第五話 不完全なコード
半分まで来ました。
あれから二週間、律は当たり前のように、放課後を旧校舎の音楽室で過ごすようになっていた。
律は毎朝、小型アンプを入れたリュックと勉強道具の詰まったカバンを持って登校した。蓮は自分のギターと律のベースを運び入れた。
律が夏期講習を終えて音楽室に行くと、必ず蓮が待っていた。そして、蓮のあのオリジナル曲を、二人で一緒に作っていった。
帰りが少し遅くなる日が続いたが、家では「自習室に残ってる」の一言で押し通した。
誰にも知られていない、二人だけの秘密。
しかし、物事には、必ず代償がある。
「相沢、珍しいな。この計算ミス」
数学の教師が苦笑した。律は実力テストの答案を受け取って席へ戻り、間違った箇所を確かめる。単純な符号のミスであった。たしかに、普段の律ならこうしたミスは少なかった。
その日の講習を終えて連絡通路へ向かう途中、律は山城とすれ違った。
「相沢」
「はい」
「最近どうした。心ここに在らず、って感じだな」
「そんなことないんですが……、すみません、気をつけます」
山城はしばらく律の顔を見つめていた。律は顔を伏せたままじっとする。少し伸びてきた前髪が、眼鏡にかかっていた。
「受験は長いからな。ペースを守ることが大事だぞ」
「はい」
山城は、律の肩を軽く叩いて去っていった。
律はその後ろ姿を見送りながら、小さく息を吐いた。カバンを持ち直し、連絡通路へと足を向ける。いつものように後ろを振り返り、誰もいないことを確認して黄色いテープをくぐる。熱気が身体を包むこの瞬間、いつも、身体の力がすっと抜けていく。
黄色いテープは、律が通り抜けるところだけ次第に弛んできていた。
音楽室の扉を開けると、蓮はいつも通りピアノの椅子に腰掛け、律のベースの弦をぼんやりと爪弾いていた。
「おう、やろうぜ」
「うん」
律はリュックからアンプを取り出しながら、小さく笑った。
今日も、いつものイントロから入る。蓮が刻む単調なリズムに、律のベースが重なっていく。律は目を閉じ、音に集中する。二人の呼吸が、音の中に溶けていく――。
ひとしきり弾き終えたところで、蓮が晴れやかな表情で天井を仰いだ。ちょうど律も疲れたところだった。
蓮が天井を見上げたまま言った。
「まだまだ暑いな」
「まだ八月だからね」
「そりゃそうだな」
律はベースのストラップを肩から外し、床に座り込んだ。そして蓮と同じように天井を見上げた。天井は音響を考えてドーム状になっており、壁には音を吸収する素材が――ところどころ剥がれているが――貼られている。意識したことは無かったが、そういう目で見るとよくできた部屋だと律は思った。三年生になってから音楽の授業は無かったので、律は新校舎の音楽室を見たことはなかった。それなりによくできたものなのだろうと想像する。とはいえこの音楽室は、新校舎になってから転校してきた蓮が、わざわざここへ通うだけの理由がある空間だった。
「ねえ、蓮はどこの大学に行くの?」
「は? 何だよ急に」
「いや……蓮の音、聴いてると思うんだ。音楽の道に進んだほうがいいんじゃないかなって」
蓮は視線を落とし、ギターの弦を軽く鳴らした。
「音楽に道なんて無いだろ。音楽道みたいなものはあるかもしれないけどさ、精神論として」
「音大とか、専門学校とか。ちゃんとプロになる道はあるよ。それともバンドとかでJ-POPの道?」
「……あのな」
蓮の声が、わずかに硬くなった。
「俺は、そもそも高校出た後のこと、あんま考えたことないんだよね。その時が楽しけりゃいいんだよ」
軽い口調を装ってはいたが、その下に、律が初めて聞く硬さが滲んでいた。律は、その温度差に戸惑いながらも、なぜか引き下がれなかった。
「でも、才能がもったいないだろ。僕なんかより、ずっと――」
「才能とか、そういう話じゃねえんだよ。俺は、お前とは生き方が違うんだ。進路決めて、そこにまっすぐ進んでいくなんてことは、俺にはできないんだ。俺には向いてないんだよ、そういうのは」
「僕だって……、将来のことは分からないよ。何が正しいのかも分からないし。でも、蓮には才能がある。技術もある」
「うるさいよ。才能があったらその道に進まなきゃいけないのかよ。そんなことねえだろ?」
「だけど――」
「成功したかったら、ってことだろ? 成功したかったら、才能のあることをやったほうがいいって。でも、成功なんかしたくなかったらどうなんだ。お前は、勉強できるんだし、それは才能だと思うよ。その才能を活かしていけばいい。でも、俺は違うんだ」
律は言葉に詰まった。自分には何も才能が無いから、親に言われるまま勉強しているのだと思っていた。勉強ができるのも才能……。でも、それはどういう才能なのだろうか。試験でいい点を取ることに、何の意味があるのだろう。そして、その先の成功とはなんだろうか。
「なんか……ごめん。適当なこと言っちゃって」
「……俺も、つい熱くなって言い過ぎたかもしれない。悪かったな、変なこと言ってさ。……もう、この話はやめようぜ」
「うん」
気まずい沈黙が、二人の間に落ちた。蝉の声が、やけに大きく聞こえる。
蓮はギターに向き直り、指を弦にかけた。だが、次に鳴らされた音は、いつもの旋律とは違っていた。
ジャン、と歪んだ不協和音が音楽室に響き渡る。
律はビクリとした。蓮は俯いたまま、何も言わない。その横顔から、律が今まで見たことのない、苛立ちにも似た色が滲み出していた。
蓮はそのまま、何かを振り払うようにギターをかき鳴らし始めた。それはいつもの旋律ではない。蓮の別の曲か、アドリブか。破滅的な旋律と、暴力的な和音。聴いていて落ち着かない。律は戸惑いながらも、ベースを構える。
しかし、合わせることができない。
蓮のギターが先走る。律がそれを追いかけて音を差し込むと、今度は蓮が急にテンポをずらす。まるで、律を振り落とそうとしているかのようだった。いつまでもずれたまま、二つの音がただ同じ空間で鳴っているだけだった。
律は手を止めた。
「ちょっと待てよ。やめろよ」
蓮は、律の言葉を無視して演奏を続ける。
「やめろって」
ジャン、と激しくかき鳴らし、蓮は演奏を止めた。
「ダメだ、今日は」
蓮はそう言って、ギターを膝の上に置いたまま、苛立たしげに窓の外を見た。
「だから言ったろ? 俺には向いてないんだって。ちょっとでも気分が乱れるとこうなっちゃうんだよ」
律はベースを下ろして、その横顔を見つめた。蓮の瞳には、いつものいたずらっ子の光はなく、暗く寂しい影があった。それはここで初めて出会ったときの瞳に似ていた。あのときは威圧され、いくらか恐ろしくもあった。けれど今、律の中には、異なる感情が渦巻いていた。
「蓮……」
律は、何か言葉をかけたいと思ったが、うまく言葉にまとまらなかった。それよりも、身体が自然と蓮に近づいていた。
と、その時、ブブ、と鋭い音がした。ピアノの上に置かれていた蓮のスマホが短く震えたのだった。
律は硬直した。
(今、僕は何をしようと――?)
蓮は、スマホを取り上げた。
画面を一瞥した瞬間、蓮の表情が強張った。
「……蓮?」
律が声をかけても、蓮はしばらく画面を見つめたまま動かなかった。やがて、スマホを乱暴にポケットに突っ込むと、ギターを手早くケースにしまい始める。
「悪い、今日はもう帰るわ」
「え、でも」
「また今度な」
蓮はいつものように口角を上げたが、その目は笑っていなかった。律の手からベースを取り上げ、ソフトケースにしまう。それを肩に担ぎ、自分のギターケースを持って、音楽室を出ていった。
律は一人、蒸し暑い音楽室に座っていた。しばらくの間、蓮が座っていた椅子を見つめていたが、ふと我に返ると、アンプをリュックにしまい、窓を閉め、音楽室を後にした。




