は、順を追って事情を話した。蓮と二人で曲を作っていること、彼の曲が素晴らしいこと、そして、その蓮が近いうちに転校してしまうかもしれないこと。要点だけを、なるべく簡潔に伝えたつもりだったが、話しているうちに、自分でも驚くほど言葉が溢れた。
「――だから、土曜のライブに、一曲だけ、混ぜてほしいんです。前座でも、隙間の時間でも構いません」
高杉は、腕を組んで律の話を聞いていた。
「気持ちは分かるけどな。俺らにとっても、久々の対バンなんだよ。持ち時間もかつかつだし、正直、簡単には頷けないよ」
分かってはいたことだった。律は、鞄の中から取り出した封筒を、カウンターの上にそっと置いた。
「これ、少ないですけど。チケット買わせてください。だから、お願いします」
高杉は、眉をひそめた。しばらく気まずい沈黙が流れる。
「……おいおい。お前、金で解決しようとすんなよ。……けど、そこまでのことなんだな」
高杉は封筒を取り、中を覗いた。
「うーん、惜しいけどな」
そう言ってカウンターから出てくると、高杉は微笑みながら律の手に封筒を押し付けた。
「俺からメンバーに頼んでみるよ。返事はそれからってことで」
「あ、ありがとうございます!」
「お前、また背伸びた?」
高杉が律を少し見上げて笑った。
律は何度も頭を下げ、店を後にした。夕方の商店街は、夏休みの終わりを惜しむ学生の姿が多かった。
律は電車の中でスマホを見つめていた。ここまでの経緯を蓮に報告すべきかどうか迷って、結局何も言わないことにした。結果だけ伝えればそれでいい。この件がダメなら、律は路上ゲリラライブでもなんでもやる気だった。
夕食の間も、風呂に入っている間も、どんな返事が来るのかで律の頭はいっぱいだった。
部屋に戻り、ベッドに横になって、律は天井を見つめていた。勉強などまるで手につかなかった。時計の針は、二十一時を回った。
(今日は、もう返事、来ないのかな)
そう思いかけたとき、スマホが震えた。律は跳ね起きて画面を開く。
高杉からのメッセージだった。
『メンバー全員OKだって。一曲だけね。詳細はまた連絡します』
律は、その短い一文を、何度も読み返した。
喜びと同時に、緊張感が律の胸に広がっていく。律はすぐ蓮のトーク画面を開いた。
『土曜に決まった。ライブやれるよ!』
律がしばらく画面を見ていると、メッセージが既読になった。蓮はどんな反応をするだろうか。返信までの数秒間が、律にはやけに長く感じられた。
『マジ?』
続けて、もう一通。
『本気だったんだな』
律の口元が緩む。
『言っただろ。本気だって』
『ラストスパートだな。時間ないな』




