第六話 不協和音の破裂
空っぽの机を、卓上ライトが照らしている。外はもう薄暗かったが、律は部屋の灯りも点けず、ベッドに腰掛けて宙を見つめていた。枕元のスマホを手に取り、インスタグラムを開く。蓮からのメッセージは来ていない。律は、メッセージを打ち込んだ。
『明日も、アンプ持っていくよ』
律は送信ボタンを押し、スマホを枕元に放り投げた。それから立ち上がって、机のライトを消し、部屋を出ていった。
翌朝、メッセージは既読になっていたが、返信はなかった。律はこれまで通り、アンプの入ったリュックを背負って家を出た。
この日の講習は、不思議と集中できた。英語の授業終わりに、教師に質問までした。律には珍しいことだったので、教師はうれしそうに答えた。
「英文の構造を分析してから訳さないと、意味がわからなくなるから」
「はい、ありがとうございました」
放課後になり、律は黄色いテープをくぐって旧校舎へ入った。音楽室へ近づいても、何の音も聞こえてこない。扉は閉まっている。律はノブを回して扉を開けた。グランドピアノがあるだけで、蓮はいなかった。ギターもベースも無かった。
(何か、あったのかな……?)
カバンからスマホを取り出して見るが、蓮からの返信は来ていない。律は扉を締めた。
翌日、律は久しぶりにリュックを背負わずに登校した。
講習の最中、律は何度もグラウンドに目をやった。誰かが歩いているのを見ると、蓮ではないかと思った。休み時間には廊下に出て、こんなところにいるはずのない蓮の姿を無意識に探していた。通知もないのに、何度もインスタグラムを開いた。
『大丈夫?』
『どうしたの?』
『連絡くらいしろよ』
どれも文字を打っては、消した。
午後の講習が終わると、律はみんなと一緒にエレベーターへと向かって歩いた。夏休みもあと一週間。夏期講習の疲れと、受験への焦りで、周囲の生徒たちは殺気立っていた。一学期までとは違い、律は、周りの生徒からの視線が冷たくなっていることに気がついた。
(息が……)
忘れかけていたあの息苦しさが戻ってきた。肺が固まってしまったかのような息苦しさ。
エレベーターのドアが開くと、律は逃げるようにして降り、そのまま早歩きで校舎を出た。残暑が身体を包み込む。そこで、やっと落ち着いて息をする。生徒たちが律を横目に、ぞろぞろと正門へ向かって歩いていく。
「相沢くん」
後ろから声をかけられた。振り向くと、同じ特進クラスの田丸遥斗だった。
「おつかれ。なに?」
「あのさ、相沢くんって、あの……瀬名って人と仲いいの?」
「え?」
「いや、こないだ、駅で二人でいるの見たから」
「……」
「あ、ごめん。変なこと聞いて」
「あ、ああ」
「じゃあね。夏期講習、最後までがんばろ」
田丸が先を歩いていく。律は不思議な胸騒ぎを覚えながら、その後ろ姿を見ていた。すると、田丸が立ち止まって振り返った。
「相沢くん。僕、君を目標にがんばってるんだ。だから、君も、最後まで走りきってほしい。……それじゃあね」
律は前髪をかきあげた。険しい表情をしていた。期待されること、要求されることに腹立たしさを覚えた。まだ父親の価値観を押し付けられる方がマシだと思った。そこには親の責任がある。しかし、世間の期待は無責任だ。自分が蓮に対して言ったのも同じことだ、と律は思った。
律は走り出した。新校舎の前を通り過ぎ、旧校舎へ向かった。そして、三階の音楽室を見上げる。
しかし、窓は閉まっていた。
律は大きく肩で息をして、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「蓮……」
その夜、律はベッドに横になり、スマホを握りしめていた。目から涙が零れ、鼻筋を通って頬に流れた。
翌朝、まだ薄暗いうちに目を覚ました。時計を見ると、五時半だった。もう一度眠ろうと目を閉じたが、律の胸に、何か焦りのような感覚が広がってきて、居ても立ってもいられずベッドから飛び起きた。台所へ行き、冷蔵庫からハムを一枚取り出して口に放り込む。それから洗面所で顔を洗って、歯を磨き、髪をセットする。
制服に着替えて部屋を出ると、ちょうど母親が起き出してきた。
「おはよう、早いじゃないの」
「うん、今日もちょっと早く行くよ」
律はカバンを持って、家を出た。
校門はまだ開いたばかりだった。人影もまばらな敷地を横切り、律は旧校舎の裏手へと回る。家庭科室のドアは、いつも通り開いていた。薄暗い廊下を、律は早足で進む。
三階の音楽室。扉のノブに手をかける。ギターの音も、ピアノの音も、何もない。
律はゆっくりと扉を開けた。
窓から朝の光が差し込んでいる。ピアノの陰になった床に、蓮が丸くなって寝ていた。制服のシャツは皺だらけで、髪もぺったりとしている。
「……蓮!?」
律は、蓮に駆け寄った。
蓮の瞼が、ゆっくりと開く。虚ろな目で律を見上げたが、すぐに刺々しい表情に変わる。
「……なんでお前がここにいるんだよ」
「なんでって……それよりお前どうしたんだよ。心配してたんだぞ」
「うるせえな。お前には関係ないだろ」
息が煙草臭かった。
蓮は身体を起こし、律から顔を背けるように窓の方を見た。朝日が目の下の青黒い隈を照らした。
「何があったんだよ」
「知らなくていいよ、お前は」
「知りたいんだよ、僕は」
「……お前には関係ないって言ってんだろ」
「関係あるだろ! 毎日、一緒に音楽室にいたのに。二日も連絡なくて……、心配するに決まってるだろ」
「心配? ははっ、笑わせてくれるな」
蓮は、乱暴に前髪をかき回した。
「うちのバカな母親、また再婚するんだと。相手のおっさんに会わされたよ。どうでもいいのに……。向こうが俺に挨拶するって言うより、なんか面接みたいでさ。品定めしてくるんだよ。鬱陶しそうな目で俺のこと見て。……それで、また引っ越すことになるかもしれないってさ」
律は、どう返事していいか分からず黙っていた。「どうでもいい」と言いながら、蓮が傷ついているのは律の目に明らかだった。蓮の顔から刺々しさが消えていき、力なく頭をうなだれた。
「だからさ、お前らみたいに、将来とか、才能とか、悠長なこと考えてる暇がないんだな、俺には」
「……ごめん。僕、何も知らなくて」
「そりゃそうだ。いま初めて言ったんだからな」
「でも……、でも、そんな風に自暴自棄になるなよ」
「うるさいな。お前には分からないよ。俺はまた、いなくなるんだよ。お前みたいに次が決まってる奴とは違う」
「決まってなんかいない! 蓮と出会う前の『次』なんて、最初から全部白紙だったんだ」
「なに言ってんだよ」
「僕だって、親に進路を押し付けられて、やりたい音楽も禁止されてこそこそやらなきゃなんない。自分の進路なのに、自分で決められないんだ。逆らえるほどに音楽の才能も無いし、他にどうしようもないんだ。……でも、逆らわなくても、僕は僕じゃなくなっていく気がする」
「そんなのお前が弱いからだろ」
「たしかに弱いかもしれないけど、蓮だっておんなじだよ。結局、僕たちは自分の人生に責任を持ってないんだよ。親に振り回されて自分が何もできないことを、親のせいにしてるんだよ。そうだろ?」
「……」
「周りから無責任に期待されて、それを重荷に感じてるんだ。ほんとは周りの期待なんか関係ないんだ。期待されてもされなくても、自分のことを信じられればいいんだ」
蓮は何も言わず、ただ律を見つめていた。その目に浮かんでいたのは、怒りというより、驚きに近いものだった。
律の声が次第に震えてきていた。目の奥が、じわりと熱くなる。
「だけど、信じきれない。……僕だって、苦しいよ……お前だけが、苦しいんじゃない」
そう言い終えた瞬間、律の目から涙が溢れた。抑えようとしても止まらない。堰を切ったように涙が流れ落ちていく。
蓮は、律の涙を見て、しばらく言葉を失っていた。やがて、ふいと視線を逸らして立ち上がった。
「……悪い。ちょっと、頭冷やしてくる」
律の横をすり抜けるように、蓮は扉の方へ歩き出す。
「待てよ!」
律は、蓮の腕を強く掴んだ。蓮はその手を振り払うことなく立ち止まった。
「……離せよ」
「離さない」
蓮がゆっくりと振り返る。
二人の視線が、至近距離でぶつかる。
蓮の目に動揺の色が浮かんでいた。動揺しながらも、律の目をじっと見つめ返していた。初めてあったときのような、相手を嘲笑う表情はどこにもない。生身の蓮が、そこにいた。
音楽室に、荒い息づかいが満ちていく。朝の光が、埃っぽい空気を白く照らし出していた。窓の外では、まだ蝉の声すら始まっていない、静かな時間が流れている。
律の手は、蓮の腕を掴んだままだった。指先に、蓮の体温と、微かに震える筋肉の感触が伝わってくる。
蓮の喉が、小さく上下した。何か言おうとして、口を開きかけて閉じる。律もまた、頭の中で言葉を探していたが、何一つ、形にならなかった。
ただ、互いの呼吸の音だけが、痛いほどはっきりと聞こえていた。
蓮の視線が、律の目から、わずかに下へと落ちる。律の唇のあたりで、その視線が止まった気がした。律の心臓が、これまでにないほど強く跳ねる。
――と、その時。
鋭いホイッスルの音が響いた。サッカー部だろうか、グラウンドから聞こえる複数の掛け声。
蓮がハッと我に返ったように律の手から腕を引き抜いた。そしていつものように口角を上げた。
「朝練、始まったらしいな」
「……うん」
二人は、それ以上何も言わなかった。ただ、さっきまでとは違う質の沈黙が、二人の間に横たわっていた。




