第四話 夕立と熱帯夜
10回中の第4回です
二人が家庭科室のドアから外に出たとき、空はすっかり鉛色に変わっていた。敷地の端を通っていき、校門を抜ける。そこで、大粒の雨がぽつり、ぽつりと顔を叩き始めた。
「うわ、来たな」
蓮がそう言った直後、雨脚は一気に強まった。
「こっち!」
ギターケースを抱きかかえて蓮が坂道を駆け下りていく。律は、ベースケースを肩に担ぎ、小型アンプを入れたリュックを背負い、それからカバンを手に提げて蓮の後を追う。眼鏡が濡れないように左手をかざす。
蓮が坂の途中で角を曲がった。古びた鳥居が見えてくる。
あっという間に土砂降りとなる。
蓮が振り返って、雨音にかき消されぬように叫ぶ。
「あそこ!」
びしょ濡れになって二人は鳥居をくぐり、拝殿の軒先へ滑り込むように駆け込んだ。息が上がり、二人ともしばらく声も出せずにいた。雨はますます勢いを増し、境内の砂利を激しく叩いている。
「ひどい目に合ったな」
蓮は膝に手をついて笑っている。律は肩で息をしながら、ベースケースを下ろした。表面の水を手で払う。
「大丈夫か?」
律はケースのジッパーを少し開け、中が濡れてないか確かめる。
「なんとか大丈夫そう」
それからリュックを下ろし、こちらの中身も確かめる。まだ中まで水は染みてきていなかった。律はほっと息をつく。
「そっちは?」
「これは大丈夫だよ。その代わり重たいけどな」
蓮はギターのハードケースをコンコンとノックした。
しばらく二人は黙ったまま、雨を眺めていた。白く煙る景色と、激しい雨音。二人は透明なカプセルに覆われているようだった。
律は濡れた髪を後ろに流し、カバンからティッシュを出して眼鏡を拭いた。眼鏡を外した律の顔は、普段よりやや幼く見えた。けれど、知性的な額と、きれいな鼻筋がよく見えた。それから、眼鏡をかけ直すと、ふと思い出したようにカバンを開け、中を探った。そして、進路希望調査票を取り出した。こちらは父親が書いたものだ。
蓮は穏やかな表情で、律の動きを黙って見ている。
律は立ち上がって、進路希望調査票を雨の中に突き出した。
「何やってんだよ」
「いいんだ、これで」
父親の筆跡が雨に滲んでいく。
「やっぱり、お前はおもしろい奴だよ」
蓮がくつくつと笑う。
律は拝殿に座り、濡れた父親の筆跡を眺めた。「京都大学法学部」の文字がぼんやりと読み取れる。
「あのさ……。ベース、そう簡単には持ち出せないんだ」
「なんで?」
「うん……、親に、禁止されてるんだ。受験が終わるまで」
律は俯いた。
「そっか」
「今日も、誰にも見つからないように朝早く来て、あそこに隠して……って、こんなことは続けられないよ」
蓮はしばらく黙って律を見ていたが、やがて軽い調子で口を開いた。
「じゃ、俺が預かっといてやろうか?」
「えっ」
律は言葉に詰まった。両親だけで旅行に出た三日間でさえ、リビングに出しっぱなしにしなかったベースだ。それを、出会ってまだ数日の、素性もろくに知らない、しかも評判の芳しくない相手に預ける。
けれど、さっきまでの、あの音を思い出す。あの感情を思い出す。ずれては噛み合い、噛み合ってはまたずれる、あの危うい呼吸。蓮が笑った瞬間の、屈託のない顔。律は、自分でも説明のつかない感覚で、すでに蓮を信頼し始めていた。
「……分かった。頼む」
「オッケー。ちょっと俺の荷物が多いけどな。それにしても、いいのか、俺に預けて」
律は蓮の顔を見つめて、頷いた。蓮はその真剣な眼差しを受けて、いつものようにそっと口角を上げた。それからギターケースにもたれかかって上を向き、軒先から流れ落ちる雨粒を眺め始めた。濡れた髪が額に張り付き、時折、雫が頬を伝って顎から滴り落ちる。白いシャツは肌に貼りつき、その下の肌色が透けて見えている。律はそれを視界の端で捉えたまま、視線を逸らすことができずにいた。蓮の横顔は、いつもより幾分無防備で、あどけなかった。律の鼓動はなぜか高鳴り、ごくりと唾を飲み込んだ。喉仏が大きく上下した。
「なあ」
蓮が不意にこちらを向いた。律は慌てて視線を雨に逃がす。
「な、なに?」
「別に。なんか静かだなと思って」
蓮は特に気にする様子もなく、また前を向いた。律は胸の内でほっと息をつきながらも、鼓動はまだ落ち着かなかった。
「瀬名……くんは、前はどこにいたの?」
「蓮でいいよ。俺も、お前のこと、律って呼ぶけど、いいよな?」
「あ、ああ、いいよ」
「俺さ、律に『瀬名くん』なんて呼んでもらえる価値ないから」
「だから、そんなことないって」
「俺、引っ越しばっかりでさ。前がどこだったかなんて、覚えてねえよ。すぐに転校しちゃうんだ。今はじいちゃんちから通ってんの。俺はすぐに問題起こすし、母親は男に頼ってばかりのダメな母親でさ。……俺が『瀬名』になったのは一昨年で、もう俺の名字三つ目なんだぜ? ちなみにこれが母親の旧姓で、じいちゃんの名字なんだけどね」
後半のトーンがほんの少し低くなったことに、律は気づいた。
「……ここも、そのうち出てくのか?」
「さあな。俺の人生、あんまり先のこと考えても仕方ないし」
その口調はいつもの軽さを取り戻していたが、律にはそれが、わざとらしく感じられた。
律はカバンからスマホを取り出した。
「連絡先、交換しよう」
蓮は頷いて、ズボンのポケットからスマホを取り出した。
「インスタグラムでいいか?」
「うん、僕もアカウントあるよ」
蓮が画面を操作して、スマホを律に渡す。
割れた画面に、蓮のインスタグラムのアカウントが表示されている。フォロワー数は驚くほど少なく、投稿もほとんど無い。プロフィール写真もない。ただの灰色のアイコンだった。律は、自分のスマホで蓮のアカウントを検索し、フォローボタンを押した。
「フォローしといたから、フォローバックしといてよ。そしたらDMでやり取りできるよ」
蓮は律からスマホを受け取り、画面を操作する。
「した」
雨は、しばらくして小降りになった。雨音が聞こえないくらいになり、朱い鳥居がはっきり見えてきた。灰色の雲の隣には青空が覗いている。
「そろそろ、やみそうだな」
蓮が立ち上がり、ベースケースを肩に担いだ。律も、スマホと濡れた調査票をカバンにしまって立ち上がる。
「その、アンプは、お前が持って帰るよな?」
「うん」
「よかった。それも持たされたら、ちょっと重いよな」
雨はほとんど見えないくらいになり、二人は拝殿を降りた。濡れた境内の砂利を歩き、鳥居をくぐって神社を出る。それから駅まで、ほとんど言葉を交わさなかった。律の頭の中には、話したいことがいくつも浮かんでいた。自分のこと、自分が知っていること、くだらないこと、それら全部を話したい気持ちでいっぱいだった。けれど、どれから話せばいいのか分からず、何も言い出すことができなかった。
駅に着いた。
「俺、こっちだけど」
「じゃ、反対だ」
「そっか。じゃあな」
「うん、連絡するよ」
二人は改札を抜け、別々の階段を上っていった。律は階段を早足で上がり、向こうのホームに蓮が現れるのを待った。階段の壁からギターケースの先が見えて、すぐあとにベースを担いだ蓮の姿が見えた。律は、片手を挙げた。蓮も手を挙げて、ひらひらと振った。
蓮のホームに電車が入ってくる。蓮は律に向かってニコッとして、電車に乗り込んだ。扉が閉まり、電車が走り出す。
律は、電車が見えなくなるまで、ずっと見ていた。
自宅に着く頃には、西の空は夕焼けになっていた。生温かい風が、雨上がりのアスファルトの匂いを運んでいた。
「ただいま」
「あら、ずぶ濡れじゃない。折りたたみ傘、持ってなかったの?」
「急に降ってきたから」
「進路希望調査票は、ちゃんと出した?」
「……うん。あとでもう一回、名前書いて」
シャワーを浴びる。熱いお湯を頭から浴びながら、今日の蓮とのセッションと、境内での、あの妙な感覚を思い出していた。蓮の濡れた横顔から、どうしても目が離せなかったことを――。
シャワーを出て部屋へ入ると、生ぬるい空気が淀んでいた。律はいつものようにエアコンのスイッチに手を伸ばしたが、押すのをやめた。律は窓を開けた。いくらか涼しい風が入ってくる。蝉が数匹鳴いている。
律はベッドに横たわり、天井を見上げた。さっそく汗ばんできた肌にTシャツが張り付く。律はスマホを手に取った。
トーク画面には、まだ何も表示されていない。フォローバックされたばかりの、灰色のアイコン。律はしばらくそれを眺めていたが、自分からメッセージを送ることにした。連絡先を交換しようと言い出したのは自分の方だった。
『おつかれ』
打ってみたが、消去する。素っ気なさすぎるだろうか。かといって、絵文字をつけるのも、ちがう気がする。
『今日、楽しかった』
律は文面を睨みながら、自分でも驚くほど長い時間、その短い一文の是非を吟味していた。
(……何をやってるんだ、僕は)
『おつかれ。今日、楽しかった』
律は、メッセージを送信した。
しばらく待ってみるが、既読にはならない。まだ家に帰っていないのだろうか。それとも、スマホを見る習慣がないのかもしれない。そういえば、家がどこかも聞いてなかったし、自分も言っていなかった。まだまだ知らないことばかりだ。
夕食後、進路希望調査票にあらためて親の署名をもらうことができた。事情は山城に言った通り、『雨で濡らしてしまった』と告げた。これは本当だ。
部屋へ戻ってインスタグラムを確認する。まだ既読になっていなかった。
いつものように机に向かうが、まったく勉強が手につかない。蓮に何かあったのだろうかと不安になる。こんなとき気分転換するためのベースも無い。律は部屋の中をうろうろと歩き回った。そうかと思うと椅子に座り、わけもなく眼鏡をティッシュで磨く。もう一度メッセージを送ろうと考える。
『無事帰れた?』
打ち込んで、消した。しつこい奴と思われるのも嫌だ、と律は思った。時計を見ると、もう十一時を回っている。明日はどうするのだろう。またアンプを持っていった方がいいのだろうか。
律はベッドに入って、目を閉じた。寝苦しい熱帯夜だった。
しばらくして、スマホが震えた。律は飛び起きて画面を開いた。
『俺も』
いったい何に対する返信なのか、自分が送った内容も忘れていたが、それでも蓮から返事があっただけで律はうれしかった。
律はすぐに返信した。
『明日はどうする?』
すぐに既読になった。今、蓮もスマホを見ているようだ。
『ギターとベース持ってく』
『わかった、アンプ持ってくね』
既読になったが、返事はない。これで会話が終わったのだろうか。律はスマホを充電器につなぎ、再びベッドに横になった。エアコンをつけない夜は蒸し暑い。けれど、今の律には、この空気が心地よかった。
スマホがまた震えた。律はまた起き出して画面を開いた。
『おやすみ』
律は、思わず顔がほころんだ。
『おやすみ、また明日』




